就活中の人には絶対に読ませたくない現代魔術ファンタジー5
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佐久間の姿が見えなくなって数分、呆然とその場に立ちすくんでいた。大通りのはずれにあり、行き交う人の姿もない。まるで杏は、外界から切り離されたかのような孤独感を味わっていた。まだ春が遠いことを知らせる冷たい風が杏の頬を、切りつけるように吹き抜けていく。杏は、わずかに体を震わせると、駅へと向かって歩き出した。
佐久間に言われた言葉が、何度も頭の中で繰り返され、今日あったことを何度も思い返していた。自分は正しいことを言ったつもりなのに、なぜ、それで怒られたのか。惨めな気分が杏の心に黒いもやとなってみるみるうちに膨れ上がっていった。
ふいに、大きなガラス張りのビルに反射した日光が、杏の顔を照らしだし、思わずその光をさえぎるように手をかざした。まぶしそうに目を細めながら、見返したその先に、立派にそびえたつ「TMS」の大きな本社ビルが姿を現した。
なぜだか無性に悲しくなった。きっとあそこで働いている人達は、自分のような惨めな思いをすることはないに違いない。魔術の力を自在に操って、自分の正しいと思ったことをやって、それで褒められることはあれ、誰かに怒られ、うとまれることなど絶対にないのだ。
――自分は、こんなところでなにをやってるんだろう。
思い描いていた魔術師という理想の姿と今の自分との間にある大きな隔たり。それが真っ暗な闇となって杏の目の前に広がっている。そこに立ちすくんでいると、そのまま自分の足もとが崩れ落ちて、自分がその闇の中に落ちていくような想像が頭の中によぎった。
そんなことを考えていると、目にじわりと涙が浮かんでくる。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「あー、ちょっと」
立ちすくむ杏のもとに後ろから、小走りにやってきた男が声をかけてくる。もし、ここで男に声をかけられなければ、杏はそのまま泣きだしていたかもしれない。
その声に、びくりと反応して、杏は目に浮かんだ涙をぬぐい、ぐっとこらえた。
それで、うまくごまかせたかどうかはわからない。杏の様子に気づかないのか、それとも気付かないふりをしているのか。
「ねえ、キミ」
再度、杏の前にまわり声をかけて来る男を、杏はいぶかしく見つめた。スーツを着たその姿はどこにでもいる若いサラリーマンのようにも見えるが、その姿はどこか不自然にも見えた。人あたりの良さそうな笑みを浮かべて杏へと呼びかけるが、そのキツネのように細くなったにこやかな目の奥に、獲物を狙う鷹のような鋭い瞳が一瞬見えたような気がした。杏は思わず息をのみ、その得体のしれない男をそのまま無視して通り過ぎようとしたが、男の言葉が歩き出そうとしていた杏の足をとめた。
「ねえ、キミ。『ソーサリードロップ』の関係者でしょ?」
驚いたように男の顔をはっと見返した。
「やっぱりそうだ」
その反応に男は、子どものようにうれしそうな声を上げた。
「だ、だったら何なんですか?」
取引のある企業の人間だろうか、それとも佐久間さんたちの知り合いか何かだろうか。そうだったとしても、杏はこんな男の顔など見たこともない。一方的に、自分のことを知られているというのも、なんとも気味の悪いことである。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。決して怪しいものじゃあない」
いぶかしむような杏の視線に、男はあわてて目の前で手を広げて大袈裟に振って見せた。
「『ソーサリードロップ』について少し話を聞きたいんだけど、立ち話もなんだからちょっと時間もらえないかな?」
そういって男は近くにあるカフェを視線で指し示した。
杏は、ぐっと男の顔を睨むように見返した。怪しい人間が自ら「怪しい者です」と名乗るわけもない。いまいちその男を信用しきれない杏は、あいまいな反応でそこから動こうとはしなかった。
男は、少し困ったように片手で頭をかくと、それから少し声をひそめて杏に近寄った。
「たとえば、君に今よりもっといい会社を紹介してあげられるかもしれないっていったらどうだい?」
杏は、はっとしたように男の顔を見返した。
「どう、興味無い?」
まるで自分の心を見透かしたかような男の瞳に、杏はためらっていた。うまい話で杏の気を惹こうとしているのではないのか。そうとわかってはいても、しかし、男の話に興味がないわけがなかった。
男の背後に、「TMS」の大きなビルが陰となってそびえたっているのが目に入り、次の瞬間には、杏は危険な香りに吸い寄せられるように、男の誘いに乗っていた。
物静か店内には、杏の聞いたこともないようなクラッシック調の音楽が流れていた。男に連れられ入ったそこは、カフェというよりは、ちょっとしたホテルのロビーという表現が似合いそうだった。
なにより、人が給仕をしているところを見るだけで、それがそこらの安っぽい喫茶店なんかとは違うことが一目でわかる。席に案内されながら、男の背を眺めて杏は考えを巡らしていた。ナンパにしては、手が混み過ぎているし、やはり、何か詐欺まがいのことか、それとも怪しい宗教がらみか。考えられる可能性を頭の中に並べ、それとともに杏の警戒心は募っていくばかりだった。早くも、軽率についてきてしまった自分に後悔し始め、数分前の自分を恨めしく思っていた。
店の奥にひっそりと置かれたテーブルに通され、おずおずと腰をおろすとやけに柔らかいソファが杏をふわりと包み込んだ。
向かいに座った男の顔を改めて眺めてみるが、その年齢を想像するのは難しかった。張りのある肌は、杏と同級生だと言っても通用しそうだし、かといってその周りにはどこか年を重ねたような落ち着いた雰囲気をまとっている。二十代から四十過ぎまでどれを言っても当てはまりそうな不思議な男だった。
その年齢不詳で得体の知れない男の顔を眺めていると、男は杏の疑問を見透かしたかのように、一枚の名刺を取り出した。
「魔術師労働協会の樺柳というものだよ」
名乗りながら差し出された名刺を眺めて、杏はそこに漢字で書かれたフルネームをつぶやくように読み上げた。
「かばやぎ……、さんたろう?」
男はその様子に少し苦笑すると、自らの名前の部分を指差しながら、「さぶろうた」と読み上げ、杏の間違いを訂正した。そういわれて、名刺をよく見返すと、そこには確かに男の言う通り、「三郎太」と表記してある。
樺柳三郎太、それが男の名前だった。
「ああ、すみません」
恐縮しながら頭を下げる杏に樺柳は笑って手を振った。
「いいよ、よく間違えられるしね。本当、紛らわしい名前をつけられたもんだよ」
大して気にもしていないような慣れた反応で、そういってのけるとこほんと一つ咳払いをした。
「まあ、僕の名前はさておき、君の名前も教えてもらえる?」
杏が自分の名前を告げると、男は手にした小さなメモにそれを書きとった。なんだか、悪いことをして、警察に事情聴取でも受けているような気分で、どことなくその様子に少身構えていた。
「あの、それで私に用って……。それにこの魔術師労働協会って……」
おずおずと尋ねながら、男の名刺にある見覚えのない組織の名と、そこに書かれた「労働環境課課長代理」という長ったらしい肩書きを見つめた。
「ああ、聞いたことない?」
軽い口調でいう男に、杏はぶんぶんと首を横に振った。
「ええっと、NPO法人……といっても、ほとんどお役所みたいなところなんだけどね。名前の通り、魔術師の労働に関する組織ってこと。具体的にいうと、企業に対して魔術労働に関する助言をしたり、労働者と企業の問題ごとの仲介をしたり、とまあその他もろもろ。要は、魔術企業全般のもめごとやらなんやらを引き受けるところさ」
その説明に、杏は「はあ」とわかったようなわからないような返事を返すが、そんな杏の反応など、お構いなしに樺柳の説明は続いた。
「それで僕がいるのが、これまた名前の通りで、『労働』の『環境』を専門に扱う部署なんだよ。で、僕はそこの課長代理というポストの人間ってわけ」
両手を胸のあたりで開くように広げると、「わかったかい?」と最後に付け加えた。
この目の前にいる樺柳という男については、なんとなくぼんやりとは輪郭が見えてきたが、その「魔術師労働協会」とやらの人間が杏に用があるといわれても、首をひねるしかなかった。一応、魔術学校を卒業した時点で、「魔術師」という資格は手に入るのだが、今の杏はまだ「卒業見込み」であり、いわば「魔術師見習い」みたいなものである。そんな杏に対して、一体どんな用があるというのだろうか。
「それで、君にちょっとお願いがあるんだけど」
またしても杏の心を読んでいるかのようなタイミングで樺柳は、言葉を切りだした。
「実はね、『ソーサリードロップ』に労働基準法違反の疑いがあって――」
それまで終始にこやかだった樺柳の表情が鋭さを持った。
「魔術労働法に定められた福利厚生基準を無視した経営を行っているらしいというのが、その違反の主な要因なんだけど」
「魔術労働法の違反?」
「わかりやすく言えば、従業員に無理な残業をさせたり、休みをとらせなかったり、給料が極端に安かったり。世間でいうところのブラック企業みたいなところって言った方が君みたいな年の子にはわかりやすいのかな」
その聞き覚えのある言葉に、杏は表情をこわばらせた。
「君、学生であそこに内定もらったんでしょ?」
それから平然とした口調でそう言ってのけた。話した覚えのないことを口にした樺柳に、杏は驚いたように目を向けた。
その様子に、樺柳はふふんと楽しそうに笑った。
「あそこに内定をもらって、その劣悪な環境でこき使われていた学生ってのは、実は君だけじゃないんだよ」
「え!」
さすがにその時ばかりは声を上げずにいられなかった。
「君があそこで働くようになる前にね。すでに五人の学生が採用されて、働かされていたんだ。で、あまりのひどさに辞めてきたその子たちから、うちにそういった相談というか苦情が持ち込まれた」
「いや、でも……」
それを聞いてもすぐさま杏は、その言葉が信じられなかった。
初めて佐久間とカフェで話をしたときには、まるで杏だけが選ばれた人間であるかのように饒舌に語っていたのに、まさかそんな裏事情が隠れていたなんて。杏は怒りよりも先に、そんな口車にまんまと乗せられて、ほいほいとやる気になっていた自分に呆れてしまっていた。
「君がどういう風に聞かされているかは知らないけど、こちらでそのあたりの調査はすでに済んでいるからね。必要だったら調査資料を見せられるけど――」
杏は必要ないと言うように、力なく首を振った。こんな肩書きの人間がわざわざ呼びとめてまで話をするくらいだ、おそらく、それが事実なのだろう。
出しかけていた封筒を鞄にしまいなおすと、樺柳はきちんと座りなおして、杏に向かい合った。
「それで、お願いっていうのは、あそこの会社から君の労働契約書を持ってきてほしいんだ」
「?」
「その学生たちが言うにはね、不当な労働契約を結ばされたっていうことらしいんだけど、それについて確固たる証拠がなくてね。もし、君がそれを証拠として持ってきて、その契約のときの状況や労働環境について、しかるべき場で申し立ててくれれば、あの卑劣な会社の悪事を暴いて、営業をやめさせることができる」
樺柳は困惑する杏に身を乗り出して、力強くそういった。
「もちろん、僕たちの方でもその支援は十分にするよ。それで、万一働くところがなくなっても君には改めて我々から、ちゃんとした企業を紹介することを約束しよう。もちろん、君だけじゃない、そこで働いている従業員たちの受け入れ先だって探すこともできる。『魔術労働協会』っていうのはいろんなところに顔が利くからね」
「わ、私に、泥棒のまねごとをしろっていうんですか」
「そんなに、ややこしく考えなくてもいいんだ。君は、不当に結ばされた契約に対して、正当な権利を申し立てる、それだけだ」
諭すような男の言葉に、杏の心は揺らぎつつも突然の申し出にうなずけずにいた。
「これまで、魔術業界はぐんぐんと成長してきたが、その分、制度的なものとしてもいまだ未熟な部分も多くてね。不当な労働条件や賃金で働く人たちがたくさんいるんだ。そんな中でも、ちゃんと従業員に手厚い福利厚生を与えている企業だってある。でもね、そういうところにコストがかかったりする分、そういう企業はなかなか競争に勝ち残れない。結果的に、悪い企業ばかりが仕事をもらって、業界にのさばることになってしまう。だから、僕たちみたいな組織が出てきた。悪い企業を業界から排除して、いい企業を守っていく。それが、健全な魔術業界を作るために必要なんだよ。いま、こうして君にお願いしているのも、そのためなんだ」
真剣な表情で語る樺柳の表情を杏は改めて見返した。そして、今日起こったことを思い返し、膝の上でぐっと手を握り締めた。
もしかしたら、もっと自分の理想に近づける企業が見つかるかもしれない。
「……わかりました」
胸につっかえていた何かを吐き出すように、杏はその言葉にうなずいていた。口に出してみると、それが自分にとって最良の選択のようにも思えてくる。
「そうか! やってくれるかい!」
杏の返事に、樺柳は身を乗り出して、うれしそうな声を上げた。
「じゃあ、また明後日にでもその契約書をもって会えるかな?」
「え、はい……。なんとか頑張ってみます」
最後に樺柳から差し出された手をとり、握手を交わした。力強く握り返す樺柳の手の冷たさに、杏は思わずどきりとした。




