第四話 風の向こう側
その公園は、いくつかの街灯に照らされていた。灯りの落ちた住宅地の中にあって、少し異質な存在感を放っている。周りより数センチ浮きあがった小島なのだと言われても、納得してしまいそうだった。
祐一は、低いポールの間を抜けて公園に足を踏み入れた。アスファルトとは違う砂交じりの土の感触が、靴底の裏からざらりと伝わる。それはちょっとした違和感だったが、何歩か歩いているうちに気にならなくなった。むしろ、平板なアスファルトよりも心地よいくらいだった。
公園の中を見回したが、女の姿はなかった。自分はからかわれたのかもしれない。あの美女にも、老婆にも。『女難の相』とは、よく言ったものだ。
女の代わりに、祐一は別の美しいものを見つけた。それは一本の桜の木だった。
「ああ、ここにも桜があるんだ……」
それは、鉄棒と砂場を抜けた先にあった。満開の花は少し強めの夜風に吹かれて、音もなくさらさらと散っていた。
自然と足がそちらに向かった。桜の下にはブランコがあって、風で微かに揺れている。
「あっ……」
ブランコに近づいた時、動き出す影に気づいた。影は桜の幹から離れて、こちらに歩いてきた。
「北見祐一。ちゃんと来たのね。もしかしたら来ないかと思っていたけど」
「…………」
あの女だった。女は昼と違い、しなやかなシフォンのブラウスとロングスカートを身にまとっている。赤い髪はそのままなのに、どこか神聖な妖精のように見えた。
「子どもの頃、ブランコって好きだったな。いつまでも乗っていたいって思ったものよ」
女は、ブランコの上に乗った花びらを片手で払うと、その上に座った。そしてそれを、ゆっくりと漕いだ。
「あのさ……」
このままごまかされてしまうような気がして、祐一は言葉を探した。
「昼間言ってたのはどういうことかな」
「あの時言った通りの意味よ」
女は、少し挑戦的な笑みを浮かべた。
「じゃあ、いま信彦はどこにいるんだ」
「…探すのはあなたよ。わたしじゃない」
「なんだよ、それ……。だいたい俺の方は、あんたの名前も知らない」
「わたし?…そうねえ。カタカナ表記で『マリカ』っていうのはどう」
「それ、本名なのか?……じゃあ、苗字と学部……」
「そんなのどうでもいいことよ」
女……マリカは祐一の言葉を途中で遮った。
「ねえ、祐一。あなたは河名信彦に会えればそれでいい。だったら、余計な知識は邪魔なだけでしょ」
祐一を黙らせてから、マリカはブランコを勢いよく漕いだ。まるで、落ちてくる花びらの中に飛び込むようだった。
マリカの着ているシフォンのブラウスとロングスカートが風ではためく。
風と、マリカと、ブランコ、そして桜の花びら。その組み合わせは美しくて、誰かの描いた一幅の絵のようだった。
「ちょっと、なにしてるの」
「えっ…」
「早く隣のブランコに乗って。じゃなきゃ永遠に行けないわよ。彼のところに」
「……」
祐一は、ためらいながらブランコに座った。見える世界の位置が変わる。すぐ隣で、マリカのブランコが揺れ、真上から桜が降り注いだ。
「いい?わたしと同じ速さで漕ぐの。早過ぎても遅過ぎてもだめよ」
言われたとおりに漕いでみる。しかし、ブランコは思ったように動かず、マリカとはすれ違うばかりだ。
「ああ、見ちゃだめ。目は閉じて。頼れるのは鼓膜が拾う音と、肌が感じる風だけ」
導かれるように目を閉じた。突然ブランコのきしみ音が大きくなり、全世界に広がったような気がした。そのきしみ音の中で、風が祐一の頬を撫でる。
―……早過ぎる……?いや……きっとこんな感じ……。
やがて、祐一を包むすべてのものがじわりと滲み始めたような気がした。自分は風に溶けて行く。このまま、どこへでも流れて行けそうだ。
「さあ、手を離して」
その時耳元でささやく声が聞こえた。
―ああ……どこか、ここじゃない所に行けるんだ……。きっと信彦のところへ……。
迷いや怖さを期待が打ち消した。祐一は手を離し、空間にその身を預けた。