たとえばのはなし
たとえば、わたしがふつうよりすこし長生き出来たら。
あなたと一緒には居られない。
ふつうより長生き出来るってことは、ふつうよりたくさんのひとを見送るってことだから
あなたと共に長い間過ごしたとしてわたしはやっぱりあなたより長生きだからあなたはわたしより先にいってしまう
ぴんとハリのあった手は生きてきた時間を確かに刻み続けてしわしわになるんでしょうね
そんなあなたの手とわたしの手はきっと違うんでしょう
わたしの手はやっぱりわたしと同じで長生きだから、まだぴんとハリを保ったまま動き続けているんでしょう
わたしはそんな手と手を見比べてたまらなく悲しくなって、もしかしたらたまに泣いてしまうかもしれないわ
それから、そうね
長生きなわたしはあなたをきっと見送る日が来るわ
わたしはまだ若くて病気ひとつ知らないのにあなたは床にふして布団からも出られなくなり、わたしを羨んで口喧嘩する日も来るでしょう
でも直ぐにあなたはそれを恥じてわたしはそれを簡単に許してしまうの
本当はたくさん泣いていたのにね
あなたはそれに本当は気付いていてすこしの間ふたりの中はぎくしゃくするかもしれないわ
それでもきっとすぐにまたふたりして笑い合うんでしょうね
そういう日々がずっと続くとふたりして信じていたのに、なんでもない日にあなたは目を覚まさなくなる
わたしはたくさんたくさん泣いて泣いてもう話もしない遺影にたくさん話しかけるんでしょう
何年経っても変わらない容姿と見送り続けなければならない立場とひとところに留まれないストレスで消えてしまいたくなる日も来るでしょう
でもね、それもある日突然終わりを告げるわ
あなたとわたしが出会ったようにわたしはまた好きな人を見つけるの
その人はあなたと全く同じかもしれないし、全然違うかもしれない
わたしはその人を大好きになって何年も一緒に過ごすの
しばらくしたらわたしはあなたの事なんて忘れてしまうでしょうね
だってふつうより長生き出来るのに、あなたばかりを覚えていられるわけないでしょう
あなたはわたしの記憶の片隅にすら置かれずにただの他人になってしまうかもしれない
とっても悲しいけど、それが人間というものよ
記憶には限りがあって、生きている人間が悲しい記憶ばかりを覚えている必要なんてないんだから
「ねぇ、だから大丈夫よ。
あなたがふつうよりすこし長生きすることはたくさん愛にふれられるって事なんだから」
しわしわの手が頭を優しく撫でてくれる。
彼女が語るたとえばのはなしはあまりにも優しくて、視界が少しかすむ。
感じたことを伝えたくなって口を開こうとしても、俺の口は彼女のように柔らかく言葉を紡いではくれない。
だから空気をのみこんでまた閉じてしまった。
もう随分と長生きしたのにまだこころをうまく伝えることすらできやしない。
悔しくて握り締めた俺の手に彼女の手がそっと重ねられる。
ぴんとハリを保ったままの俺の手は彼女の歳月を経たうつくしい手をただ握り締めることすらできなくて。
なぜだかたまらなく悲しくて、頬がほんのすこし濡れてしまった。