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第十五話  僕のおひさま

 父親の書斎に入るのは初めてだった。

 ドアノブを回す瞬間、片山洋司はかすかな緊張を感じた。

―馬鹿だな……。もうあの人はいないのに。

 洋司の頭の中に、子供の頃の記憶が鮮明によみがえる。

 この部屋に入ろうとした時、父水瀬和明は洋司をひどく叱った。

『ここは子供の来るところではない。大事なものがたくさんあるのだから』

 自分はただ父に会いたかっただけだ。満点を取ったテストを見せてほめてもらいたかった。なのに……。

―あなたの、財産に関する書類を確認させてもらいましょうか。まあ財産の総額は調査済みなんですがね。

 しかしドアを開けた瞬間、ふわりと風が通った。誰もいない部屋だ。窓も鍵が閉まっているべきだろう。洋司はあわてて灯りのスイッチを押した。

「遅かったじゃないですか、ボス」

 大きな椅子がくるりと回転して、すわっていた細身の女が優雅に降り立った。洋司は眉をひそめて、その女をにらんだ、

「よくわたしの前に顔を出せたものだな、マリカ。先日は、同胞を三人ほど昏倒させて逃げたそうじゃないか」

「殺さないでおいてあげただけ、感謝してもらえませんか。わたし、自分より弱い子たちには優しいんですよ」

 洋司はため息をつくと、改めてマリカを見た。

「確かに君は、優秀な部下だった。だからこそ、敵方に回れば厄介なんだ。ここに来たってことは、自分から死に場所を探しに来たのかな」

 洋司は胸ポケットから小さな銃を取り出す。アメリカにいる時、これは自分にとって必需品だった。日本に戻ったからといって、簡単に手放すわけもない。

「あらあら、物騒なものをお持ちで」

 マリカはそう言うと、いきなり引き出しの中のものをぱらぱらと床に撒いた。それはどれも、何も書かれていない真っ白な紙だった。

「これは……」

「水瀬和明氏の財産に関する重要書類は、すべて別所で保管しています。だって、こんなところ物騒じゃないですか。身内に泥棒がいるんですから。ああ、ちなみに水瀬和明氏はけが一つなくお元気にしてらっしゃいますよ。ちゃんと保護して差し上げましたから」

「……お前……」

 洋司は怒りで体を震わせた。自分が、こんな小娘の掌の上で踊らされたなどと考えたくもない。

―こんな女……存在ごと消してやる……。

 洋司はマリカに向けて銃を構えた。しかしそんな洋司に、マリカは肩をすくめて妖艶な笑顔を向けた。

「いいんですか、そんなことをして。水瀬の居場所も、書類の保管場所も、みんなわたしが……」

「そんなもの、調べればすぐにわかる。今はまず、お前を罰しなければならない」

 洋司は引き金に指をかけ、それを引こうとした。少し面倒なことになるが、それも仕方がない。だが引き金は、なぜだか少しも動こうとしなかった。

―どうして……。

 銃に目を向けた瞬間、洋司は目を見張った。いつの間にか、銃に白い蛇が巻き付いている。それはちょろちょろと赤い舌をちらつかせながら、洋司をじっと見ていた。

「くそっ」

 洋司は銃を振って、蛇を振り落とそうとした。しかし、蛇は銃から洋司に手に乗り移り、その手首をぎりぎりと締め上げた。

「人の命をなんだと思っておる」

 洋司の後ろから聞こえたのは、しわがれた老婆のような声だった。その瞬間、蛇が腕の中にしみこむようにして消えた。ぞっとするような冷たい感覚におびえながら、洋司は後ろを振り向く。しかしそこに人の気配はなく、今まで部屋にいたはずのマリカまでどこかに消えうせていた。



◇◇

 扉を細めに開けて、加奈はそっと中を覗きこんだ。自分の部屋に入るのにこれだけ用心させられるのはひどく理不尽な気がする。でも、この状況を選んだのは自分自身でもあった。

「具合……どうですか……」

 加奈は遠慮がちに声を掛けたが、冬馬は目を開けなかった。ただ、荒い呼吸だけが鼓膜を奮わせた。

―さっきよりも悪くなってるような気がする……。

 誰かが苦しむ顔を見ているのはつらいことだ。加奈は、冬馬のために準備してきた氷枕を出して、彼の頭を少しだけ持ち上げた。

「……かあ……さん……」

 その時冬馬の唇から小さな声が漏れた。加奈は思わず手を止めて、冬馬の顔を凝視した。

「……かあさん……行かないで……僕は母さんが……大好き……だから……」

 その両目から涙が流れ出す。加奈は思わず冬馬の手を取った。

「大丈夫よ。行かないから、安心して」

「……うん」

 冬馬の表情は、次第に穏やかなものに変わっていった。加奈はとりあえず安堵のため息を漏らしながら、独り言をつぶやいた。

「あなたも悲しみを抱えているんだね。……でも、わたしだって悲しいよ。信彦がいなくなって……」

『……加奈……』

 そのかすかな声は、冬馬の中のずっと深い場所から聞こえてきた気がした。

―空耳かもしれない。でもいま、この人から信彦の声がした……。

 加奈は息を潜め、耳を澄ました。

『……加奈…悲しまないで……加奈は…今でもずっと……僕の…おひさま……だから』

「えっ」

 『加奈は僕のおひさまだから』

それは信彦が、加奈に告白したときの言葉だった。加奈は震えながら冬馬を見た。

「……あなたは……信彦……なの……?」

 その時、背後でドアが乱暴に開いた。加奈がぎょっとして振り向くと、そこに立っていたのは知らない白衣の男だった。

 男はまだ若く、背がひょろりと高かった。病院にはそれなりに出入りしている加奈だが、今までに一度も見たことがない顔だった。

「……あなた……何の権利があってここに……」

 加奈はうろたえて男をにらみつけた。

「そんなに怒らないで。僕は敵じゃないから」

 男は『降参』とでも言うように両手をあげて見せた。

「突然人の家に入ってきてそんなことを言われても、信じられません」

「まあ、そう言わないで。君が騒ぐと人が来るよ。そんなことになったら困るでしょ。彼は追われてるんだから」

「……あなたは、彼を捕まえに来たんじゃないんですか……」

「違うよ。彼の具合が心配で、様子を見に来ただけ。なにしろ熱が高かったからね。彼が警戒病棟に帰りたくないのなら、それでもいい。でも、熱は下げないと」

 男はずっとなごやかな表情のままだ。この男の言葉を信じてもいいのではないか。加奈はそんな気がし始めていた。

「じゃあ、彼のために薬をもらえるんですか」

「いや。薬よりも注射の方が、効き目が早いからね。今すぐ一本だけ打たせて欲しいんだ。それを打てば、熱も下がってよく眠れる」

「そう…ですか……」

 加奈は、眠っている冬馬の頬にそっと手を触れた。

 彼は信彦なのかもしれない。そんな思いが胸の中に芽生え始めている。それがどういうことなのか、自分でもよくわからない。でも、だったらなおのこと、一刻でも早く彼を苦しみの中から救い出したい。

「わかりました。お願いします」

 加奈は男に向かって、丁寧に頭を下げた。

「ええ。お任せください」

 男はかばんから注射器を取り出し、それに液を入れ始めた。液は赤褐色で少しどろりとしているように見える。それを体に入れると思うと、ぞっとする色合いだった。

―あ……。

 加奈はふと、違和感を覚えて男の姿を凝視した。この病院の医者なら、必ず胸に下げているカードがない。カードは鍵にもなっていて、病院のどの部屋に行くにも不可欠だ。

「あなた……うちの病院の医者じゃないんですか」

「どうしてですか」

「だって、カードを下げていらっしゃらないから……」

「ああ……」

 男は微笑んで、加奈に向き直った。

「一つ言い忘れていました」

「はい……」

「注射は彼にするんじゃない。君にするんですよ。君は知りすぎた」

 一瞬で男の顔が変わった。優しく穏やかな表情は消えうせ、代わりに冷酷な残忍さが広がった。

 加奈は伸びてきた男の腕をかいくぐって扉に向かった。しかしノブに手を掛けたところで、男に引き倒された。

「……なにを……」

「なにをするのかって?」

 男は加奈の上に馬乗りになると、注射器を構えた。

「永遠に眠らせる薬を君に上げる。やっぱり女の子は、静かな方がいいよ。眠れる森の美女って、言うだろ」

「やめて!」

「ほら、暴れると、もっと……」

 突然ドアが開いて、頭上で何かがはじける音が聞こえた。加奈の上から男が滑り落ちていく。開けた視界の向こうに立っていたのは、兄の義弘だった。

「……お兄……ちゃん……」

 その姿を見た瞬間、涙が滲み出してくる。義弘は体を震わせながら加奈を見つめた。

「加奈……俺は……加奈をこんな目にあわせるつもりじゃなかったんだ……」

 義弘は、廊下に置かれていた壷を握っていた。だがその壷は、口の部分を残して木っ端微塵に割れている。

「俺はただ……加奈を母さんみたいにしたくなくて……」

「お兄ちゃん、それ、どういう意味……?」

 義弘は加奈の問いに答える代わりに、持っていた壷の残りを投げ捨てた。そして床に落ちていた注射器を拾い上げて、それをいきなり男の腕に刺した。

「だめよ、そんなことしたら。その人、死んじゃう。お兄ちゃんが殺したことになっちゃうよ」

「大丈夫だよ。これは睡眠薬だから」

 義弘は空の注射器を投げ捨て、深いため息をついた。

「最近、警戒病棟で使い始めた薬だ。この薬は、とても深い睡眠を引き起こすんだよ。これを注射されれば、普通何ヶ月も眠り続ける。まあごく稀に、睡眠を拒絶して高い熱を出す患者がいるくらいだ。……信彦くんみたいに……」

「信彦?」

 加奈は義弘が見つめる先を追った。そこには苦しげな表情で眠る冬馬がいる。

「彼は……冬馬でしょ」

「冬馬であり……信彦くんだ……二人は一つの体の中にいる」

 加奈にはその意味を理解することなどできなかった。ただ、さっき聞いた信彦の言葉は、幻ではなかったのかもしれない。そう思えた。

 『加奈はぼくのおひさまだから』



◇◇

 病院の消灯時間は、夜の九時と決まっていた。

 部屋の明かりが暗く落とされ、祐一もベッドの中で目を閉じている。

それでも、頭の中はまだはっきりと目覚めていた。

まぶたの裏には、今でも白く光る螺旋階段がはっきりとよみがえっている。最初そこに行くために、公園のブランコに乗った。次は自分の家のソファから時計を使ってそこに行った。

『そこ』とはどこか。物理的な距離では測れない場所。空間の歪み?別の次元?それとも……。

「ちょっと失礼するよ」

 カーテンの向こうから声が聞こえて、祐一は目を開けた。看護師が見回りに来たのかと思ったが、カーテンを開けたのはずいぶんと小さな影だった。

「あなたは……」

「暗いままでいいだろう?年寄りの顔をさらすこともあるまい」

 その声には聞き覚えがあった。祐一は懸命に記憶を手繰り寄せた。

「あなたは……もしかして商店街で……」

「そんなことはどうでもいいよ」

 老婆はそう言うと、祐一の手に冷たい金属を握らせた。

「これは……」

「時計じゃよ。一度マリカがお前さんに貸したものだ」

「あの時計をどうしてあなたが……」

「お前さんが救急車で運ばれる直前、マリカがはずしておいたのさ。もしつけたままにしていたら、あいつらにとられるところじゃった」

「『あいつら』って誰です?」

「『深層心理研究会』という、ふざけた名前の連中じゃ。その内実は、人間というものをもてあそぶだけの集団でな……。もっと詳しく説明してやりたいが、今は時間がない。何しろここは、敵の陣地内。わしもゆっくりはしておれんのじゃよ」

 すべてを理解するには、とても十分と言えない説明だった。でも、それ以上の説明を求めたところで難しいのだろう。祐一は老婆の、影で覆われた顔の辺りをじっと見つめた。

「で、俺にどうしろと……」

「この時計を使って、もう一度あの子達のところに飛ぶんじゃ。きっとこれが最後じゃからな」

「最後……じゃあ絶対に、信彦を連れてかえらなくちゃいけないってことですね」

「いや、違う」

 老婆はきっぱりとそう言った。

「連れて帰るのは、河名信彦ではない。もう一人の男じゃ」

「もう一人の……?」

「お前さんはもう面識があるはずだ。信彦と一緒にいた、細面の少年じゃよ」

「どうしてその男を連れてこなきゃいけないんです?僕が救いたいのは信彦ですよ」

「あそこは信彦の内面世界じゃよ。そこから信彦を連れ出してどうする。連れ出すのは侵略者の方じゃ。悲しき侵略者、水瀬冬馬をな」

「冬馬……」

 その時、廊下の方から誰かの足音が聞こえてきた。本当に看護師が回ってきているのかもしれない。

「では、頼んだよ」

 老婆は祐一の手をしっかりと握って強く振った。老人とは思えぬ力だった。

「すべてはお前さんにかかっておる」

 病室の扉が開いた瞬間、老婆の姿はかき消えた。でも夢ではない。その証拠に、祐一はマリカの時計をしっかりと握りしめていた。

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