就活中の人には絶対に読ませたくない現代魔術ファンタジー3
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「で、へとへとになって帰ってすぐ寝ちゃったから、課題ができなかった、と」
翌日、講義室で目の前の机に座り、これみよがしにため息をついているのは、杏の親友の小倉みかさである。
「就職決まったって、あんた、それってヤバいとこじゃないの? ほら、いわゆるブラック企業ってやつ」
みかさは人差し指をたてて、険しい表情で杏に詰め寄った。
「ブラック企業?」
「知らない? 超劣悪な労働環境で社員を働かせる会社のことよ。サービス残業は当たり前で、休みも碌にもらえない上に、超薄給。経営者だけが暴利をむさぼってる。そんな会社をブラック企業っていうのよ。この不景気で内定のもらえない学生を捕まえて、馬車馬のように働かせて、いらなくなったら、ぽいと捨てちゃう。きっとそんなことを考えてるに違いないわ。杏、そんなとこやめときなよ」
まるで我がことのように熱弁を振りまく親友をなだめるように、杏は手を広げてまあまあといさめた。
「でも、みんなそんな悪い人には見えなかったし……」
「何言ってんの! 学生を呼び出して、最終列車ぎりぎりまで働かせるなんて聞いたことないわ。冷静になってごらん。そんなとこでこの先ずっと働くことになるのよ」
そういわれて杏は思い描いてみた。昨日みたいな最終間際までの仕事を続ける毎日がずっと続く毎日を。
考えるだけでもぞっとする生活だった。
なんだか、自分がいま断崖絶壁の端に立たされているような気分になっていた。これ以上、進むとその先はもうまっさかさまに落ちていくしかない。
「ねえ、悪いことはいわないから。やめときな、そんなとこ。今すぐにでも連絡してやっぱりやめますって言った方がいいわよ」
「ええ、でも……」
みかさにそう言われてもまだ、杏は迷っていた。
「ね、ほら。手遅れにならないうちに」
せかすみかさに言われてかばんをあけると、その中にある一冊の本が目に入った。昨日、柏に借りた本をそのまま、あわてて一緒に持って帰ってきてしまっていた。
「か、借りてる本があるし、せめてそれを返して直接会って断って、謝ってくる」
みかさは杏のその言葉に、やれやれといった様子で再び大きくため息をついた。
「あんたってほんとお人よしの大馬鹿ものね」
普段は気弱なくせに変なところだけ強情な親友のことを、みかさは良く知っている。それ以上は何も言うまい、と前に向きなおった。
学校が終わり、「ソーサリードロップ」へと向かう列車にて、杏はいまだに決断しかねていた。みかさには、ああ言ったものの、せっかくもらった内定をむざむざと手放してしまうのは惜しい気がするのも事実である。けれども、みかさの言うとおり本当に「ブラック企業」というやつなら一刻も早く辞めて、すぐにでも就職活動を再開しなければならない。
本を返したら、昨日の契約のことも含めてなかったことにしてもらおう。もしかしたら、すごく怒られるかもしれない。そう考えるだけで憂鬱な気分になってきたが、ここでちゃんと毅然とした態度をとらないと、いつか本当にみかさの言うとおり大変なことになるかもしれないのだ。
杏がそう結論付けた時に、列車はちょうどホームへと入りゆるやかに停車した。
昨日と同じように、行き交うサラリーマンの間を抜け、事務所の入っているビルの入り口までたどり着くと、またしてもため息をついた。杏の言うことを素直に受け入れてくれるかどうかもわからず、不安でたまらなかった。第一、杏が納得してサインしたにもかかわらず、それをいまさら辞めたいだなんて非常識ではないか。でも、そういうならややこしい契約書をわかってて渡した向こうも悪いんじゃないのか。いや、しかし自分がちゃんとそれを読んでさえいれば……。
そうやってぐるぐると、頭の中でいろんな言い訳や後悔が渦巻いて、何の解決策も思い浮かばないうちに、事務所のある階へと上りついてしまった。
昨日もみた「ソーサリードロップ」の社名がガラス扉に描かれている。ここまで来たら腹をくくるしかない。まず真っ先に佐久間に本題をぶつけてやろう。
もう、どうにでもなれ、と半ばやけになりながら、扉へと手をかけようとした瞬間、扉のガラスの向こうに人影が映ったかとおもうと、勢いよくドアが開けられ、杏は危うくドアに顔をぶつけそうになった。あわてて、後ろに下がると、そこから飛び出してきたのは佐久間だった。
彼女の方も驚いたように杏の姿を見ていた。
「あら、こんにちは。でも今はちょっと急いでるから、ごめんね」
杏が何かを言うよりも先に、佐久間は早口にそういうと足早に通り過ぎていってしまった。そのあとから続けて柏が現れ、視線だけで杏の姿をとらえると、佐久間と同じように急いでいる様子で、階段の方へと消えていった。
怒涛の勢いで過ぎ去ってしまった二人に、忽然と取り残された杏は恐る恐るドアを開けた。顔をのぞかせると、四方木が「やあ、杏ちゃんお疲れ様~」とのんきな様子で片手を上げた。それにつられて、顔を上げた花藤も、「おつかれさまで~す」とあいさつを返す。
「あの、いまさっき佐久間さんたちがすごい勢いで……」
二人のただならぬ様子に驚きを隠せない杏に対し、四方木はさも珍しくもない様子で答えた。
「どうやら、取引先に入れてるゴーレムがトラブったとかで、柏と二人で向かったんだよ。あの様子だと、今日中には帰ってこれないかもね」
せっかくめいっぱいの覚悟を決めて腹をくくったというのに、いきなり出鼻をくじかれる格好となってしまい、自分の間の悪さを呪った。
「ああ、でも杏ちゃんの仕事はちゃんと用意してあるみたいだから安心して」
親指をくいと杏の使っていたデスクのほうへと向けると、昨日と同じかそれ以上の書類の束がそこには積み上げられ、異様な存在感を放っていた。
「やることはほとんど昨日と一緒らしいんでまた今日中にやるように、って佐久間さん直々のご命令だよ」
声には出さずとも杏はげんなりと肩を落とした。
辞めるつもりで来たというのに、またしてもこんな量の仕事をこなさなければならないなんて。内心で愚痴りながらもどうすることもできず、その場の空気に流されるようにデスクへと着いて、与えられた仕事に手をつけ始めた。
だが、どうにも思うように進まないのは、やはり辞めるということを言いそびれたせいである。本当はこんな仕事なんか投げ出して、きれいさっぱりと帰ってしまおうかとも考えたが、小心者の杏にそんな大それたことを実行する勇気もない。
ぼんやりと眺めた窓の外には、この街の新しいシンボルとなる大きなタワーが建設中であるのが見えた。建設用の足場の上をひときわ大きな土木型のゴーレムが何体もひっきりなしに動き回っているのが、遠くからでもよくわかる。きっと、あそこでは杏には到底理解できないような複雑な術式がふんだんに用いられているのだろう。完成すれば、魔術建築法によって作られた建造物のなかでは、世界最高の高さのものとなる。
まさに華やかなる魔術先進国の象徴とでも言うべきものであった。
しかし、その足元ではこうやって杏のように、あくせくと働くだけの人間もいる。自分が思い描く魔術師という姿とかけ離れた現状に、鬱々とした気分は募る一方であった。
「どうぞ」
香ばしい香りがふわりと漂ったかと思うと、杏のデスクの端にコーヒーの入ったマグカップが一つ置かれた。
「なんだか、昨日みたいな元気がないね」
そういって四方木が近くにあった椅子へと腰掛ける。
杏は曖昧な返事を返しながら、そのマグカップを両手で包みこむようにして持ち上げた。
「ここに入って後悔してるとか?」
図星を突くような四方木の言葉に、杏は驚いてその顔を見返した。
「だって杏ちゃん、顔にそうかいてるもの」
そう言われて思わず自分の顔を手のひらで触ってしまい、四方木はその様子を見て楽しそうに笑った。
「よ、四方木さんは仕事辞めようとか思わないんですか?」
杏はある意味開き直ったように問いかけた。
「んー、思ったよ。残業ばっかで、給料は安いし、佐久間さんは厳しいし。それでも続いたのは意地みたいなもんだったかな」
「意地?」
問い返す杏に、四方木は自らも再確認するかのように「そう、意地」とつぶやいた。
「俺と柏と佐久間さんはね、前も同じところで働いてたんだ。『総合魔術サービス』ってとこ。ああ、今は『TMS』って名前だったかな」
杏はそれを聞いて驚きのあまり目を見開いて、目の前の四方木を見返した。魔術師を目指す人間なら、一度は必ず耳にしたことがあると言いきってもいいくらい業界では超大手の企業である。
「そこで俺と柏は、佐久間さんの下で働いてたんだけど、佐久間さんが会社を起こして辞めるってんで、二人してそっちについてきたってわけ。最初は今以上に大変でね。それこそ寝る間もないってやつ。それでも、柏が黙ってやってるのに負けてたまるかって意地とせっかく俺を誘ってくれた佐久間さんをがっかりさせたくないって意地。なにより、こんなことで泣きごとをあげてたまるかっていう自分に対する意地。そんなことを考えているうちにいつのまにか今に至るって感じかな」
照れくさそうに笑う四方木を杏はじっと眺めていた。
そんな凄いところで働いていたというだけでも驚きであるのに、まさかそこを辞めて今の会社で働いているなんて杏にとっては信じられない話である。いくら魔術業界が不況といえど、『TMS』であれば、それこそ人並み以上の生活を手にすることだってできたはずだ。今みたいに残業に追われるような毎日を過ごす必要もないだろうに、目の前の四方木のどこか満足げな姿が杏には不思議に映って見えた。
「まあ、がむしゃらになにかをやってこそ得られるものってのもあると思うんだよね」
そう言い残すと、自らのカップを持って立ち上がり、自分のデスクへと戻っていった。
杏はその背中を見送りながら、すっかりと冷めてしまったマグカップを持ち上げた。
思えば、ただなんとなく目指した魔術の道であり、これまでにがむしゃらに打ち込んだこともなかった。どうせ、自分なんてと卑屈になりながらこれまで大した努力をしたことなどない。
口を付けた生ぬるいコーヒーの苦みがじわりと広がり、杏はわずかに顔をしかめた。
ここで投げだしたら杏の人生はずっと中途半端なものになったままになってしまう。四方木のような満足した笑顔なんて一生できないかもしれない。
そんな予感が杏の中に駆け巡ると、いてもたってもいられなくなり、乱暴に書類の束をつかんでデスクの上に広げた。自分が頑張ったからといってそれが報われるとは限らないかもしれない。それでも、杏は頑張らずにはいられなかった。
『で、結局辞めるなんて言えずに言われた仕事をきちんとこなしてきた、と』
その夜、電話でみかさに説明するなり、受話器の向こうからこれみよがしにため息をつく声が聞こえてきた。
『あんたってバカじゃないの? そんな簡単に説得されてどうすんのよ』
「でもでも聞いて、みかさ。昨日は、最終よりも二本も早い列車に余裕で間に合ったのよ」
自慢げにそういってのける親友に再び、みかさはため息をついた。
『結局、残業させられてんのになんで喜んでんのよ』
「だって、昨日より少しは仕事ができるようになったんだなって思うとつい嬉しくって。私でもやればできるんだなって」
みかさは単純で間抜けで、それでいて驚くほど素直な親友に呆れかえっていた。
『あんた本当にどうなっても知らないわよ』
「みかさが心配してくれてるのはわかるけど、私もう少し頑張ってみるね」




