就活中の人には絶対に読ませたくない現代魔術ファンタジー2
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ビジネス街を抜け、少し入り組んだ路地を入っていくと古ぼけたビルが建ちならんでおり、そこかしこに「テナント募集中」の張り紙がはためいていた。佐久間に連れられて、その中の一つに入り、薄暗い電灯の階段を上ったさきで、「ソーサリードロップ」と書かれたガラス扉を目にした。
「もどったわよ」
勢いよく扉を開けるなり、佐久間は部屋の中を見渡した。杏も、彼女の肩越しに室内の様子を見て取る。それほど広い部屋ではなく、入り口から中を十分に見渡せるくらいの広さであり、そこに男が二人と女性が一人見えた。いずれも、杏より少し年上くらいに見える。
男の一人のほうが顔を上げ、杏のほうを見て、にっと笑顔を見せた。こんがりと日に焼けた肌のなかに、真っ白な歯がひときわ輝いている。杏はおずおずと首をわずかに下げてその男に挨拶を返した。
「はい、じゃあ新入社員の八橋杏さんね」
いきなりそう紹介され、杏はかろうじて「宜しくお願いします」というだけで精一杯だった。先ほど、杏に笑いかけた男が「よろしく」と返事を返す。もう一人の男のほうも首だけでこくりうなずいて見せた。
「おねがいしますー」
聞き覚えのある間の伸びた声で、女性がにこりと笑顔を見せた。どうやら、最初に電話口に出た女性は彼女であるらしい。
一通りの顔見せが終わるや否や、佐久間の顔つきが鋭く変わった。
「四方木、売買契約書はできた? 今日中にあと、三件は仕上げてね。のんびりやってると今日も泊まりになるわよ。それと、柏、構成設計の確認しておいてくれた? 術式の細かいところまでちゃんと見直しておくのよ」
扉のすぐそばのデスクに座る二人の男に向かって、きびきびと指示を飛ばし、ずかずかと部屋の奥にある大きなデスクの前に歩いていった。
「へいへい」「わかってますよ」
佐久間のあとへと続く杏の背中には、四方木、柏のそれぞれのぼやくような声が聞こえてきた。
当の佐久間は、聞こえているのかいないのか、そんなことには全く気にするそぶりも見せず、大きなデスクの前にある椅子へと腰を下ろした。
「ああ、それから花藤さん、さっきの件、そのまま発注しておいて。月末までに必ず納品するように、強く言っておいてちょうだい」
佐久間がそういうと、
「わーかりましたー」と先ほどと同じく気の抜けるような返事が花藤から返ってきた。
怒涛のように指示を飛ばしたあと、佐久間はそのままデスクの上に広がっていた書類に目を通し始めたものだから、杏はその横で呆然と置いてけぼりにされたまま立ち尽くす状態になっていた。
「あの、佐久間さん。私は一体どうすれば……」
恐る恐る尋ねた杏に、佐久間はしばし考えるようなそぶりを見せ、無言で近くにあった書類の束をどんと杏の目の前に置いた。その重さの反動で、デスクに置いてあったコップからその中身がぴしゃりと跳ね上がる。
「じゃあ、この案件のここの妖精用の術式を考えてちょうだい。机はそこのを使っていいから。十一時までにやらないと帰りの列車に間に合わないわよ」
「え、あの、その……」
有無を言わせぬ佐久間の様子に杏は、しばし返答を返せずにいた。
「あなたは私の会社の社員になった、そうよね?」
「いや、でも私まだ学生で……」
「そんな細かいこと気にしないの。ああ、でも卒業はちゃんとしてね。学校があるときはそっちにいってくれていいから。そのかわり、あなたの扱いは『試用期間』ってことになってて、お給料はほとんど出ないから期待しないでね。さっきの契約書でそういうことになってるの」
さらりと聞きたくないことまで付け加えると、再び手元の書類へと目を落としてしまった。
「私はまたすぐに出かけなきゃならないから、何かわからないことがあったらそこの四方木か柏に聞いてちょうだい。ああ、花藤さんはダメよ。あの子は事務の専門の派遣の子だから」
佐久間は早口でそうまくしたてる。さきほどまで女神のごとき慈愛にあふれていた彼女は、いまはさながら戦場を駆け抜けるジャンヌ=ダルクのような勇猛さにあふれていた。ビジネスという戦場に舞い戻ったその振る舞いこそ彼女の真の姿なのだ。
杏はその様子に圧倒され、何かを言おうにも何をどう言うべきかわからなかった。そうこうしているうちに、杏が声をかける暇もなく、佐久間はふたたび扉から出て行ってしまった。
嵐が過ぎ去ったかのように室内は静まり返り、部屋にいる社員たちも特段、それを気にしている様子もない。みな、黙々と自らに与えられた職務を全うしている。
その場に取り残された杏の目の前には、山となった類の束が積みあがっている。
これはきっと佐久間社長が自分のためを思って与えてくれた課題なのだ。そう考えて、無理やり自分を納得させようと試みたがうまくいかず、ひとつの嫌な考えが杏の中に首をもたげてきた。
自分はもしかしたら、とんでもない過ちをおかしてしまったのではないか。
今さらさっきの契約はなかったことにしてくださいと言いだせるような雰囲気でもなく、しょんぼりと肩を落とし、目の前の書類の束を抱えて、隅の空いているデスクの上にもっていった。
ひとまず、椅子に座ってみたはいいものの、その膨大な資料を前にため息しか出てこない。だいたい、学校の課題ですらいつもギリギリのお情けで「可」をもらっているような杏に、いきなり何の準備もなしに実稼働における妖精の術式など作れるわけがない。
目の前に並ぶ複雑なデータや数式を眺めては、またひとつため息が漏れた。
だからといってこのまま、ぼんやりと座っていたところで終わるものも終わらない。
「す、すみません」
佐久間に言われた通り、ここは諸先輩方に教えてもらおうと、先ほど杏を愛想よく迎え入れてくれた四方木という男に声をかけた。
「んー、ちょっと待ってね」
手元の書類にペンを走らせていた四方木はキリのいいところまで仕上げてから、杏に向かい合った。
「それで、どしたの?」
左右に流した長い髪をかきあげる姿は、一見すると繁華街で客寄せをしているホストか何かに見間違えそうになる。とてもじゃないが、サラリーマンをしているようには見えない。
「ちょっとわからないところがあって……」
四方木はぺらぺらと書類の束をめくってその中身を確認すると、
「ああ、これね。こんなの簡単だよ」と平然と言ってのけた。
「妖精の術式なんて、ぶわっとやってどんと書いて、ちょいちょいっとやれば完成だ。あとは、適当にひょいひょいといじって、おしまい。こんなのノリと勢いでやっちまえば楽勝さ」
「はあ、『ぶわ』で『ちょいちょい』に『ひょいひょい』ですか……」
どうにも四方木は冗談で言っている様子でもない。しかし、そんなニュアンスで説明されても、杏にはさっぱりである。
「最近の学生はまともに勉強すらしていないんだな」
何か言おうとした杏に割って入ったのは、向かいのデスクに座る柏だった。眼鏡をすっと中指で直して、冷やかな瞳で杏のほうを見上げる。彼の周りだけ、一段と温度が低くなったように思えた。
「それから、頭で考えないで感覚だけで生きてる単細胞には、何を聞いても無駄だと忠告しておくよ」
少し皮肉を込めたような笑みが表情に浮かんでいる。
「なんだとてめえ、柏! それ俺のことか!」
食ってかかるような四方木を放っておいて、柏はどんと一冊の本をデスクの上に置いた。
「これを使ってちょっとは勉強してみるといい」
まるでちょっとした菓子折りの箱くらいありそうな直方体の物体の、その背表紙には『理論魔術学入門書』と堅苦しい文字が並んでいた。
「なにごとも紙で覚えるのが一番だからね。人に頼る前に自分で考えることをしたらどうだい。それは僕には必要のない物だから君が自由に使っていい」
そう言い終えると、また元のように作業に戻ってしまった。なんだか、他人頼りな自分を暗にいさめられた気になってしまった。しょんぼりと肩を落とし、杏はそっと近づいて、その本を恐る恐る受け取って、また席へともどった。
「俺だったらいつでも聞いてくれていいからね」
四方木はそういってくれるものの、柏の手前そうそう何でもかんでも質問するわけにはいかなさそうだった。
仕方なく柏から借りた本を開き、佐久間に与えられた書類と読み比べていく。難解な言葉がびっしりと並ぶその本は、学校で使う教科書以上に読み説くのに苦労するものだった。
ただ、驚いたことに、ところどころには几帳面な字で書き込みが加えられており、時間はかかりつつも杏自身でなんとか理解できる範囲ものとなっていた。それから、杏は黙々と資料と専門書のにらめっこを続けた。途中、派遣社員の花藤が定時で上がっていく姿を見送りはしたが、あとはずっとデスクに向かい合っていた。
「妖精の使役の際は、大気中の精霊の分布に注意しつつ、その触媒の配合を……」
ぶつぶつとそこに書いてある内容を読みあげていると、「杏ちゃん」と声をかけられた。
夢中になって専門書を読み続けていた杏は、急に呼ばれてはっと顔を上げるとそこに四方木の姿があった。
「もう、こんな時間だけど大丈夫なの?」
そういわれて、あわてて時計を見ると、十一時少し前。いつの間にかそんなに時間がたっているとは思いもよらなかった。なんとか、佐久間の言われたことはできあがったが、それで正しいかどうかはあまり自信がない。
「急がないと最終列車に間に合わないよ」
そう言われ、悲鳴に似た声をあげた杏は、デスクの上に広げていた荷物をまとめてかばんにほうりこむとあわてて椅子から立ち上がった。
「ああ、そうだ。明日は学校の授業があるんですけど」
「そう。じゃあ、それが終わってからこっちに来てよ。佐久間さんには俺から伝えとくから」
やっぱり来なくちゃならないのか。
少々げんなりとしつつ、それでも今はそんなことよりも、列車に間に合うように急ぐことが先決だった。
「お疲れさまでした」と部屋を飛び出したところで、杏は何かを思い出したかのように、もう一度顔だけを事務所の中にのぞかせた。
「柏さん。本、ありがとうございました」
少し驚いたように顔を上げた柏が、おもむろに眼鏡をずり上げて、軽くうなずいた。
扉がバタンとしまると、どたどたと階段を下る盛大な足音が事務所の中まで聞こえてきた。その様子を柏は鼻をならして、ふんと笑う。
「いい子じゃないか」
四方木が、意味ありげに柏に顔を向けた。
「さあな。今回のは何日もつことやら」
「前回のは三日だったっけ?」
柏はそれに答えず、静かに首をすくめて、再びもとのように手元に視線を落とした。
発車間際の最終列車になんとか駆け込むと、杏はぜえぜえと肩で息をした。車内にはスーツ姿のサラリーマンたちがひしめき合っており、座れるような場所もない。最終列車がこんなにも混むものだなんて初めて知ったのだった。
列車が走り始めるとすぐに、杏は吊革につかまる手に体を預けるようにして、こっくりこっくりと意識の行ったり来たりを繰り返していた。一刻も早く家に帰って、ベッドの上に横になりたかった。
どうして、こんなことになっているのだろう。また、明日もこんな時間まで働かされるのだろうか。そんなことを考えているうちに、杏の意識はだんだんと遠のいていった。




