第二話 重い鍵
目の前の黒板に書かれた文字がどんどんぼやけて行く。それは、遥か昔に考えられた有名な数式であったはずだが、もはや白い模様になりつつあった。
―……眠…い……。
祐一は右手の中指で眼鏡を上げた。視界が揺れ、眼鏡の黒い縁が映り込む。『眠りたい』という本能に対するわずかばかりの抵抗だ。しかしむなしいことに、その三秒後にはもうまぶたが閉じかけていた。
晴れて志望大学の文学部人文学科に入った時は、もう苦手な数学を学ぶ機会などないと思っていた。ところが、大学には『一般教養』というものが存在する。専門分野以外の教科も、必ずいくつかは取らなければならないというわけだ。『数学なんて、ほとんどが一般的な教養からはかけ離れてるだろ』そんな抗議をぶつけたいところだが、残念ながらぶつける相手がわからない。
眠気との戦いに疲れ果て、祐一はふっと窓の外に目をやった。
ここ二階の窓からは、ちょうどキャンパスに咲く満開の桜がよく見える。時々風が吹くと、それが少しだけちぎれ、空に舞った。
―もう、二年になるのか……。
河名信彦が自分の前から姿を消したのも、ちょうどこんな季節だった。高三になったばかりの春だ。
『満開の桜を見に行こうよ』
それが信彦の残した最後の言葉だ。待ち合わせた場所に行った時、信彦はもういなかった。そこにはただ、信彦の学生鞄がぽつりと置かれているだけだった。
もう少し早く行けばよかった。せめて、どこの桜を見に行くのか聞いておけば……。後悔の感情は、今も胸の内に渦巻いている。いまだに信彦の行方はわからない。生きている保証もない。でもまだ間に合うのなら、なんとしてでもあいつを救いたかった。
「お前はどこに行ったんだ」
声は出さず、息だけでそう言った。誰にも聞かれるはずがない、春の風に溶かすだけの言葉だった。なのに……。
「そんなに知りたいの?」
ぎょっとして振り向いた。今まで隣には誰もいなかったはずだ。なのにいつの間に来たのか、女が一人座っていた。
一瞬、女の存在感に圧倒されそうになる。ぎらぎらとした光を放つ切れ長の大きな目、短くて赤い髪、広く胸の開いた紺色のタンクトップ、その組み合わせが絶妙な美しさを醸し出している。
だが、祐一は今までこの女を見たこともなかった。
「……誰……?」
「さあ」
女は笑いながら、手首につけたブレスレットを外した。
「ねえ、これなんだかわかる?」
「……ブレスレット……」
「そうじゃなくて、これ」
細い指先が指し示しているのは、ブレスレットの先端だった。よくみると、そこには小さな鍵がついていた。鍵は銀色に塗られていて、角度を変えるときらりと光った。
「鍵……だけど」
「これ、あげようか」
「いや、もらう理由がないし」
この女、少しおかしいんじゃないだろうか。祐一はそう思い始めた。自分はたいして目立つ所のない普通の大学生だ。雑誌のモデルのような女がいきなり近づいてくるなんてありえなかった。
「ふうん。まあ、わたしはどっちでもいいのよ」
女は妖艶に笑って、いきなり顔を近づけてきた。甘くて少し毒々しい花のような香りが、前触れもなく肺に忍びこんできた。
「でも君は、信彦くんに会いたいんでしょ」
その囁きもまた、祐一の中にするりと入り込んだ。祐一はぎょっとして女を見た。
「なんでそれを……」
「今夜十時、この鍵を持って谷町公園に来て。もしかしたら、彼に会わせて上げられるかもしれない」
女はブレスレットから鍵をはずし、それを目の前でちらちらと振る。揺れる銀色に思わず手を伸ばした。手にした鍵は見た目よりも重くて、掌にずしりと食い込むようだった。
「じゃあ、またね」
女は授業中にも関わらず、堂々と教室を出て行った。祐一はただ茫然として、彼女の後姿を見つめていた。