第十四話
――大丈夫?
鈴を転がすかのような心配の声を背に、わたしは夕焼けに染まる街へと出た。綾香は心配そうな表情を浮かべ、ついてこようとしたが、一人になりたかったわたしはそれを拒み、半ば逃げるように門を跨いだ。
まだ全身に、鈍い痛みは残っている。が、動けないというほどでもない。どうやら、早くもわたしはこの身体に慣れようとしているのかもしれない。
順応するのは早い方だと思う。それは、器から器へ、憑依を続けてきた存在だからこそだろう。
自分の右手に目を落とし、ややぎこちなく開いたり閉じたりする様子を眺めながら、わたしは考える。とりあえず一度、現状を整理する必要がある。特に、今は人間という身なのだから。
まずは“わたし”という存在について考える。いや、この身体は少年なのだから、“僕”とすべきだろうか。
“わたし”とは“僕”であり、“僕”とは、すなわち“井沼尚志”である。
「わたしは僕、僕は井沼尚志。わたしは僕、僕は井沼尚志……」
ぶつぶつと呟きながら歩いたためか、通りを行く大人達が奇異の目を向けてくる。だが、今はあまり気にならなかった。
かつての“わたし”を忘れ、新たに“井沼尚志”という少年を入力する。記憶喪失というのは、今から思えば都合が良い。これから新たな一歩を踏み出すには丁度いいし、不都合があれば“俺”に相談するのも良いだろう。他ならぬ“俺”からのアドバイスだ、文句も無いはずだ。
こうしてわたし、もとい僕は、自分というものについての再インストールを終える。
そして、ふと視線を上げ――、
「……マズイ、迷った」
周囲を見回しながら、呻くように声を漏らした。
慣れない土地ではむやみに出歩かない。まずは一つ学習、などと落ち着いている場合でもないかもしれない。水島親子に心配をかけるわけにもいかないだろう。
だけど背後を振り返っても、思索に没頭していたせいか、どこをどう来たのかすら分からなかった。
さてどうしようかと思った瞬間、ゾクリと得体の知れない感覚が背筋を走った。
――これは、“俺”の感覚。
悪意でも、害意でもないそれは、だけど標的として狙われた時のもの。
逃げなきゃという思考とは裏腹に、上手く動かせない足に焦りを感じていた僕の背へと、その声はかけられた。
「ンフフ、みーつけた」
それは、低くハスキーな声。その声に、聞き覚えがあった。
ゆっくりと、こわばる首を回転させる。
僕の背後に立っていたのは、顎下だるだる、身体もだるだるの脂肪の塊。あの砂浜で、かつての“わたし”を食べようとした、巨大女だった。
「――あ、な……?」
喉が塞がった。まともに呼吸もできない。ここは水中でもないというのに。
戸惑う僕をよそに、巨大女はしゃべり続ける。
「ダメねえ、勝手に逃げ出しちゃ」
全身を舐めるかのような視線と口調。あまりの嫌悪感に、僕は一歩後ずさる。
「……どう……して、ここに?」
かろうじて絞り出した声は震える。当然よ、と巨大女は言った。
「あなたは、私のものだから。ううん、こう言うのが正しいわね。――あなた達は、私達のものだから、かしら」
瞬間、嫌な汗が額から吹き出した。
この女は僕の中にある“俺”の存在を知っている。それはつまり、“俺”の言っていた僕を狙う者達――。
まだ、この身体を使いこなせるかは分からない。それでも自然と、僕の身体は逃避体勢に入っていた。
「無駄なことはやめなさい」
巨大女はそう言って指を鳴らす。周囲に響いたのは乾いた音ではなく、バチンという重い音。
すると、彼女の背後から誰かが姿を現す。それは白い服装の男で――、僕の父親、で良いのだろうか。
だけど今は、そんなこともあまり気にならない。彼が脇に抱えるそれを見て、僕の四肢は完全に麻痺した。
ストロベリーブロンドの髪を振り乱し、大きな瞳には涙を浮かべ、だけどその口元は塞がれて――。
「……あ、綾香?」
それは、確かに水島綾香だった。
伏線を回収しようとしたら、火にガソリンをぶちまける結果に……。
放火犯は私じゃありませ~ん(逃)