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「サンキュ」
彼が小さく呟いて、沙羅に向けて笑みを向ける。
彼女が誤解をしてないという事が意外だったのか、嬉しかったのか。
沙羅がその視線に躊躇っていると、ヒーックという、大きなしゃくりが二人の間であがった。子供はまだまだ泣き止みそうにない。
二人は辺りを見渡してから、やはり保護者が近くにいないことを確認すると、改めて子供に声をかけた。
「誰と来たの? お母さん? お父さん?」
尋ねると、ようやく言葉が届いたようで、少年は沙羅の顔を見て「おとうさぁぁぁん!!」と泣きながら叫んだ。
けれどその泣き声に反応する男性はこの辺りにいなかった。
「……お父さんって、あてにならないよね」
沙羅は子供に聞こえないように、ぼそっと呟く。
特にこういう、下手したら成人男性の方が興味を持ちやすいイベントだと、子供のことを忘れていることすらある。本人は気をつけているつもりで、ちょっと目をはなした隙に、子どもも興味の引かれる方へふらふら行って離ればなれ……、という良くあるパターンだ。
「なんで?」
沙羅の言葉を聞きつけて、彼がこっそり尋ねてきた。
「うち、年の離れた兄弟いるんだけど、お父さんと出かけると、結局子守私になるのよね。ほんっと、あてにならない!」
「なるほど」
彼の楽しげな声に、眉間に皺を寄せて愚痴を言った沙羅ははっと我に返る。これは初対面の人に言う言葉ではない。
「や、あの……」
恥ずかしくなってうろたえながら言葉を探しはじめた沙羅の耳に、ククッと潜められた笑い声が届く。
耐えきれなくなって沙羅は立ち上がった。
「じゃあ、お父さん、探しに行こうか」
ごまかせたのか、ごまかされてくれたのか、彼も肯いて立ち上がる。
気持ちを払拭するようにもう一度父親はいないかとざっと見渡したが、やはり辺りにそれらしき人はない。
「迷子センターとか、きっとあるよね」
「待って、見てみる」
彼がパンフレットを開いた。
「この、インフォメーションとか、それっぽくね?」
「うん、そうだね、他になさそうだもんね」
少年と手を繋いでから、彼の広げているパンフレットをのぞき込んだ。
「じゃあ、ここいこうか」
決まって顔を上げたところで、思った以上に近かった彼の顔に気付く。
うわ、顔近い!
体が反射的にびくっと震えた。
「ご、ごめん!」
のぞき込む体勢から慌てて体を引いた。
沙羅の顔が熱くなる。けれど、彼の方は全く気にした様子もなく、「いや」と、返事とも言えないような声を出して、沙羅の方は見ずに歩き出した。
自分ばかりが気にしているようで、それもまた恥ずかしく思いながら、沙羅は彼のとなりへと並んだ。
無言になってしまったのは、沙羅が緊張しすぎたせいなのか、それとも彼もまた何か思うところがあったからなのか、それはわからなかった。
続く沈黙の合間に子供の泣き声は大分おさまってきている。
「ねぇねぇ、僕、お名前は? 私は沙羅っていうんだ」
戸惑いを隠すように沙羅は問いかけた。こういう時、子供がいると間が持つなぁ、なんて、少し子供に感謝をしながら。
子供はちらっと沙羅を見た。
「……たくみ……」
「へぇ、たくみ君か。小学生かな?」
少年は首を横に振った。
「じゃあ、年長さんぐらいかな?」
様子を見ながら、答えられそうな範囲を探る。沙羅は小さい子の扱いには少しばかり自信があった。伊達に弟の面倒は見ていない。もちろん弟の友達込みでだ。
「じゃあ、お名前、全部言える? 私は原西沙羅。たくみ君は?」
「まえだたくみ」
「お! ちゃんと言えるんだねぇ、えらいねぇ」
「そんなの、あたりまえだもん」
沙羅を馬鹿にするかのように巧が胸を張る。こういう子供の虚勢の張り方はキライじゃない。こんな時なら尚更だ。いつまでも泣かれていては話しにならないのだ。
「うんうん。当たり前のを、当たり前に出来るのがすごいんだよー」
褒められて悪い気はしないらしく、少しずつ落ち着いてくる巧が、やっと笑顔を見せた。
「俺は章。よろしくな」
沙羅と巧のやりとりをじっと見ていた彼が、ニッと笑いながら口を挟んできた。
アキラっていうんだ。
沙羅はようやく知った彼の名前を心の中で呟きながら嬉しくなる。二年目にしてようやく彼の名前を知ったのだ。
紹介して巧の頭にぽふっと手を乗せた章を、小さな目が見上げている。
「おにいちゃん、かみきいろい」
不思議そうに見上げる様子からすると、周りにこんな髪の色の人は珍しいのだろう。沙羅の周りでも、ここまで派手に脱色している人はいない。いるのはせいぜい明るい茶色だ。
「おう。すげーだろ」
ニカッと笑った章に、巧が顔を輝かせながら何度も肯く。
「綺麗だよね」
沙羅も笑って肯いた。
けれど、沙羅の言葉は意外だったようで、章がとたんに挙動不審になってしまった。
「そうか? サラみたいなタイプの子は、こういうのキライかと思った」
それは言いがかりだ! 彼の目にはどんな風に自分は見えているのだろう。
沙羅は慌ててぶんぶんと首を横に振る。
「綺麗だよ! 私は好き! そこまで色抜く勇気でないけど、憧れるし!」
叫ぶように強く言った沙羅に一瞬章がぽかんとする。そして、ぎこちない動きで髪に手をつっこんで、ワシャワシャと動かし始めた。
「そ、そうかな? でも、ちょっと時間経ってるから中のほうちょっと黒くなってるんだよな」
「大丈夫、全然わかんないし」
力を入れて言う沙羅の言葉に、アキラは再び動きを止めたが、すぐにははっと声を上げた。
「俺は、サラの髪の方が綺麗だと思う」
そこにあるのは満面の笑顔だ。
「あ、ありがとうっ」
心臓が止まるかと思った。
海岸線の、青空と、太陽の光を受けて笑いながら駆け抜ける彼のイメージそのものの笑顔だった。まぶしく見つめていただけの彼がすぐそこにいるのだと、改めて実感する。
沙羅はどう答えていいかわからず、礼を言っただけで目を背けてしまった。
知り合ったばかりだと、こういった褒め合い合戦みたいなことは良くあることだ。けれどまさか章のようなタイプの男子とこんな会話をすることになるとは思いもよらず、章の言葉がハンパなく沙羅を動揺させていた。
「ぼくもおねえちゃんのかみ、きれいだとおもう! おにんぎょうさんみたい!」
沙羅はその言葉を聞いてにこっと笑った。
沙羅の髪はくせのない真っ直ぐな黒髪だ。コシが強く、はっきり言って、アレンジは不可能に近いぐらいの勢いだ。しかも背中の中頃までと長い。沙羅は笑顔を貼り付けて、なんの人形なのかはひとまず聞かないことにした。
とりあえず、子供の場の空気の読まなさと、話の転換能力は天才的だと思う沙羅だった。
三人で目的地に向かって歩き始めて、だいぶ二人に慣れてきた巧だが、その間にと沙羅が迷子になった時の様子を聞こうとした。
「えっとね、おとうさんがここいくっていって、くるまにのってからどうしておかあさんいないのってきいたら、きょうはおかあさんはようじがあるからこないっていって、おとうさんがくるまうんてんしながらおしえてくれて……」
全く要領を得なかった。
どこで迷子になったのかを聞いたのに、巧がした説明のスタートは父親と車に乗ったところからの話しだった。おそらく、それは巧にとって説明するために重要なところなのだろう。繰り返しその話しをしている。けれど実際の所沙羅達が聞きたいことには全く関係がない。聞かれたことよりしゃべりたいこと、印象的なことが優先されて口に出る。幼児に良くありがちなことだ。
更に主語と目的語と修飾語が抜けたり変なところに掛かったり順番がおかしかったりと、日本語をしゃべっているのに日本人の理解の限度を超えている。
しかもそれに章が時折ツッコミを入れて話しを混ぜ返すのだ。そしてまた巧の話しがスタートに戻る。
からかう章とそれに気付かず必死に答えようとする巧を見ながら、ついに沙羅は巧の言葉から迷子になったときの様子を聞くのは諦めた。
沙羅は苦笑しながら息をつくと、巧で楽しそうに遊ぶ章に目を向ける。
「アキラ君は、一人で来たの?」
「ああ、うん。一応今は……ってか、クンつけるのやめて。なんか親戚のおばちゃんに呼ばれてるのを思い出す!」
章が笑いながらも嫌そうな素振りで肩を潜めた。
「じゃあ、アキラって呼んで良い?」
「俺も勝手にサラって呼んでるし!」
「そうだね」
あの彼と名前を呼び合っている。そう思うと、なんだか胸がくすぐったいような気持ちになる。
「ぼくもたくみでいいよ、さら!」
間で一生懸命話を合わせてこようとする巧に、二人は顔を合わせて笑った。
「お前、こんな年上の姉ちゃんに生意気だな!」
章が笑いながら巧の頭を撫でると、「あきらいたい!」と、口をとがらせた。
「俺も呼び捨てかよ!」
言い争っている二人の姿は、全く似てないけど兄弟のようにも見える。こんなに派手な姿の彼が、普通に幼児と遊んでいる姿はなんだかとても可愛い。
章のおかげか巧の涙は完全におさまっている様子だ。
一生懸命言い募っている巧を、章がからかいながら笑ってつついている。楽しそうで、沙羅の顔に自然と笑みが浮かぶ。
章は、沙羅の苦手なタイプだ。
憧れる云々以前の問題で、何となく敬遠してしまいがちで、何を話したらいいのかわからないのだ。彼のようなタイプは、友達とはギャーギャー話していても、沙羅のようなタイプが話しかけると、遠慮がちに言葉を濁される、そんなイメージがある。きっとそれは、お互い様、という事なのだろうが。
けれど章はずっと人なつっこいようだ。沙羅とも普通に話してくれる。沙羅はそれが嬉しくてたまらない。
巧の様子を見る限り、子供受けも悪くない。下手したらあのキラキラの髪と、いかにも面倒ごとはかったるいとか言いそうな雰囲気に、子供が怖がるかと思ったのだが、子供相手に笑っている姿だと印象は逆転した。