就活中の人には絶対に読ませたくない現代魔術ファンタジー4
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「ソーサリードロップ」に入社して、そろそろ二週間が経とうかというころ、杏はその日も朝から眠い目をこすりながら満員の車両に揺られ、事務所へと向かっていた。駅についたところで、一つ大きなあくびが漏れる。仕事の量は相変わらず多く、杏は悪戦苦闘の末の深夜帰宅の毎日であったが、それでも日々の仕事で徐々に理解できることも増え、それなりにやりがいも感じつつあった。
「おはようございます」
明るい声で事務所の扉をあけると、二つの丸まった毛布がソファの上と、床に一つずつならんでいる。まるで大きな芋虫か何かのようにも見えるその二つの塊に杏はやれやれとため息をついた。
「二人ともまた泊まりですか。起きてください。もうすぐ佐久間さんも来る時間ですよ」
呆れたように杏が声をかけて、二人を起こすと床にある方の毛布から四方木の顔がむくりと生えてきた。無精ひげが伸びた顎をさすり、まぶしそうに目を細めながら、杏の方を見上げてあくびをひとつかいた。
この二週間の間に、杏は仕事絡みことのほかにもいろいろなことを知るようになった。派遣の花藤さんには契約の都合で残業させてはいけないとか。泊まりの時の寝る位置は毎回じゃんけんで決めてるとか。
そんな中でも、杏をもっとも驚かせたのは四方木が結婚していることだった。遊び人を絵に描いたような風貌の四方木が、家庭を持って腰を落ち着けているということ自体、杏にとって意外でならず、おまけにもうすぐ二歳になる女の子までいるというのだから、さらに驚きである。
「もう。ちゃんと家に帰らないと奥さんに怒られますよ」
「いいんだよ、怒らせとけば」
そういいながら、のそのそと毛布から這い出てくるが、四方木の机の引き出しにはちゃんと奥さんと子供の写真がこっそりと忍ばせてあるということを、柏から聞いて知っている。
その当の柏はというと、いまだに毛布にくるまったまま微動だにしない。これも、この二週間の間に知ったことであるが、柏は極端に朝に弱い。自ら夜行性と自称するだけあって、午前中はただでさえ少ない口数がもっと少なくなって、ほとんど置物のように座っていることもある。
杏が毛布をはぐと、中から恨めしそうな表情の柏が現れた。そこまでしてようやくのそりと起き上がるが、自らのデスクへ移動すると、すぐにそこで突っ伏すようにして再び眠りについてしまった。
杏をその様子を苦笑いとともに見送ると、みんなの分のコーヒーを入れはじめた。それが、杏のほぼ毎日の日課である。誰から言われるまでもなく、自分でやれることを探して、少しずつそれを実践していった。
些細なことであるが、それら一つ一つが新鮮であり、杏にとっては張り合いのある毎日になっていた。
「おはよう」
そこに佐久間の、よく通るきれいな声が響き、杏はその声に背筋がすっと伸びるのを感じた。眠そうにしていた四方木も顔を引き締め、柏もむくりと顔を上げる。佐久間の存在は、そこにあるだけで周りの空気が凛と引き締まるような独特の雰囲気を持っている。
一瞬、杏の方を見て、わずかにほほ笑むと、次の瞬間にはその顔つきは仕事のときのそれに移っていた。
「この前言ってたイーマ社の契約についてだけど、見積書は今日中に仕上げておいてね。それから――」
いつものように、朝一番の指示を飛ばす佐久間さんに割って入るように電話が一本鳴り響いた。
「ええーと。ああ、はいー、わかりましたー。少々お待ちください」
電話をとった花藤が険しい表情で受け答えをしたあと、佐久間に受話器を差し出した。佐久間はそれをうけとるなり、神妙な様子で電話に耳を傾け、「申し訳ありません」や「すぐうかがいます」などの言葉をいくつか並べはじめた。その言葉の端々から察するに、それがあまりいい内容のことではなさそうなのは杏にも感じ取れた。佐久間は電話を終えるなり、ひったくるように自分のかばんを掴んで、杏に声をかけた。
「ちょっと今から出るから一緒に来てくれない。四方木と柏は適当に仕事片付けといてちょうだい」
そう言い終えるころには、佐久間はすでに扉から出てしまっていた。杏は、それを見てあわてて自分のかばんを持って、わけもわからずそのあとを追いかけた。朝一番の唐突の出来事に驚きながら、慌てて階段を駆け下りていった。
ビルの下に降りると、佐久間がちょうど向かいの道路でタクシーをつかまえているところであり、せわしなく手招きをしていた。杏がせかされるようにそこに乗り込むと、すぐさまタクシーは音もなく走り始めた。
「お得意先でうちが入れた術式にトラブルがあったらしくてね。お客さんが血相変えて怒ってるみたいだったから、それを見に行くのと謝りに行くのね」
手短な佐久間の説明に、杏はおずおずと首を縦に振った。
たどり着いたのは都心から少し離れたところにある、大きな倉庫が立ち並ぶ敷地だった。いくつもの古ぼけた倉庫が並び、そこにはひっきりなしに運送用のトラックが出入りしていた。
「おう、どうなってんだ、おたくの魔術ってやつはよ!」
その一つの入口に立つと、男が待ちかねたように中から出てきて、挨拶もせずに乱暴な口調で二人にそういった。彼が怒っている様子は見るに明らかだ。作業着姿の四十かそこらの男性は、頭髪に少し白髪がまじっている。顔を真っ赤にして、険しい表情で二人の方へと詰め寄ってくる。
物凄い剣幕に佐久間がなだめるように頭を下げ、現場を見せてほしいという佐久間の言葉に、険しい顔つきで無言のままそそくさと歩き始めた。
男の横柄な態度に、杏は人知れず顔をしかめた。こっちだって朝からこんな遠いところまできてるのだから、ねぎらいの言葉くらいあってもいいだろうに。
杏は口には出さずとも、静かに不満を募らせていた。
男に連れられ倉庫の中に入ると、普段はあまり見慣れない光景を興味深げに眺めた。
何体ものキメラが中空を行きかい、それぞれが箱のようなものを運んでいる。その足元では、大きなゴーレムが大きなコンテナをいくつも抱えて、それを運び出していた。それぞれの荷物は、やがては何台も並んだ大きなトラックの荷台へと積まれていく。どうやら、倉庫内の作業をすべて魔術によって制御しているらしい。複雑な魔術陣がそこかしこに施されているところをみると、かなり大がかりな魔術機構になっていることは杏にでもすぐに予想できた。
「ここなんだがね」
案内された倉庫の片隅には、妖精の術式の施された魔術陣が組まれているが、肝心の妖精の姿はどこにも見られない。精霊の放つ特有の光の粒子がわずかに漂っているだけで、術式がきちんと作動している様子になかった。
男は批判するような目つきで、佐久間と杏を見返している。
「今朝、起動してみたらずっとこんな調子で妖精なんかでてきやしねえ。昨日まではちゃんと動いてたってのに!」
怒りをあらわにしながら詰め寄る男に、佐久間は「申し訳ありません」と何度目かの言葉を口にした。
「これだから、無名の企業なんかに頼むんじゃなかったよ」
直接言ったつもりはないのだろうが、その言葉ははっきりと杏の耳にも届き、なんだかもやもやとした嫌な気分になった。
「少し調べる時間をいただいてもよろしいですか」
そういって深々と頭を下げる佐久間にならって、杏も不承不承に同じように頭を下げた。
「ああ、なるべく早くなんとかしてくれよ。商品がだめになったら、それなりの責任を取ってもらうからな」
厳しく言い付けるような言葉を残して、男が奥へと消えていく。佐久間はその後ろ姿にもう一度深く頭を下げたが、男はそのことに気づく様子もなく、立ち去ってしまった。
こんなにも言われてただ黙って従うだけの佐久間を、杏は不思議な面持ちで眺めていた。
すっと頭を上げた佐久間が、くるりと杏を振り返った。
「あなたはそこの魔術陣の種類の判別と触媒の確認をお願いできる?」
そう指示を出すと、佐久間自身はあたりをぐるりと動き回ってなにやらほかの部分を見て回っている。杏は黙ってうなずいて、言われた通り床に書いてある魔術陣に目を落とした。柏から借りていた本をぺらぺらとめくり、その中から目の前の魔術陣に合致するものを探す。「氷妖精ウィスプ型――おもに温度調整に用いられる」と記述のある部分のものがちょうど杏の目の前にあるものと同型であるのを確認すると、今度はそこに施された術式の一つ一つを見比べていく。
術式とはいわば、精密な歯車のようなものである。それぞれの配置と配列には必ず意味があり、それらを用途と場所によって調整して、ちゃんと稼働するようにするのが、魔術師の主な仕事である。経験の浅い杏では、これほど複雑なものを一から作ることは難しいが、できあがったものを調べるくらいのことはできる。
そこに書かれてある術式に間違いがないことを確認すると、今度はその中央に置かれた手の平くらいの大きさの小さな板状の石のようなものをそっと手にとって慎重に眺めた。ひやりとした感触が杏の手のひらに伝わってくる。
杏が手にとったのは、魔術触媒である。簡単にいえば、精霊の好物のようなもので、そこに引き寄せられた精霊を利用するのが魔術の基本である。今回の妖精魔術の場合も、精霊を術式によって妖精として組成するのが基本作用である。
術式が正しいなら触媒のほうの異常かとも考えたが、それも正しく氷精霊用のものを用いており、どこかに不備があるようにも思えない。杏は首をひねりながらそれを元の場所に戻した。ちゃんと妖精を呼び出すための方法としては、間違っていないはずである。
「そっちはどう?」
そこに佐久間が戻ってきて、杏の肩をとんとんと叩いた。
「たぶん、これであってると思うんですけど……」
あっているなら動かないわけないと内心思いつつも、自分の知識不足も相まって、いまいち断言できずにいた。
「だとしたら、これかしらね」
少し考え込むような仕草を見せた後、佐久間はおもむろに後ろにあった大きなコンテナを指差した。
「さっきの人呼んできてもらえるかしら?」
佐久間の指すものについて、よく理解できないものの、杏は言われるがままに先ほどの男を呼びにいった。
「なんでえ、もうなおったのかよ」
相変わらず横柄な態度のままやってくる男に、杏はむっといらだちを募らせた。しかし、佐久間はそんな男相手にも顔色一つ変える様子はない。平然とすました顔で説明を始めた。
「こちらのコンテナは昨日置かれたものではないですか?」
「どうだったかな」
佐久間の指したコンテナに向かって男は首をひねりながら曖昧な返事を返した。
「でしたら、これを別の場所に移していただく必要がありますわね。この中身はおそらく魔術品か何かが入ってるのではないでしょうか。それが、こちらの魔術陣に干渉しているものと思われます」
そう言われた男性は険しい顔をしたまま、ポケットから取り出した小さな紙束を眺めて、「ああ、『結晶石』ってなってるね」とわびれもせずに憮然と言ってのけた。
「導入時にご説明しました通りですが、こちらの魔術陣は非常に繊細なものとなっておりますので、強力な魔力を発するものは近くに置かないようにくれぐれもお願い致します」
横で聞いていた杏はようやく今回の不具合について納得がいった。この障害の原因は魔術そのものではなく、いわば向こうの人為的なミスであるのだ。
「はん、そんなもの。おたくら魔術師なんだからなんとかしといてくれよな。ったく、使えねえな」
その途端、その言葉を聞いていた杏は、それまでに積もってきた何かがはじけたような気がした。
「ちょっと待ってください。そんな言い方はないんじゃないんですか」
思わず口をついて出たその声は、自分でも驚くほど大きく庫内に響き渡ったが、杏はそれをやめようとはしなかった。
「八橋さん」
佐久間がたしなめるのも聞かずに、杏はなおも言葉を続ける。
「だいたい、魔術陣のそばに、結晶石をおいてはいけないなんて常識ですよ――」
「八橋さん!」
「そっちにも責任があるのに、まるで全部こっちの――」
突如、ぴしゃりと強い音が倉庫の中に響いた。
杏には一瞬、何が起きたのか分からなかった。頬が熱をもったような痛みに襲われて、杏は我に返ったように、その部分に触れた。目の前には痛々しそうな表情で手の平へと触れる佐久間の姿があった。
「申し訳ありません」
佐久間はすぐさま目の前の男性に向き直り、これまで以上に深々と頭を下げている。本来なら杏もそうするべきだろうに、そうすることができなかった。
「もういい! 要件は済んだんだ。帰ってくれ」
声を荒げてその場から立ち去る男に、佐久間はもう一度深く頭を下げ、呆然とした様子の杏を無言でひきつれてその場を後にした。
帰りも、来るときと同じように二人でタクシーに乗り込んだが、車内はしんと静まり返っていた。男から何を言われても顔色ひとつ変えることのなかった佐久間だったが、そこには杏に対する静かな怒りの色が見えていた。
杏は、そのことを感じ、ただ黙って膝の上で手を握っていた。
彼女があんなことを口走ったのは、なによりも男が佐久間に対してあんなひどい態度で接した上に、その行いを改めようとしないからであった。それなのに、その当の佐久間から手を上げられ、いさめられたことに少なからず当惑していた。
自分は何も悪いことをしていない。向こうが悪いのは明らかなのに。
事務所に帰りつくまでの間、ずっとそのことばかりを考えていた。
ビルの下で、タクシーが走り去ると同時に、佐久間が振り返り、はじめて杏に話しかけた。
「今日はもう帰っていいわよ。家でもう一度自分のやったことを振り返ってみなさい」
もう、その声には怒りの色は帯びていなかった。ただ、どこか諭すような言い方に、杏は心の隅を静かに刺されたような痛みを覚え、黙ってうなずくことしかできなかった。
その言葉だけを残し、佐久間は建物の中へと消えていった。




