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また突風が吹いた。
砂埃が舞って沙羅の目に痛みがはしる。おもわず立ち止まると、巧にばかり気を向けていたように見えた章がすぐさま引き返してきた。
「どうかした?」
「ごめん、ちょっと目が……」
言いながら、沙羅は目元を押さえつつも、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「目に入った? 見せてみ?」
章が沙羅の目元に手を伸ばしてきた。
う、わ……。
伸びてきた指先は見慣れた自分の指よりずっと大きく見えた。直後あたたかな感触が目元に触れ、少しだけこわばった沙羅の体がぴくりと震える。沙羅より一回り大きな手は思った以上に優しく動き、その事がどうしようもなく気恥ずかしさを誘った。
促されるままに開けられない目を何とか開けると、章の顔がぐっと近づいた。
ちかいっ
真剣な表情をした章の顔がそこにある。沙羅の心臓が跳ね上がった。
「あ、あきら、こんなところでさらにキスしちゃダメだ!」
足下で焦った声がした。
「するかボケ!」
のぞき込まれて緊張していた沙羅は章が巧に顔を向けた瞬間、耐えきれずふきだした。
「た、確かに、それはダメだわ……」
巧のボケがツボにはまり、沙羅は座り込むと、巧を撫でながらお腹を抱えて笑う。
「ほら、さらもダメっていった!」
「だからしねぇって……」
疲れたような呟きが頭の上で響いた。
心底困ったような様子が、派手な外見に何となくそぐわなくて、それがとてもかわいらしく見えて、沙羅はしばらくクスクスと笑い続けるのをやめられなかった。
「サラ、目ぇ、大丈夫?」
「うん、笑って涙出て流れたみたい」
「んじゃ、行くか。しっかし今日は風強いなぁ」
沙羅のただ流してあるだけの髪は、風になびいて顔に掛かったり、ばさばさと揺れたり大惨事だ。絡みにくい髪ではあるけれど、地味に痛い。
手首に付けていたシュシュでまとめる。
「あ、そういう髪型も似合う!」
ニカッと笑って、当たり前のように言われたが、沙羅はそんな言葉を言われ慣れていない。特に男子からとなると尚更だ。
「あ、りがとう」
思わず礼を言った物の照れてしまうので、何とか話を逸らそうと辺りを見渡した。顔に熱が上がる。隣で章がにこにこしているのがわかって、どうしようもなく居心地が悪かった。
「なんか、さっきから風の強さがひどくなったね」
「だよな。朝から風強かったけど、さっきから突風吹き出したし、外をまわるにはちょっとキツイよなー」
まるで台風でも来たかのような風が、さっきから続いている。辺りのテントも怖いぐらいにばさばさと音を立てていた。
「ちょっと怖いね……」
ふっと不安になって、そう言いかけたときだった。
一際強い風が吹いて周りのテントや展示物がガタガタとそれまで以上に不穏な音を立て始める。飛ばされてしまいそうなほどの風だ。
沙羅はとっさに巧の手をぎゅっと引いてその体をかばうように自分に押しつけると、身を固くした。
建物を吹き抜ける耳を割くような風の音と、ばさばさとなるテントの音、そしてガラガラという物が飛ばされる音が一気に耳に飛び込んでくる。それからすぐに遠くで大勢の叫び声が聞こえた。
「なに……?」
風が少し弱まったところで、沙羅は瞑っていた目を開ける。肩になれない温もりを感じ、それが沙羅を守るように伸ばされた章の手だとすぐに気付いた。
「ありが、とう……」
礼を言うが章の反応がない。顔を上げると、広場に目を向けている章が真剣な顔をしていた。同じように沙羅もその視線の先を追いかけて顔を動かす。
「え……?」
沙羅の視界に飛び込んできたのは、横倒しになったテントや飛ばされた机、ゴミ箱、その辺りに設置してあったあらゆる物が散乱した広場の惨状だった。
叫び声のあった方の騒ぎは建物に隠れてわからなかったが、あちらには設置してある展示物も多かった。おそらく突風で大変なことが起こったのではないか、という事が想像できた。
「向こうで何かあったな。とりあえず建物はいろう」
章に促されるまま、三人で早足に建物へ向かう。
突風で倒れたテントを見た人たちは一部片付けを手伝おうとする人がいる物の、外には子連れも多かったこともあり、同じように避難目的か建物へと向かう人が増えた。
詰めかける人混みの中、二人で巧を気遣いながらスタッフを探す。しかし突然のハプニングである。テントが飛んだり倒れたりしているのだ。被害も沙羅が目で見た分だけでもそれなりにある。下手するとけが人が出てもおかしくない。外での被害などへの対応にスタッフ自体も右往左往しており、更に殺到する客への対応も加わって、迷子がと声をかけようにも、声すらかけられないような状態だった。
うまくスタッフを捕まえられず溜息をついたところで章の視線に気付く。
「あのさ、サラは大丈夫なの?」
章は巧と繋いでいる沙羅の手を見つめながら遠慮がちに尋ねてきた。
「なにが?」
「何となくサラも巻き込んじゃっただろ? 俺は助かったけど、俺らと一緒にいていいの?」
なんのことを言われているのか分からず、沙羅は首をかしげた。章の言う「巻き込んだ」というのがなにを差しているかわからない。
巻き込まれたというとすぐ思い付いたのが突風の惨事だが、いくら何でも突風の被害のことではないだろう。それは章が起こした物ではない。では一緒にいることを気にかけているというのなら、巧のことだろうか。けれどそれもぴんと来ない。
なんにせよ、何を言っているかは分からなくても、章が気にするようなことではないと沙羅は思った。
突風は章には防ぎようのない物だし、とっさに安全なところに誘導してくれた事に感謝しているぐらいだ。
巧については、二人ともはっきり言って構ってやる必要などない。適当にスタッフを無理矢理捕まえて押しつけたらいいだけだ。でも心配だからこうしている。沙羅には章から巻き込まれたと言われる覚えがない。もしそれを言うなら、きっと章だって沙羅と同じ立場だ。
確信のないまま、沙羅はどうとでもとれるように言葉を返す。
「そんな事言ったら、アキラだって一緒だと思うけど」
この言い方なら、風のことだろうが、一緒に行動することになったことだろうが、巧のことだろうが、全部通じる。
沙羅の言葉に、章が少し考え込んだ。
「気になってたんだけど、もしかしてサラも一人で来てた?」
「友達の都合が付かなくてね」
苦笑いした沙羅に、章の方は表情が明るくなった。
「じゃあさ、タクミのオヤジさん見つかるまで一緒にいてもらえるかな?」
「最初っからそのつもりだよ」
首をかしげた沙羅に、章がうれしそうに笑った。
「そっか! ありがとな! 俺、今サラに見捨てられたらマジきついからさ!」
そういって章が浮かべたのは、沙羅の好きな満面の笑顔だ。
「ちょっと不安だった」と笑う章に、「実は私も」と沙羅が答え、二人で顔を見合わせて笑った。
楽しくて、嬉しい。章の笑顔を見ながら沙羅は思う。
章のこの笑顔が好きだ。見る度に心の中にあの海岸線の風景が広がる。何度見ても自分に向けられている事が嘘のようで沙羅の胸は弾むのだ。
「お互い様だよ。私もたくみ君を助けてあげたくても、アキラがいなかったら動けなかったかもしれないし。こっちこそ、ありが……」
「さらー、たいくつー」
章と沙羅が二人だけで話しているのがつまらなくなったのだろう、巧が沙羅を遮るように自己主張し始めた。
「あ、ごめんね」
頭を撫でるが、巧は落ち着かない様子だ。やたらと高くなった人口密度と熱気、大人でも落ち着けない状況に、子供が静かに耐えられるはずもない。なにか気を逸らしてやらないと、巧も辛いだろう。
「この状況だと、たくみ君のお父さんも相当心配してるだろうし、早く見つけないとね」
「頑張ってスタッフ捕まえようぜ」
「うん」
サラは人混みで潰れそうになりながら落ち着かない様子の巧を抱き上げる。
手を伸ばすと当然のように抱きついてくる。抱っこされて当たり前と思うぐらいの年なのだ。沙羅の兄弟は小学生でさすがにもう抱き上げることはないが、一年生の始め頃まではこうして沙羅が抱いてまわることがあった。
「早くお父さん見つけようね」
「うん」
巧が沙羅の肩口に顔を埋めた。
「タクミ、こっち来い」
眉間に皺を寄せた章が両手を差し伸べていた。沙羅と目が合うと、表情をゆるめて、少し心配そうな目配せをされる。
見るからに重そうなのだろう。沙羅は小柄というわけではないが、細身の体で六才の子供を抱いていると体の半分以上が隠れて見える。
「……さらがいい」
そう言って巧はぎゅっと沙羅にしがみつく。それを見てむっとした様子の章に、沙羅は笑いながら言った。
「大丈夫だよ、辛くなったらお願いするから」
「サラがそれでいいのならいいけど……」
「心配してくれてありがと」
章がうつむいた。
「……うん」
彼の耳や首が赤い気がするのは、人混みの熱気にやられているせいだろうか。それとも……。
沙羅は微笑んだ。
章の優しさが嬉しい。
「やっぱり、アキラに声かけて良かったよ」
こんな状況なのに、嬉しくて、楽しい。巧はかわいいし、章は見た目よりずっと優しくて楽しい。何より頼りになる。彼がそこにいるだけで安心できた。