トランポリンかな人生は
人生はトランポリンのようなものだ。
高く飛ぼうと欲するならば、その分深く踏み込まねばならない。
深く沈めば沈むほど、高く飛躍することができるのだから。
がらんとしたホールに人の気配はなく、
それまで溜め込まれていた熱気は、パンクしたタイヤのようにすーっと空気の中に吸い込まれていった。
恭介が率いる4人組のバンドは今日も大喝采を浴びてライブを終えた。
小さなライブスタジオだが、熱心なファンがリピーターとなって駆けつけ、初めて彼らのライブを聞く客も、この若い4人組の才能に一気に魅了された。
恭介はライブが好きだった。
その瞬間だけは、頭の中が空っぽになり、全身が痙攣するほどの興奮を感じることができた。
スポットライトを一身に浴びる自分。
自分以外の何もかもがちっぽけで哀れでかわいそうな奴だと思えるその瞬間に
心底、酔いしれていた。
東北にある小さな田舎町で育った。
仲睦まじい両親の長男として、姉と共に愛情を目いっぱい受けながら育ってきた。
地元の公立中学を卒業した後には、県下一の進学校に合格して両親を大喜びさせた。
素直で勉強のできる優等生。
恭介は、正に両親にとっての誇りだったのだ。
大学は第一志望の国立大学には受からなかったものの、
それでも東京にある有名私立大学への合格を勝ち取った。
4年後には、教員免許を取得し、地元に帰ってきて学校の先生になると
両親と約束した。4年間だけ遊んでいいと。
音楽への出会いは何気ない気持ちから始まった。
語学のクラスでたまたま隣になった同級生にライブチケットを渡され、興味本位で見に行ったのだ。音楽なんかは、中学校の時にちょっとかじったギターくらいしか知らなかったから。
すぐに虜にされてしまった。縄で全身をきつく縛られたようにそこから一歩も動くことができなくなった。あの舞台に立ちたい。あそこで歌を歌いたい。衝動が胸を突いた。
それは、小さな女の子がアイドル歌手に憧れるのと同じ程度の思い付きに過ぎなかったが、
一度胸にこびりついた欲望は、容易に消え去りはしなかった。
足のつま先から頭の先端まで一瞬にして電流が流れた。
音楽をやる。
そう決めた。
ライブを重ねながら、思いつきは願望になり、いつしかそれは脅迫に近い欲望へと変わっていった。
音楽で華を咲かせる。
そのために精一杯努力しよう。
辛さや苦しさを進んで受け入れながら自分を成長させよう。
そして、いつか人の心に響く最高の音楽を創る。
そう願ったとき、夢は現実の物として恭介の前にそびえ立つ事になった。
あらゆることを犠牲にする覚悟があった。
授業を捨て、贅沢を止め、友達と街に遊びに出かけることを止め、恋人を捨てた。
きれいな人だった。
恭介にとって初めての女性だった。
別れ話を持ち出した時、彼女は目に涙を溜め、憐れむような表情で恭介に言った。
「音楽なんて遊びでやるものよ。本気でやったりしたら人生台無しにするよ。」
それは、一度でも心を許した人への愛有る忠告だったのか、
振られた腹いせだったのかはわからない。
「本気でやれば何でもできそうな気がするんだ。」
恭介は鼻の頭に皺を寄せ、ためらうことなく言い放った。
その視線の先には、もう彼女の姿は写っていなかった。
バンドに魅了されるのはファンであり、そして心底バンドに酔いしれているファンは
その才能を誰かに言わずにはいられない。ファンがバンドを育て、人気を作る。
自然と恭介のバンドの実力は、音楽プロデューサーの目に留まることになる。
大学を中退してから、2年目の春。
バンドの人間達の間に少しずつ目に見えない焦燥が見え始めた時期。
桜の花は新しい季節の到来に身をゆだねている。
その日、いつも通りの演奏を終えた後
大手事務所のプロデューサーが恭介の楽屋に訪れた。
「君に話しがある。」
男は、挨拶もなく言った。楽屋には、恭介以外に誰もいない。
「何ですか?」
それはいけない予感だった。こめかみがうずく。訊いてはいけないとせかす。しかし、一度動いた振り子は簡単には止まらない。
「デビューしないか?」
冷たく平たい声だった。幾多の修羅場を乗り越えたはずの人間だけが獲得できる仮面だ。
「僕達のバンドが?」
楽屋の隅に目を見やる。足音は聞こえない。
「いや。君一人だ。」
胸の鼓動が高まる。幼い頃、開けてはいけないと言われていた母親のクローゼットにこっそり忍び込んだ時のような、好奇心、期待、そして同時にやってくる胸の疼き。
パンドラの箱だ。例え、その蓋を開けることがなくても、その存在を知った時点で
心は既に支配されてしまう。
「僕一人?」
気づいていた。自分ひとりでも十分にやっていく自信があるということは。
ただ、惰性で回る車輪のように気づかぬフリをしていただけだ。
左手の指先を見る。ささくれ立った指先が、わなわなと震えている。
気持ちは既に決まっている。ただ、それを言葉にすることに怯えている。
言葉として放たれた思いは、決して心を軽くしてくれたりはしない。
いつの間にか、心の中に巣をつくり、じわじわと痛めつけてくる。
心臓の位置を確かめる。
俯いていた視線を上げ、プロデューサーの顔をキッと睨んだ。
「やらせて下さい。僕一人で。」
空中に放たれた言葉は跡形もなく消えてしまうけれど、
その言葉を発した身体と心はその形を忘れはしない。
恭介は仲間に別れを告げた。
恋人にそうした時分と同じように、感情を込めず淡々と。
仲間は何も責めることを言わなかった。
憐れむでもなく、諭すでもなく、ただ事務的に清算される過去に従っていた。
波にさらわれる小さな貝殻のように。
デビューの日が決まった。
プロダクションが開催するスペシャルライブにゲストとして1曲歌わせてもらうことになった。小さい頃から憧れていた歌手も参加する豪華な舞台だ。
日にちが決定して以来、恭介はそのライブのことだけしか考えられなくなった。緊張と興奮で夜寝つきが浅くなる日が続いた。
多くの歌手がそうであるように、恭介もまた歓声と狂喜の渦の中にいる自分を空想していた。かつて、遥か彼方に思い描いていた夢が現実になろうとする時、そこにあるのは喜びだけでは無い。一種の凶器というべき恐怖が人の心を支配する。それに打ち勝てた人間だけが栄光のスポットライトを浴びる権利がある。
何気なく過ぎる日常とおさらばしたい。
恭介の心は既に舞台の上にあった。
デビューを前日に控えた黄昏時、恭介は一人きりになり
自分の部屋のベッドに腰掛けていた。
これまで歩いてきた道のりに思い巡らしながら。
ふいに携帯電話が鳴った。
上の空の気持ちで通話ボタンを押す。
姉からの電話だった。
「母が倒れた。」
懐かしい姉の独特の低音は、ずっじりと恭介の心に重い影を残す。
目をつぶり、受話器をがっしりと握り締めた。
唾を飲み込む音が聞こえ、電話の向こうからは姉の鼻息だけが聞こえてくる。
「わかった。」一言だけ返し、電話を切った。
翌日の舞台に恭介は現れなかった。
プロデューサーには何の連絡も無かった。
代わりに、翌月予定だった新人のデビューが繰り上がった。
茫洋たる田園と、真っ直ぐ整えられた畦道が延々と続く風景を
両側に抱えながら、恭介を乗せた電車は走り続けた。
「これで、デビューの夢は消えてしまうだろう。」
競争の激しいこの業界で、わずかなチャンスをつかみ損ねた人間は簡単に消えていってしまう。また、それ以上にもうあの恐怖を二度と体験したくは無いと恭介は思った。
恭介を載せた電車は、定刻どおりに進み。恭介はそれが夢から覚醒するために供与された時間だと感じていた。つかの間、脳裏に彼女の顔が浮かんだが、はっきりする手前でさっと消え、再びは現れなかった。
高く飛ぶためには、深く踏み込まねばならない。
深く深く沈み、それが多くの不安や恐怖を伴うものであっても、それに耐えることができた人間だけが空高く舞うことができる。
しかし、そのトランポリンを踏み外した、あるいは、途中でバランスを崩した人間は、トランポリンを使わなかった人間よりも深く沈み込むことになる。
一度舞台から外れた人間は再びは立ち上がれない。
人生はトランポリンのようなものだ。
トランポリンを使うかどうかそれはあなたの自由だけれど。
読んでくださりありがとうございます。感想をいただけると幸いです。