第十一話 偽物
家に帰った時は、もうすっかり暗くなっていた。もしかしたら誰か帰ってきているかもしれない。加奈は少しだけ期待を込めて玄関を開ける。しかし、そんな奇跡は起こらなかった。家の中は明かりもなく薄暗い闇だけがたゆたっていた。
五年前、母親が家を出て行ってから、この家はすっかり変わってしまった。加奈の父親も加奈より十歳年上の兄も、棟続きに建てられている病院から帰ってこなくなった。
『難しい患者を抱えているから』
二人は加奈に向かって同じことを言った。医者の家族として我慢しなければならないこともある。それは加奈にもわかっている。しかし、孤独な気持が理性で癒されるわけではなかった。
それでも二年前までは、今よりもずっとよかった。
『加奈には僕がついてるからね』
信彦はいつもそう言ってくれた。少し頼りないところはあるが、信彦の優しさと明るさに加奈はいつも救われていた。
―……信彦……。本当にわたしの太陽だった。
昼間見た男の顔がまた脳裏に浮かぶ。信彦にあまりにもよく似ていて、なのに全くの他人だという男……。しっかりと目に焼き付けてしまったから、あれからずっと信彦の事ばかり考えている。本当の信彦は、一体どこに行ってしまったのだろう。もう……会うことはできないのだろうか……。
ぼんやりしたまま廊下を歩いていたので、突然目の前のドアが開いたことに気づくのが遅れた。どん、と衝撃を感じて、加奈は廊下に倒れ込んだ。
「きゃっ」
「加奈、大丈夫か」
ぶつかったのは、兄の義弘だった。白衣を着たままなので、まだ仕事の途中なのだろう。
義弘をこうやって近くで見るのは久しぶりだが、また一段と痩せてしまったような気がする。目の下には隈さえ見えた。学生の頃はがっちりとしたスポーツマンであったのが嘘のようだった。
「……わたしは大丈夫だよ。でも、お兄ちゃん……」
「そうか。よかった」
義弘は加奈の言葉を遮って、廊下に散らばった書類のようなものを拾い始めた。ぶつかった時に落としてしまったのだろう。
加奈も手伝おうと、それに手を伸ばす。
―これ……写真だ……。
A4用紙にまじって、何枚かの写真が散らばっていた。写真には、どれも同じ高校生くらいの少年が映っていた。少年はベッドに横たわり、うつろな目で虚空を見ている。その目の奥に、暗い炎が見えるようだった。病気が重いのだろうか、それとも……。
「さわるな!」
突然義弘が声を荒げた。加奈は驚いて拾った写真を取り落とす。床に落ちたその写真を、義弘は奪うようにつかみ取った。
「ごめん……なさい……」
今まで義弘に怒鳴られたことなどない。思わず声が震えた。怯えた加奈の様子に気づいたのだろう、義弘はあわてたように、うつむいている加奈の顔を覗きこんできた。
「謝らなくてもいい。いらいらして妹に怒鳴り散らすなんて、俺も最低だ……。お前には、ずっと申し訳ないと思っているんだ。家に帰ることもできなくて、ずっと一人にして……。寂しいだろうな。信彦くんのこともあるし……。もう少し待っていてくれ。患者の様子が安定したら、俺が信彦くんを探してやる。だから……泣くなよ」
『泣くなよ』と言われたのは小さな子どもの時以来だった。加奈は、自分がそんなに情けない顔をしていたことに気づかなかった。
「うん。泣かないよ。だからお兄ちゃん……」
『お仕事がんばって』
加奈はいつも、義弘に向ってそう言っていた。でも、義弘はこれ以上がんばらなくていい。そんなことをしたら、義弘が壊れてしまう。そう思った。
「だから、お兄ちゃんも泣かないで」
加奈の言葉に、義弘は軽く目を見開いた。それから少しだけ笑って加奈を見た。
「ああ。泣かないよ」
書類の束を抱えて、義弘は病院に戻って行った。加奈は義弘の後ろ姿が見えなくなるまで、その場にじっと立ちつくしていた。
◇◇
冬馬が玄関を開けると、すぐに廊下の奥から足音が聞こえた。
「とうさん……?」
少し片足を引きずるような歩き方は父のものだと思って間違いはないだろう。それでもピアニストを引退したとはいえ、音楽学校で特別講師を務めている水瀬は多忙だ。この時間から帰宅していることは珍しかった。
冬馬は玄関に立ちつくして父を待った。やがて、玄関にしつらえられた暖色系の灯りの輪に水瀬の姿が映し出される。一瞬冬馬は、水瀬ではない誰か知らない人を見たような気がした。姿形はまぎれもなく水瀬だ。しかし、その顔には生気がみなぎっていた。まるで十年以上若返ったかのように見えた。
「冬馬、話があるんだ。すぐ部屋に来てくれるかな」
「はい、とうさん……」
冬馬の心を理由のない不安がかすめた。自分の知らない水瀬は見たくない。でもそれを口にする術はなかった。
「冬馬、そこにすわりなさい」
水瀬は冬馬にソファを勧め、自分は書きもの机の前に立った。
「今日、息子から連絡があったんだ」
「……息子……?」
冬馬は水瀬の言葉が理解できなかった。水瀬の息子とは、自分のことではないのか……。
「別れた妻と一緒に、アメリカに渡った息子だ。二十年以上連絡がなくて、もうわたしのことなど忘れていると思っていたのだがな」
「そう…ですか……」
冬馬はおざなりの相槌を打つ。水瀬には本当の息子がいた。忘れていたその事実を突き付けられて、冬馬は茫然としていた。
「いま日本に戻って来ていて、わたしに会いたいと言っているんだ。そしてもしわたしの事情が許すなら、息子としてわたしと一緒に暮らしたいと」
―……ああ、そうか……。
冬馬の頭の中を、ゆっくりと悲しみが支配していく。水瀬には実の息子がいて、自分はあくまでもその代用品だった。代用品とは、本物が欠けた時の埋め合わせ。その場しのぎの偽物ということだ。本物が手に入ればそれはもういらない。ただのごみになり下がる。
「もちろん、冬馬もわたしの息子だ。これからも大事にしていく。だからわたしの息子が帰って来た時、快く迎えて欲しいんだ。まあ、あれはお前の本当の父親くらいの年になっているから、仲良くというのも妙な話だがね」
水瀬はなにもかも捨てられない人だ。この広い屋敷の中には、もう何年も使われていないいろいろなものが眠っている。壊れた蓄音器、駒の欠けたチェスセット、薄く幕の張ったワイングラス。自分も、そんな風にしまい込むつもりなのだろうか。本当はいらないのに、切り捨てる瞬間の痛みを避けるためだけにとどめ置かれる。それはきっと、つらいだけだ。
「よかったね、とうさん」
僕はにっこりとほほ笑んだ。きっとこれが、この人に向ける最後の笑顔だ。記憶に残る最上の笑顔にするべきだった。
「でも、本物が現れたんなら、偽物は早く処分すべきだよ。わかってる。僕はとうさんにとっていらなくなったんだ」
水瀬の顔が、見る間に青ざめた。
「冬馬。わたしは別にそんなことを……」
「いいんだよ、とうさん。無理しないで。僕は消えるよ。とうさんに会えてよかった。まるで家族ができたみたいな気がしてうれしかったよ」
「冬馬。なにを言っているんだ。お前はずっとわたしの息子だよ」
この人はどこまでも優しい。でも、だからこそ残酷だ。
冬馬は立ちあがった。
「……さよなら……とうさん」
「冬馬!待ってくれ。お前が出て行く必要はない!」
水瀬の叫ぶような声が聞こえる。でも、冬馬は立ち止まらなかった。
「冬馬!」
もう一度だけ振り向きたい。そんな衝動が胸をよぎる。でもきっと無駄だ。この視界はすでに涙でゆがんでいる。すべてがいびつで、今にも溶けてなくなりそうで……。そんな状態であの人を目に焼き付けてどうするというのだ。
冬馬は走り出した。この手で掴んだはずの甘くて優しい世界は、あまりにもあっけなく指の間を零れ落ちて行った。
◇◇
祐一は加奈を家まで送り届けた後、一人で居酒屋に行って少し酒を飲んだ。
もやもやとした気分を、酒の力でどうにかしたかった。でも、流し込んだアルコールは、ただ喉から体の中へと落ちて行くだけだ。いくら待っても心地よい酔いは訪れてくれなかった。
店を出ると雨が降っていて、祐一は近くのコンビニでビニール傘を買った。開いて頭上にかざすと、雨粒が音を立ててビニールを鳴らす。耳障りだが、逃げ場はどこにもなかった。
バスに乗るのも面倒で、祐一は歩いて自宅のあるアパートに帰ってきた。到着する頃には、さっきよりは幾分雨も弱まってきていた。
祐一は、傘をたたんで廊下を歩き出す。しかしすぐに、廊下にうずくまっている人影に気づいた。
―えっ……。
遠目で見ても、その人影がひどく濡れていることが分かる。ぐっしょりと濡れそぼったその姿は、夜の闇を一身に纏っているように見えた。
祐一は、その人影におそるおそる近づいた。そしてその顔を覗き込む。ひどく青ざめてはいたが、祐一はその男の顔をよく知っていた。ただ、一瞬それが知っている二人のうちどちらなのか、判断することができなかった。
―……信彦……冬馬……どっちなのか、俺にはわからない……。
「……祐一……」
その時、男が手を伸ばして祐一の服の袖をつかんだ。『祐一』男は今確かにそう言った。『祐ちゃん』とは呼ばなかった。
―……冬馬なんだ……。
目の前にいる冬馬は、日ごろ見せる気の強さも落ち着きもなくしている。ただ泣きそうな目をしながら、祐一にすがっていた。
「冬馬……どうしてこんな……」
「僕は君にとって……信彦の身代わりなのか……?」
「…………」
それは、思いがけない問いだった。今まで、冬馬がそんなことを考えているとは思いもしなかった。確かに冬馬と接する時、祐一の心には頻繁に信彦の影がよぎった。その影が通り過ぎる一瞬、冬馬の姿はかき消えた。でもそれは、決して冬馬を信彦の身代わりにしているからではなかった。もしそうなら、つら過ぎて冬馬と一緒に過ごすことなどできはしない。
「身代わりなんかじゃないよ。冬馬は冬馬だ」
祐一は、きっぱりとそう言った。『別人だから隣にいられる』さっき加奈に言った言葉は、嘘ではなかった。
「……よかった……」
冬馬は弱々しく微笑んだ。それは、いまにも壊れそうな儚い微笑みだった。
「さあ、中に入って。まず濡れた服を着替えないと」
「……ありがとう」
祐一は、うずくまったままの冬馬を抱えて、何とか家の中に連れて入った。濡れた体から伝わってくるのは、少し熱過ぎる体温だった。
◇◇
部室の椅子に腰かけて、信彦は窓の外を見つめていた。自分は夕方の景色を望んでいる。だからだろう、外は夕焼けで真っ赤だ。
「僕は夕焼けが好きだった。祐ちゃんもそう。これから部活を始めるんだって、わくわくした気持ちになれるから……」
信彦は、ポケットに忍ばせていたものを取り出して夕日にかざしてみた。それは、赤い光を受けてきらきらと光った。
最初、それは祐一が落として行った小さな鍵だった。それがカッターになり、今は鋭い刃先のサバイバルナイフに変わっている。
「冬馬。君は今弱ってるんだよね?」
ここにいても、冬馬が聞いているすべての音を聞くことができるようになった。そして集中しさえすれば、冬馬の感情の波を読みとることさえできる。
「僕はもう、君に何も渡さない。祐ちゃんも加奈も、どっちも僕のだから」
今なら冬馬を追い出すことができるかもしれない。冬馬が深く深く眠って、あの階段の上に実体化して現れたら、このナイフで……。
「きっと祐ちゃんは、『信彦には無理だ』って言うよね。でも大丈夫だよ。僕がもしあいつを追い出せなかったら、僕は自分のこの手であの階段を壊すから。僕のものじゃない僕の体なんて、もういらないんだ」
信彦は、赤く光るナイフの柄をしっかりと握りしめた。ナイフの刃先が、また少し伸びたようだった。




