5
連れて行かれたのは裏の控え室のような所だ。
ようやく迷子になった経緯と、巧から聞いた話しをスタッフに伝えてから、沙羅はほっと息をつく。
これで沙羅と章の役目は終わった。
つまり、これ以上巧の側にいてあげる必要もなければ、章と協力する必要もなくなってしまったという事になる。ほっとしたと同時に、寂しさのような感情が込み上げた。まだ二人と離れたくないと、後ろ髪を引かれるような気持ちでいっぱいだった。
何より巧が不安そうに二人の手を握って離そうとしないのを見ると、置いていくのも忍びない。
部屋の端っこにおもちゃがあったが、そちらにはあまり関心を引かれていないようだった。
「どうする?」と、言葉にはしないまま二人が顔を見合わせたその時、部屋のスピーカーから「迷子のお知らせです」と放送が響いた。
早速巧の名前と特徴が放送されていた。イベント会場と違って控え室のようなこの場所は放送が良く聞こえる。
沙羅と章は、何となくその放送に耳を傾けた。
たったこれだけのことをするために、ずいぶんと遠回りをしてしまったような気がする。
「お父さん、これで気付いてくれるといいね」
沙羅の手を握る巧の小さな手が、ぎゅっと力が込めてくる。巧の不安が伝わってきた。
「もう少しだけ、いようか?」
章に目配せして苦笑する沙羅に、しゃあないな、と笑って章が髪をかき上げる。
しばらく他の子供達も含めて少し話をしていると、スタッフの元に会場の方から連絡が来た。
「はい、はい、まえだたくみ君ですね、はい、間違いないです……」
その名前に反応して、沙羅と章は内線で会話しているスタッフにに目をやった。そんなに何分も経っていない。放送にすぐ気付いてすぐ連絡してきたのだろう。この素早さに、どれほど心配をしていたのかが想像できた。放送に耳をすましていないと出来ない素早さだ。
話を終えたスタッフが巧の元へやってきた。
「今ね、お父さんが大慌てで会場の方に来てたんだって。すぐこっちに来るみたいだから、もうちょっとだけ待っててね」
にこにこと話しかけるスタッフの言葉に、巧は無表情で肯いている。その様子ではまるで全く嬉しくも何ともないように見える。
沙羅は笑いながら頭を撫でた。
「良かったね。お父さん、たくみ君のこと探しまくってたんだよ。放送してすぐだもん。たくみ君もよく我慢したね。えらかったね、頑張ったね」
やはり無言のまま唇を引き締めて巧が肯いた。
その姿が、泣きそうなのをがまんして黙り込んでしまう弟の姿と重なった。
いろんな気持ちを我慢しているだろう巧を見つめながら、沙羅は、まもなくやってくるであろう父親のことを考えた。
これ以上は側にいない方がいい気がした。
沙羅は章に目配せした。そろそろ行こう、と。章は巧をちらりと見てから肯いた。
「じゃあ、そろそろ私達は行くね。たくみ君、バイバイ」
巧の頭を最後にもう一度撫でてから沙羅が立ち上がると、驚いたように巧が顔をあげる。
「もう大丈夫だよ。すぐお父さん来るんだから」
「じゃあな、タクミ」
隣の章も手を伸ばし、頭を撫でた。
「もう迷子にならないように気をつけろよ」
巧は不安そうに目を泳がせたが、けれどすぐに肯いた。黙ったままだったが、じっと二人を見て、ぎゅっと口を結んだまま手を振った。
沙羅はドアを出る前にもう一度手を振った。巧は無表情のまま、じっと出ていく二人を見つめていた。
ドアを閉める。
巧との繋がりが切れた。あっさりした物だ。迷子を送り届けただけなのだから当たり前なのだが、何となく寂しい、と、沙羅は思った。
けれど置いていくのは心配でも、父親が間もなく来るのだ。来るまで留まっていたら気を使わせるだろう。深く関わるのもそれほど得意でもない。そんな事よりも不安だった巧の方の相手をしてほしい。やるべき事をやったのだから、それで区切りを付けた方が良い。
それが沙羅が出した結論だった。章はどう思っていたのかはわからないが、沙羅と同じように、父親が来るまで側にいる必要を感じていないようだ。
会場へ出る通路を二人で並んで歩いていると、男性が一人走ってきている。
「あ、すみません、迷子が預けられている場所は……」
「あそこの扉ですよ」
沙羅が答えると、言葉少なに会釈をして、男性は焦った様子で扉へと駆け込んだ。
すぐに「巧!」と子供を呼ぶ声が聞こえてきた。
「よかったねぇ」
振り返って沙羅が笑った。
「うん」
章も同じように振り返って肯いた。
イベント会場へ戻る通路はもう目の前で終わる。後ろで巧の泣き声が聞こえた。
「やっぱり我慢してたんだね」
沙羅はクスクスと笑う。それから章を見上げた。
「今日は、ありがとう」
「いや、俺の方こそ……」
章が首の後ろを掻きながら少しだけ口ごもる。
少し長めの金色の髪が、手の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。この一時間、それがすぐ側で見えたことが未だに不思議な気がする。
手を伸ばしたらこの髪に触れられるな、なんて考えながら、それを見つめる。
夢のような偶然のひとときだった。そして出来ることなら、もう少し一緒にいられたらな、と漠然と感じていた。
見つめていると、章が少し改まって沙羅に目を向けてきた。少し泳いでいる視線に、なにか躊躇っているようにも見える。
「あのさ、これから……」
章が言いかけたところで、言葉を遮るように突然音楽が鳴りだした。
重なっていた視線がどちらからともなく離れ、その音の元を無意識に探す。章がポケットをまさぐった。聞き慣れないその音は章のスマホの呼び出し音だったようだ。章は名前を確認するなり舌打ちをして電話を取った。
「なに?」
低い声は機嫌悪そうに響いた。
「……はぁ? 何言ってんの、今更。おっせーよ! むしろくんな!」
章が怒鳴っているのに、どうやら彼が思ったように話は進まなかったらしい。
「ちょっ、勝手に決めん……切ってんじゃねーよ!」
電話が切れたのだろう。手の中のスマホを睨み付けている。もう一度小さく悪態をついた章は、目をしばたかせる沙羅に気付き、ばつが悪そうに項垂れた。
「あ、ごめん、今ツレから電話で、こっち来るって……」
「……彼女?」
「違うし! ツレって友達! 男友達な!!」
ひどく焦った様子で、章が強い口調で言った。
「そっか」
頷きながら、沙羅は目が醒めたような思いで章を見つめていた。
もう少し、一緒にいられたらと思っていた。でも彼は、やっぱり自分とは違うところで交友関係を築いている人なのだと、突きつけられたような気がしていた。
電話をしている章の様子は、沙羅の知らない章だった。
なぜだか、彼が別世界にいるようにすら感じた。海岸線で感じる、どうしようもない近づけない隔たりが、今ここに来て突然のし掛かってきたようにも感じる。
章の隣にいるのは沙羅だというのに、沙羅が感じるのはどうしようもない疎外感だった。章と、握られているスマホとを見る。その機械の先に繋がっている彼の交友関係が、沙羅は少しだけ怖いと思った。章は沙羅と別れた後、そのスマホの繋がりの向こうへ帰っていく。きっと彼らと話す章の方が、普段の自然な章の姿なのだ。おそらく今沙羅の隣にいる章は、沙羅に気を使って少しだけ沙羅の方に歩み寄ってくれている姿だろう。
そう考えると、普段の章の生活に沙羅が入り込むのは、とても難しいことに思えた。
これ以上を望んではいけない気がした。これ以上を望むのが、怖かった。
「……サラ?」
口をつぐんだ沙羅を、不思議そうに章が見つめてくる。
落ち込む気持ちを何とか押しとどめ、沙羅はなんでもないように笑みを作る。それから体を斜めにして章の手の中のスマホをのぞき込んだ。
「いま、何時?」
「もうすぐで三時」
それは、もともと沙羅が帰る予定にしていた時刻だった。五時に帰ってくる弟たちが家に入れなくなる。もっとも沙羅の帰りが遅ければ、その分外で遊べると喜ぶような子達だが。それに今日は帰りに寄る予定だった店がいくつかある。
買い物があって、早く帰らないといけなくて……先延ばしにしても大丈夫なことをいろいろと心の中で積み上げて帰る理由にしていく。
沙羅は時間を表示する章のスマホをのぞき込んだまま呟いた。
「じゃあ、ここでバイバイだね」
隠しきれない感情が、その呟きを寂しげに響かせた。
未練がましくする姿を見せたくなくて自分からさよならを切り出したのに、これでは失敗だ。
寂しさを振り切れない自分を自覚する。
ほんとはあと一時間ぐらいは何とでもなる現実も、もっと一緒にいたいと思う気持ちも、必死に見ないふりをしているのに、気持ちは正直だった。
もう少し一緒にいられる? なんて聞いたら、章はどう答えただろう。考えただけで期待と不安が渦巻いた。
でも、それはダメだ。
きっと、もっと一緒にいたら、もっと長く一緒にいたくなるだろう。
それでなくてもずっと憧れてた、バイクの後ろに乗っているキラキラの髪の男の人なのだ。
もし彼に鬱陶しいとか、一緒にいられないと答えられたりしたら、それは想像だけでも苦しくて、やっぱり、これで良かったのだと思い直す。
話せただけで、一緒に時間を過ごせただけで十分と思わなければいけない。
沙羅は気を取り直して顔を上げた。
名残惜しさを押し込めて笑って手を振れば、章が慌てたよう沙羅の手首を掴んだ。
「サラ!」
少しだけ熱い手の平の感触と、自分とは違う大きさに、沙羅の顔が熱くなる。
「俺の方こそ、ありがとう! サラのおかげで助かったし、楽しかった!」
「私も。たのしかった!」
笑顔で沙羅も返せば、ほっとしたように章が表情を和らげた。そして、強く握られていたと思った章の手が、ゆっくりと離れていった。
あたたかだった感触が離れた後は、空気がとてもひんやりと感じる。
それでおしまいだった。
最後に交わした言葉はそれだけで、名残惜しさとは裏腹に、あっけない物だった。
章が、引き留めてくれるはずもない。それが、沙羅が章を引き留めることが出来ないのと同じであればいいと、少しだけ願う。
それが、精一杯だ。
たった一時間前に会っただけの人だ。お互いのことをなんにも知らないし、それ以上言える別れの言葉なんて他にあるはずがない。出会ったばかりで、相手のことを計る術も持っていない。それ以上の行動が彼の目にどう映るのかを計れるほど、章のことを知らない。
でもきっと、もう少し一緒にいたいだなんて、ただの迷惑だ。それに二人きりでいる時間が増えたら、きっとさよならがもっと辛くなる。きっと欲張ってしまう。続きがなければ、それは辛いだけのように思えた。
未練がましくいつまでも側にいると本当に振り切れなくなりそうで、サラは自ら先に会場の人混みへと歩き出した。振り返りたいのを我慢して少しだけ歩いて、それからやっぱり諦めきれず振り返る。
章が沙羅を見ていた。
それが嬉しい。名残惜しいと思うのは自分だけではなかったのかもしれない。そう思えた。
「またね」
彼に向けてそう呟いて、笑顔で手を振った。
何を言ったのか章には聞こえなかっただろう。けれど、首をかしげながらそれでも手を振り返してくれた。
彼も笑顔だった。でも、沙羅をドキドキさせる全開の笑顔ではなかった。
あの笑顔が見えなかったことが寂しくて、でも嬉しかった。それが彼の名残惜しさを示しているように思えたからだ。沙羅が満面の笑顔を返せないのと同じ気持ちかもしれないと思えたからだ。
「またね」と言う沙羅の声は章に届かなかった。けれどそれで良いと思った。それは沙羅だけが出来る再会なのだから。「また」が訪れるのは、沙羅にだけ。章は通り過ぎていくだけの人なのだから。
でも、もし……と、沙羅は考える。
もし、章が沙羅を覚えていたら、もし、沙羅に気付いてくれたら、その時は……。
想像してから、気持ちを振り切るように小さく首を振る。
期待はしない。この日のことを大切に思う、それで十分だ。
再び彼に背を向ける。もう沙羅は振り返らなかった。
見えないところまで離れたころ、沙羅は去り際で彼が掴んだ手首にそっと触れる。確かに彼と繋がっていたのだと、確かめるように。
それから寂しさを紛らわすように、今度の水曜日が楽しみだと、心の中で呟いた。