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第十話  甘い香り

「映画館、ここだよ」

 祐一が冬馬の先に立ってドアを開ける。中は思ったよりも人がいて、むっとするような人いきれを感じた。

前ここに来た時は三年前で、信彦と一緒だった。見たのはB級の洋画で、内容は頭から全部抜け落ちている。ただ、信彦がポップコーンをほおばりながら、『祐ちゃん、すごいよね。こんなにつまんない映画が、海を越えて日本に来ちゃうんだから』と言ったことだけは鮮明に覚えていた。

『そんな映画を最後まで見ようとしてる、俺達もすごいかもな』

 自分は多分そう答えた。何気ない会話なのに、それは自分の心の中に深く沈みこんでいた。

 でも今、隣にいるのは信彦ではない。その面ざしはそっくりだが、全くの別人だ。

あの夜、目を覚ますと彼、水瀬冬馬がいた。冬馬を信彦と思い込み混乱する自分を前にして、冬馬は腹を立てることもなく丁寧に応対し落ち着かせてくれた。

 きっと自分は、夢を見ていたのだろう。信彦を助けようとして果たせなかった夢……。どこで眠ってしまったのか記憶はないが、そうとしか考えられない。あの時彼がいなければ、自分は夢と現実の境を見つけられないままおかしくなっていたのかもしれない。結果的に、自分は冬馬に救われたようなものだ。

冬馬は、姿形こそ信彦とそっくりだが性格はまるで違った。優しくて明るく、どこか頼りない所のある信彦に対して、冬馬はストイックで強く、妙に頑ななところがあった。信彦に慣れ親しんできた祐一にとって、冬馬の反応は新鮮だった。

無論、信彦を思う気持ちが薄れることは決してない。だが冬馬といるのもまた楽しかった。

 今日、祐一は冬馬を映画に誘った。冬馬が今まで一度も映画館に映画を見に行ったことがないと知ったからだ。

 『いつか見てみたいと思っていたんだけど、機会がなくてね』

 彼はこともなげにそう言った。

 父親がピアニストとして名を馳せた人物で、金銭的には何不自由なく育ったであろう冬馬は、どこか世間とずれているところがあった。学問的な知識はたくさんあるのに、普通なら当然知っていることを知らなかったりした。『行ったことがない』という場所も多くて、美術館や水族館、遊園地……あげていけばきりがなかった。

 祐一は、彼をそんな場所に一つでも多く連れて行ければ、と思っていた。自分を救ってくれたこの男に、そんな形でも恩返しをしたかった。

 中に入って一緒に歩いているうちに、冬馬がふいに立ち止まった。祐一が振り返ると、冬馬はその場できょろきょろと視線を動かしていた。

「どうした?冬馬」

「祐一。ここは映画を見る所なんだろう?」

「そうだよ」

「じゃあ、この甘いにおいはなんだ?」

「ああ、これ。これはポップコーンのにおいだね」

「ポップコーン?」

「あそこのカウンターで売ってくれる。コーヒーやコーラもね」

「映画を見ながら物を食べるのか?」

「あそこで売っているものなら食べてもいいんだよ」

「ふうん……」

 冬馬はゆっくりと何度もうなずいた。新しく知った事実を理解しようとしているのだろう。

「映画を見ながらなにか食べるなんて不思議だね。考えたこともなかった。でも、おもしろそうだ」

「試してみる?」

「いいね」

「じゃあ、その椅子に座って待ってて。俺が行って買ってくるよ。飲み物はなにがいい?あと、ポップコーンの味は?」

「祐一と同じものでいい」

「わかった」

 カウンターの列に並ぶと、甘いにおいはさらに強くなった。その甘さが、体中に染み込んでくるようだ。祐一は顔を上げて、つりさげられているメニューを見た。冷たい飲み物と、それから…ポップコーンの味はなんにしようか…。

「アイスティーと、ポップコーンのキャラメル味のセットを二つ」

「祐一!」

 声は正面から聞こえた。祐一は驚いて、目の前に立っている店員を凝視した。髪を後ろでひとくくりにしてオレンジ色の帽子をかぶっているので、すぐには分からなかった。でも、自分に向けられた明るい笑顔を、祐一はよく知っていた。

「加奈……」

「セットが二つってことは、なに、なに?彼女でもできた?」

 祐一は血の気が引くのがわかった。中学の頃から、加奈は信彦とつきあっていた。そんな加奈が冬馬を見たら、きっと信彦だと思ってしまう。彼女がショックを受けるところなど見たくなかった。

「そんなんじゃないよ。男の友達が一緒なだけだから」

 しかしその言葉に、加奈は一瞬表情を凍りつかせた。

「そっか……。祐一にも一緒に映画を見る友達ができたんだね……」

 祐一も真顔になる。『冬馬と一緒に映画を見る』というこの行為は、信彦に対する裏切りになるのかもしれない。信彦と見に行ったB級映画の記憶が、今日冬馬と映画を見た記憶で塗りつぶされるとしたら……。

 祐一の表情を読み取ったのか、加奈が慌てたように首を振った。

「あっ、別に責めてるわけじゃないからね。ちょっと感傷に浸っただけ。祐一は信彦に縛られる必要なんて全然ないんだから」

「……加奈」

「はい。ポップコーンのキャラメル味とアイスティーのセットお二つですね」

 加奈は手際よく準備をすると、トレーを手渡した。

「ありがとうございました。……映画、楽しんでね」

 祐一は、青ざめたまま冬馬の元に戻った。後ろにも客が並んでいたので、加奈はこっちの様子に気づかないかもしれない。でも、急いだ方がいい。

「冬馬。もう、中に入ろう。込みあってくると座りづらいし……」

「わかった」

 冬馬は立ちあがった。その時、ちょうど閉まっていたカウンターの一つに店員が立った。

「お待ちのお客様、こちらへどうぞ」

 よく通る声に、冬馬の顔がそちらに向く。祐一は青ざめた。

「冬馬、早く、こっち……」

 しかし祐一は間に合わなかった。客が途切れ、こちらを見た加奈の目が一瞬大きく見開かれた。

「信彦!!」

 加奈が駆けてくる。立ちつくす祐一のすぐ横を通り過ぎ、加奈は冬馬の胸に飛び込んで、その背にすがりつくようにしっかりと抱きしめた。



◇◇

 冬馬は、夜道を一人帰路についていた。まだ少しほてっている頬を、風がふわりと撫でていく。それが心地よくてたまらなかった。

 結局映画は見ずに帰ってきた。スクリーンの前で味わうはずだった甘いポップコーンは、あの時すべて床に散らばって、一口も食べていない。

 でも冬馬に、残念に思う気持ちはなかった。それ以上の甘さを手に入れたからだ。自分の胸に飛び込んできた少女は、潤んだ目で冬馬を見つめ、そのまますがりついてきた。抱きしめてくる掌の感触、柔らかい体、そのすべてを今でも鮮明に覚えていた。

 冬馬は人気のない路地に入ると、近くにあったブロックの塀にもたれた。

「ねえ、君。ついでだからあの子ももらうよ。もう戻ってこれないんだから、恋人なんていらないでしょう?」

低い声でつぶやくと、思った通り胸の奥がきりきりと痛みだした。冬馬は眉をひそめ、こぶしを胸に突きつけた。

「憎むより感謝して欲しいな。君がいなくなって、あの子はずっと孤独だったんじゃないかな。でも、僕なら慰めてあげられる。ほら、祐一だって、僕のおかげで前より元気になったみたいだし。二人の孤独をうめてあげられるのは僕しかいない。今の君は、なに一つできはしないんだから」

 胸の痛みが消えて行く。冬馬は唇の端に笑みを浮かべまた歩き出そうとした。

「水瀬冬馬くん」

 突然横合いから名前を呼ばれた。ぎょっとして顔を上げると、すぐそばにひょろりと背の高い男が立っていた。

「誰?」

「あれ、忘れちゃった?同じ授業取ってるでしょ。安田先生の『数学概論』」

 その授業なら、確かに自分も取っている。だが、冬馬はその男を見た記憶がなかった。

「どうして僕を知ってるわけ」

「君が教授に当てられて、前に出て問題を解いた事があったじゃないか。解法が見事だったから、記憶に残ってるんだ」

 そんなことがあったかどうか、記憶は定かではない。それでも男は、いかにも害がなさそうな優しい笑みを浮かべていた。

「でね、水瀬くん。ちょっと道を教えて欲しいんだ。ここから萌黄橋にはどう行ったらいいんだろうね」

「萌黄橋?」

 その橋なら、ここから五分ほど歩いたところにある。住宅街の真ん中を流れる川にかかる小さな橋だ。

「その道をまっすぐ行って、つきあたりを……」

 冬馬が説明を始めると、男はペンとノートを取り出してそれを冬馬に差し出した。

「これに書いてくれる?この辺りは結構入り組んでいて、よくわからないんだ」

 冬馬は反射的にそれを受け取った。ノートの方は普通だが、ペンは少し重い。それを握って地図を書き始めると、軽くめまいがするような気がした。

「……このペン、重過ぎないか」

「そうかな?別に普通だけど」

 男は不思議そうな顔で小首を傾げる。

―僕が疲れてるってことか……?

 自分の中には、目に見えない敵がいる。一刻たりとも油断はできない。それが知らず知らず自分を弱らせているのかもしれない。

―いつかあいつを、永遠に黙らせなきゃならないな。

 冬馬は地図を書き終わり、ノートとペンを男に返した。ペンを持っていた手は、微かに痺れていた。

「どうもありがとう。また授業で会おうね」

 男は軽く手を振って、そのまま歩いて行ってしまった。

―あいつの名前、なんだっけ……。

 しかし、考えてもわかるはずもない。元々、興味のある相手ではなかった。数歩歩くうちに、冬馬はその男のことなどすっかり忘れてしまった。



◇◇

バイトの間は気を張っていたのだろう。加奈は映画館を出た途端にうずくまった。祐一は加奈を抱きかかえるようにして近くのベンチに座らせた。小柄で華奢な体が、油断すると壊れてしまいそうに見えた。

「……あの人は……?」

 加奈は、消え入りそうな声でそう聞いた。

「先に帰ってもらった。その方がいいと思って」

 冬馬が信彦とは別人だと知った時、加奈はなんでもないような顔をして笑って見せた。

『やだ。わたしったらうっかりだな。……たいへん!ポップコーンこぼれちゃったね。掃除道具借りてくるから待ってて』

 でも、加奈の顔は蒼白だった。こういう時に無理をする子なのだ。長い付き合いだから、よく知っている。

「……でも、あんまりだよ。この世の中に、あんなに似た人がいるなんて……」

「……うん。そうだね……。俺も最初はびっくりしたよ。本当に信彦だと思った」

「……ねえ」

 加奈が顔を上げ、祐一を見上げた。

「祐一は、あの人といてつらくないの?もう、信彦のことなんて忘れちゃった?」

 言葉と一緒に、加奈の両目から涙がこぼれおちる。祐一は慌てて、首を強く左右に振った。

「あいつは信彦じゃない。全くの別人なんだ。最初に会って言葉をかわした時、はっきりとそう思った。だから隣にいられる。……それから、俺が信彦を忘れるなんて、そんなことができると思うのか?だとしたら、ずいぶん見くびられたもんだな」

「……ごめん」

 加奈は泣き顔のまま、少しだけ笑った。

「祐一が信彦を忘れるわけないよね。そんなの当たり前なのに……」

 加奈はハンカチで涙をぬぐうと、そのまま立ち上がった。

「祐一が待っててくれてよかった。ねえ、どっかで一緒にコーヒー飲もうよ」

 加奈は無邪気に祐一の腕につかまった。祐一が一瞬びくりとしたことに気づきもしない。

―そうだな。こんな気持ちには、一生気づかないでくれよ、加奈。

「そのコーヒー、俺におごれとか言うんだろ」

「言わないよ。逆にわたしがおごってあげる。バイト代入ったしね」

「じゃあ、マフィンもつけてもらおうかな」

「もう、祐一調子に乗り過ぎだよ」

 楽しい会話は、微かに苦みを含んでいる。だが祐一は、決して二人のこの関係を変えるつもりなどなかった。

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