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就活中の人には絶対に読ませたくない現代魔術ファンタジー6

「……おはようございます」

 翌日、力ない声とともに事務所のガラス扉を開けた。出社した時間がいつもより遅かったせいか、すでに四方木も柏も自分のデスクへと着いて仕事に取り掛かっている。どこか後ろめたい気持ちを引きずりながら、とぼとぼと自分の席へと向かった。

 途中、きれいに整頓された花藤のデスクが目に入った。どうやら今日は休みをとっているらしい。派遣社員の彼女には劣悪な労働環境なんて無縁のようだ。

 それとは対照的に、やり残された仕事が山積みとなる自らのデスクへと視線をむけ、重い溜息をついた。

「聞いたよ、杏ちゃん。タカラベ運送のおっさんにかみついたんだって?」

 杏がデスクに着くなり、四方木の楽しそうな声に振り返った。どうやら、それは昨日の出来事について言っているらしい。おそらく、佐久間からことのあらましは聞かされているのだろう。杏は、そのときのことをまたしても思い出し、どんよりと気が滅入るのを感じた。

「たしかにあそこのおっさんの態度は悪いもんね」

「だからって、客に暴言を吐いていいわけじゃない」

 うなずきながら同意を示す四方木に、柏がすかさず口をはさんだ。柏のその顔に杏はぐっと顔を曇らせる。でも、と反論しようとしたところで、杏はそれをやめた。何をいったところで、わかってもらえないに違いない。

 それに、もう自分は樺柳と約束しているのだ。いまさら、わかってもらう必要もないだろう。昨日の樺柳との一連のやりとりを思い出し、契約書のありかを探るように、ちらりと佐久間のデスクの方をみやる。

 おそらく、あのあたりのどこかに入っているはずである。なんとか、隙を窺って――、

「はい、みんな。おはよう」

 そんなことを考えているところに、急にドアが開き、佐久間の張りのある声が室内に響き渡った。杏は驚きのあまり、人知れずびくりと体をこわばらせた。

 佐久間は杏の姿をちらりと見ただけで、何かを言うこともなく、四方木と柏にいつものようにきびきびと指示を飛ばし始めた。昨日のことを掘り返して、杏に何かを言おうというつもりもないらしい。もしかしたら、杏が何か言ってくるのを待っているのかもしれない。

 だからといって、杏は謝る気もなかったし、何も言われないならそれでいいとも考えていた。じっくり考えなおしてみろ、といわれたが、一日経ったいまでも杏は自分が間違ったことをしたという気にはならなかった。

「それじゃあ、今日のあなたの仕事はこれね」

 どんと、またしてもいつぞやのような書類の山が、杏の前に置かれた。佐久間は、「今日中にお願いね」と言い残し、デスクへと戻っていく。いつもと変わらない当たり前のような光景ではあるが、それが樺柳の言葉を聞いたあととなると、そこに疑念が浮かんでくる。

 従業員に対して、何の配慮もない無遠慮なワンマン社長。

 こうやって与えられた仕事で、杏が遅くまで残業することになることなどこれっぽっちも気にしていないに違いない。

 最初から、そんな風に仕事を与えられていたため、何の疑いも持たなかったが、それすらも世間の価値観から見れば十分におかしいことであるのだ。

 だが、杏はそんな疑念を口にすることなく、与えられた仕事をこなしながら、機会をうかがっていた。樺柳に言われた通り、契約書を持っていけばこんな辛い環境を抜け出して、いい働き口を紹介してもらえるのだ。

 何枚かの書類を書き終えた後、そっと顔を上げて部屋の様子をうかがった。

 外に営業に出ることのほとんどない杏は、佐久間たちが忙しそうに出払っている間に、その留守を任されることも少なくはない。現に、佐久間も出社して一通りの指示を終えると、そのまま荷物を持ってすぐに出て行ってしまった。たぶん、夕方になるまで戻ってこないだろう。

 四方木も先ほどから何やら忙しそうに取引先に電話を繰り返しており、おそらく、どこかしらのアポが取れれば、外に出るに違いない。柏だって、午後になれば本格的に活動を始めるのだから、花藤が休みの今日はまたとないチャンスであるのだ。

 雇用契約書の置いてある場所はだいたい見当もついている。あとは、ゆっくりと探す時間ができるまで、じっと待っていればいい。


「んじゃあ、出かけてくっから」

 お昼少し前、快活にそう言い残した四方木が事務所から颯爽と飛び出していった。どうやら、どこかと約束が取れたらしい。あの様子だと契約のひとつやふたつ取れそうな気配なのかもしれない。

 四方木が出ていくと柏と二人となった事務所内がよりいっそう静かとなった。

 柏も外に出たりしないだろうか。

 様子をうかがっていると、ふいに柏の声がした。

「何か用か?」

 デスクの上に広げられた書類を見たまま、顔も上げずに杏にそう声をかけた。

「さっきから何度もちらちらと見られてたら気になるんだがな」

 そこまで言ってようやく顔を上げて、杏の方を見た。どうやら、杏が何度も柏の様子をうかがっているのに気づいていたらしい。眼鏡の向こうに切れ長の涼やかな瞳が、鋭くのぞいている。といっても怒っているわけではなく、それが彼にとっては普通の顔なのだ。

 無口で無愛想で表情の起伏が乏しいため、杏も初めは近寄りがたい雰囲気の人だな、と思っていたが、そう言う人なんだと慣れてしまえば、見かけほど悪い人でもない。

「あ、いや、柏さんも出かけたりしないのかなって……」

 突然の呼びかけに思わず本音がそのまま出てしまったが、柏はさほどいぶかしむ様子もなく、うなずいた。

「もうじき、出かけるけどな」

 ちらりと時計に目をやると、再び手元に目を落としてしまった。

「飯に行きたいなら、勝手に行っていいぞ」

 まるでお腹を減らしているみたいにとられてしまったらしい。別にそういうつもりではなかったのだが、このままここで柏が出ていくのを待ち続けていても怪しまれそうな気がして、杏は手元の資料をデスクの脇に片付けると席から立ち上がった。


 昼食を外で済ませた後、事務所へと戻るとドアには鍵がかかっていた。

 どうやら、柏はもう出かけてしまったらしい。持たされていた合鍵で事務所へと入ると、電気の消えた室内には、やはり人の姿はなかった。

 待ちに待った機会がやっときた。

 ごくりと息を飲むと、すぐさま佐久間のデスクのそばに近寄った。佐久間の席の後ろには、書類や資料のために大小いくつもの棚が並んでいる。幸い、どれも施錠されている様子はなく、杏はそれらの一つずつを手早く開けては中を調べていった。

 半分くらいを過ぎたあたりだろうか。開けた引き出しの中から取り出した薄い封筒の中から、見覚えのある契約書の束が出てきた。きちんと杏の署名とサインがされたその契約書は、まぎれもなくあの日、杏が佐久間から手渡されたものである。

 それを手にとって、壊れ物でも扱うかのようにそっと大事そうに眺めた。

 これをあの樺柳に渡せば自分は、もっといい企業を紹介してもらえる。就職活動もうまくいっていなかった杏にとって願ってもない申し出である。

 でも、それは同時に佐久間たちを裏切るような行為でもあるのだ。わずかに頭の隅に引っ掛かっていた懸念が、現実味を帯びるにつれてはっきりと形になって現れてくる。間際になって、杏の中に後ろめたさがこみあげてきた。今なら、これをもとに戻し、何もなかったようにふるまうことだってできる。

 迷いを断ち切れぬまま、手に持った契約書へと目を落とした。

 あの日、佐久間と交わした会話がまざまざと思い出されてきた。訳も分からず呼び出されたあの日、やっと内定をもらえたという喜び、それから――佐久間の言葉。

『決断力と運』

 こうやって契約書を見つけることができたのはある意味幸運であり、同時にそれの決断を迫られている状況でもあった。皮肉にも、佐久間の言ったその言葉が杏の行動の最後の一押しとなった。

 杏は、思い切ってその書類の中から自らの契約書をさっと抜き取ると、残りを元のように戻した。引き出しを閉めて、ふうと息を吐く。これでよかったんだ。そう思いなおすことで、自分の行いを正当化しようとした。

 そのとき、背後で扉の開く音がした。

 とっさのことに、杏はさっとその契約書を後ろ手に隠して振り返ると、ドアのところに柏が立っていた。

「ど、どうしたんですか。出かけたんじゃなかったんですか」

 思わず声が上ずってしまう。どこまで見られたかわからない。取り繕うように声をかけると、柏は手に提げていたコンビニの袋を見えるように持ちあげた。どうやら、昼食を買いに出かけていただけらしい。

「それより、おまえそんなとこで何やってんだ」

 いつにもまして鋭い柏の視線に、杏は心臓が縮まるような思いがした。

「あ、いや、その……」

「後ろになんか隠してないか」

 言葉とともに、柏の瞳がよりいっそう鋭く険しいものとなる。その視線に杏は押し黙ったままうつむいた。すべてを正直に話してしまった方がいいのか。

 柏がさらに何かを言おうとするよりも先に、事務所の電話が静寂を切り裂くように鳴った。柏は何か言いたげに杏を見たあと、あきらめたようにして受話器をとった。

「ああ、佐久間さん。どうしかしましたか?」

 電話の向こうの言葉を待ってから、柏はすぐに明るい声でそう返した。だが、そのすぐあとにはその表情が一変し険しいものとなり、真剣な顔つきで電話に耳を傾けていた。「はい」と短い返事を何度か繰り返した後、電話を切るなり、杏の方にすぐさま向き直った。

「おい、出かける準備をしろ」

「はい?」

「いいから早くしろ」

 訳も分からず聞き返す杏に、柏は説明している時間はないとばかりにかばんを掴んでいた。杏は、慌てて出かける準備をする柏の目を盗み、手に持っていた契約書を鞄に滑り込ませ、柏に続くようにして、ドアから飛び出した。

「佐久間さんの行ってるとこで、大きい障害が起きたらしい。一人じゃどうしようもないから応援に来てほしいってことだ」

 階段を駆け下りながら、柏は早口にまくしたてるように言った。珍しく声を大きくする柏の様子から、その事態の大きさが推しはかれた。


 柏につれられてたどり着いた先にあったのは、小さな町工場だった。それほど広くもないその工場内に、所せましと魔術による装置があるが、いまはそのどれもが動いている様子はない。作業員らしい男の人に連れられて、工場の中に入っていくと、奥から聞き覚えのある張りのある声が響いてきた。

「だから、あんたんとこのその上司出せつってんのよ!」

 いらだたしげに腰に手をあてたまま、佐久間が電話に向かって怒りをあらわに叫んでいる。

「いない? じゃあ、十分以内にこっちにかけるように言ってちょうだい!」

 電話を叩きつけるように切ると、右手を頭に当てた。

「そんなにまずいんですか?」

「まずいも何も問題が起きてるのは、うちのじゃなくて、アレ」

 問いかける柏に、佐久間はくいと親指で指差した。その先へと視線を向けると、柏は目を細め、「ああ」とうなずいた。

「ケルベロス式造精炉だ」

 そう言いながらその大きな筒状の物体の陰から出てきたのは四方木だった。

「おまえのほうが早かったのか」

「近くまで来てたからな」

 言葉を交わしながら二人してその筒状の物体を見ている。

 杏はただ一人事態を飲みこめず、顔をしかめる柏と苦笑いを漏らす四方木とを交互に見比べていた。

「造精炉っていうのは知ってるよね」

 杏は、四方木のその言葉にこくこうとうなずいた。

 造精炉とは、空気中の精霊の分布に作用し、その数を増幅させるためのものであり、より大きな魔術を利用する上で必要なものである。その簡単な仕組みくらいは知っている。

 しかし、今はその装置も眠ったように静かであり、動いている様子もない。

「で、これは天下の『TMS』様が開発したケルベロス式造精炉というやつ。『小型の三基を連結するという方法を使うことによって、従来のイフリート型よりも省スペースかつ安価に導入でき、しかもイフリート型よりもハイパワーでの運用が可能なまさに次世代型造精炉』ってのがうたい文句の『不良品』だよ」

 不良品、という部分に力を込めて、眉をひそめた。

「不良品?」

「すぐに臨界点を突破して、まともに使い物にならないってことさ」

 そういわれて改めて、沈黙したままの造精炉へと目を向けた。

「正確にいうと、この装置自体は悪いものではない。ただ、こうした規模の小さい工場のように、こまめに精霊の分布を変えるようなところには不向きなだけだ」

 四方木の言葉に柏が冷静に付け足すように言った。

「汎用性がないってだけで十分不良品だろ。どうせ、大手の需要の見込みが外れて余った在庫処理のために中小企業に押しつけたってのが、本音ってとこだろうな。魔術企業最大手っていうことに胡坐をかいたいい気な殿様商売だね、全く。」

「それが大手のやり方だからね、仕方ないんじゃないかしら」

 もはや怒りを通り越して呆れたような口調で、佐久間が戻ってきた。

「『TMS』の方は何か言ってます?」

「『勝手に弊社の魔術機器に触れないでください。専門の業者を手配中です』の一点張りよ」

 もう一度大きくため息をつくと、お手上げとばかりに片手を振った。

 

「あの、今日中には動かすのは無理なんでしょうか」

 そのやり取りを聞いていたように、おずおずとした口調で奥から現れたのは、ひどく顔色の悪い男だった。残り少ないわずかな髪の毛を横に撫でつけるようにしているが、それがはらりとくずれて、額に張り付いている。

 その外見のせいだけでなく、彼自身の気落ちした様子もあいまって、ひどくみすぼらしい感じになっていた。

「難しいでしょうね。『TMS』からの業者が来るのは早くて今日の夕方。復旧させるにしても、代替用の造精炉を持ち込んだとしても、まともに動かせるのは今日の夜遅くか明日の朝くらいでしょう」

 柏が冷静にそのことを伝えると、みるからに肩を落として意気消沈してしまった。 

「ああ、そんな。明日の部品の納品に間に合わなかったら、今後の付き合いも考えさせてもらうと先ほど取引先からお叱りの電話を受けまして……」

 彼ははっきりと口にするのをはばかるように言葉尻を濁した。

「得意先との取引がなくなったら、今後どうやってこの工場を続けていけばいいのか……」

 ついには、気弱な言葉を残して頭を抱えてしまった。決して大きくはない町工場であり、従業員も数名程度しかいないのだろう。それでも、この工場は男が必死にこれまで経営してきたものであるのかもしれない。

 杏にとって自分の父親くらいの年齢の男がこんなにも困窮しきっている姿は、見るに堪えないものだった。それを黙って眺めるしかない自分に、胸の奥を突くような痛みを覚え、そこから目をそらすようにうつむいた。

 

「わかりました。なんとかしましょう」

 そのとき、佐久間が男に向かってはっきりと口にした。きっぱりとそう言いきる佐久間の言葉に男は驚いたように彼女を見返した。とてもじゃないが、そんな二つ返事でなんとかできるようなものでもないはずである。

「その納品に間に合うためには、どれくらいの時間が必要ですか」

「きょ、今日の夕方六時くらいまでに稼働すれば今夜の最終便でなんとか……」

 唖然とした様子で言われるがままにそう答える男に、佐久間はすぐさま腕時計へと目をやった。杏もつられて時計へと目をやる。

 あと三時間もない。

「でも、そんなどうやって……」

「佐久間さんはやるって言ったらやる人だからね。どうせ、初めからなんとかするつもりで俺らを呼んだんだろうし」

 四方木がそういって杏の肩にぽんと叩くと、スーツの上着を脱いで腕まくりを始めた。

 柏は無言でネクタイを緩め、わずかに楽しそうに笑って見せた。

「『ソーサリードロップ』が来たからには、必ず何とかしてみますので、ご安心を」

 佐久間が男に向き直り、自信に満ちた表情ではっきりとそう告げた。杏はその姿に思わず息を飲み、全身が震えるような、居ても立っても居られない気持ちに包まれた。


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