第十五話
「うふふふ、おとなしくしたほうがいいわよ、ぼうや。そこの子猫ちゃんが痛い痛いって泣き叫ぶのを聞きたいなら別だけど」
そんなことを言いながら、巨大女がだるんだるんと近づいてくる。けれど僕にはその言葉も聞こえていなければ、その醜怪な姿も見えていなかった。そのとき僕の心のすべてを占めていたのは、女の後ろで白いお仕着せの男に捕まっている少女のことだった。
綾香。
僕のせいだ、と思った。僕とかかわらなければ、綾香はこんな目に遭わずにすんだのだ。
「ふふふふふ……あーっはっはっは!」
すぐ前にせまった巨大女が、高笑いとともに右腕を薙いだ。まるで敷きぶとんを束ねたかのようなその質量に直撃されて、僕の体は地面の上を飛ぶようにころがり、僕の意識もいっしょに飛び散った。
「いい子ね、ぼうや。あなたのお行儀の良さに免じて、すぐに終わらせてあ・げ・る」
巨大女は背中に手をやって、そこに吊ってあったふた振りの得物を右手と左手に構えた。それは、身の丈ほどもある長大なナイフとフォーク。その恐ろしげなしろものをかちんかちんと打ち合わせ、舌なめずりをしながら、女はゆっくりとした足取りで僕のところにやってくる。僕はそのありさまを朦朧とした目で見やった。
もうだめだ、と“わたし”は思った。せめておとなしくこの女にされるがままになろう。“僕”がなるようになってしまえば、用が済んだ綾香は解放されるだろう。
あきらめるな、と“俺”は思った。そんなことになったら、あの娘がどれだけ悲しむと思う。あの娘を悲しませたいのか。
悲しませたいはずがあるか、と“わたし”は返した。悲しませたくなんかないけれども、もうどうしようもないのだ。綾香を人質にとられたこの状況で、いや、たとえ人質がいなかったとしても、この巨大女の魔の手から逃れるすべがあるものか。
ある、と“俺”は強く思った。“わたし”には力があるはずだ。この絶望的な状況を引っくりかえすだけの力が。思い出せ、“わたし”のあの誇り高き姿を。
鼓舞され、力づけられて、“わたし”はついに思い出した。そうだ、“わたし”はかつてどのような危機にもひるんだことがなかった。自分の中にある大きな力をふるって、あらゆる危機を切り抜けてきたのだ! こんどもきっとなんとかなる! なんとかしてみせる!
“わたし”はぱっちりと目をあけると、せまりくる巨大女を見据えつつ一心不乱に念じた。“わたし”の真の力を呼び覚まそうと思いのたけを振りしぼった。だが何も起こらない。心のどこかで“俺”が(もっとだ! もっと強く思え!)と叫んでいるのを感じ、ますますはげしく思いを凝らす。力を用いるにはそうすればよいということを、“わたし”の魂は知っていた。
だが、やはり何も起きなかった。
なぜだ、と“わたし”は心のなかで絶叫する。思いの強さは十分だ。それでも何も起きないとしたら、ほかの何かが足りないとしか考えられない。だがそれはいったい何なのだ。
ズシンという重い震動とともに、僕の目のまえの地面に象のそれとも見まがう太い脚が下ろされた。見上げれば、巨大女が右手のナイフを大きく振りかぶるところだ。ぬらぬらした赤いくちびるがニタアとわらった。万事休す。僕はナイフが振り下ろされるのをなすすべもなく待ち受ける。
そのとき、横合いから何かがすばらしい勢いで飛び出して、女の顔にぶつかった。のみならずそれは爪を立てて、女の顔をバリバリとかきむしった。
「ギャー!」
思わぬ攻撃に女は悲鳴をあげてよろめき、ナイフをめちゃくちゃに振り回して払い落とそうとする。闖入者はひらりと身をかわすと、四本の足で僕のそばに降り立った。それは、一匹の大きな猫だった。見おぼえのある猫だった。いつぞや“わたし”の体を僕と分け合って食べた、あの猫だった。
猫は僕と顔を見合わせると、迷わず僕の胸に飛び込んできた。その瞬間、足りなかったものがそろった。そう、足りなかったのは猫に食べられた“わたし”の足だった。僕と猫が一緒になったことで、かつて“わたし”を構成していた部分がふたたびそろったのだ。僕と猫ははげしい光につつまれ、気がついたときには八本の足で地面を踏まえて立っていた。僕の深紅のボディに陽射しがさんさんときらめいた。巨大女と白服と綾香は呆然として僕を見上げていた。
そうだ、この姿だ、と“わたし”が言い、
驚いたな、こんなに大きくなるとは、と“俺”が言い、
ニャーオ、と猫が言い、
みんな、綾香を助けるから力を貸してくれ、と僕が言い、
全員が僕の心のなかで、オー!と気勢を上げた。
そして、身長十メートルの巨大タコと化した僕は、恐怖に目を見ひらくちっぽけな巨大女にむかって最初の一歩を踏み出した。
巨大女、何をさせてもインパクト十分のとても良いキャラクターです。このキャラを作ってくれた方に敬服しております。