第十八話
遠岸楽が消えた翌日、私は一人で病院へ行くことにした。あれだけついて来ようとする縁川天晴は、ついてこなかった。
普段平日に来れない患者さんだけを診ているらしい休日の病院の受付は静かで、それとは比例して入院病棟は相変わらずの喧騒を見せている。
ぱたぱたと忙しなく、生かすために看護師さんもお医者さんも足を速め、人を生かす器具を運んでいた。
さくらちゃんに、遠岸楽のことをどう説明していいか分からない。彼は遠くへ行ってしまったと言って、果たして納得するだろうか。
私が両親を亡くしたとき、大人たちは両親について、遠くへ行ったと説明していた。でも幼心にもう会えないのだと悟った。
みんな大人たちは私が幼いから、人の死を理解できないと思っていた。でも、理解していた。
理解したうえで、反応が出来なかった。
どうしていいか分からなくて、普通に、玄関とか、どこかへ行った先で顔を出すように思っていた。
だって今まで、それまでずっと一緒にいたから。朝に一緒に朝食を食べたし、いってきますもいってらっしゃいも言った。その日のドラマの話もした。お母さんもお父さんも、今日死ぬなんて言ってくれなかった。
遠岸楽も、今日消えるなんて言わなかった。私も、自分の手首を切るとき、何も言わなかった。
じっと病床に横たわる自分を見つめる。この身体が、私のものであるという感覚すら最近は薄い。
隣にある装置が私を生きているのだと周りに知らせている。この機械さえなければ、生きているか死んでいるかも分からない。
踵を返して、硝子天井から光の降り注ぐ廊下を歩く。
私は遠岸楽のように、心残りがあるから死ねないのだろうか。こんな風に幽体離脱をしているのは、心残りがあるから?
思い当たる節が多すぎて、分からない。ただ今私が消えたとして、最も心残りなのは、
縁川天晴の存在だ。後を追うと繰り返している。私のせいで、彼を殺すことになる。
でも、最近はそれだけが理由じゃない。
「君は──」
振り返ると、さくらちゃんの主治医である噺田先生が目を見開いて立っていた。
誰か私の前にいるのか、そういえば一番最初も私はこの人にぶつかりそうになっていた。
「果崎、あかりさん」
視線を戻そうとして、足を止めた。
私の身体は病室にある。この場で名前を呼ぶ必要はない。そもそも私の目の前にはただ長い廊下が伸びるばかりで、誰も存在していない。
もう一度振り返る。
先生は、まぎれもなく私を認識し、見ていた。
◯◯◯
「えっと、つまり君は、幽体離脱の状態と……?」
あれから、私と先生はベンチに移動した。事情を説明すると、先生は比較的すんなりと事実を受け止めたらしく、疑うことなくこちらに問いかけてくる。
「まぁ、そうなると……思います」
「さくらちゃんが、やけに君の話をするから、もしかして病室に入り込んだのかと思っていたんだが……」
やはり、さくらちゃんはかなり私について話をしていたらしい。ここが病院で、学校や幼稚園じゃないことが救いだ。幼くたっていじめはある。何があるかわからない。
「はい。彼女は私の姿が、はっきり見えているみたいで……その、この間までは、既に亡くなっている人も、一緒にいて、彼のことも見えていて」
「もしかして、きんきらのお兄ちゃん?」
「はい。彼と話をするのが好きだったみたいで……」
それ以上、言葉が紡げなかった。
一瞬であったけれど、遠岸楽と確かに友情に近しいものを感じていたんだと思う。そして今、彼が消えたことをいまいち受け止め切れていない。
「すみません」
「いいんだ。それで、君はどんな風に過ごして……?」
「えっと、縁川さんのところで、居候というか……」
「なるほど。縁川君の家か」
先生は遠い目を夕日に向けた。彼の兄は、この病院に入院しているらしい。先生の態度からも、重い病気なのだろう。
退院したという話も聞かなければ、症状についても聞かない。あれだけぺらぺら喋る縁川が、何一つ言わないのだ。
「君は、自分の容態についてどれくらい知っている?」
ふいに、噺田先生が訊ねてきた。
「えっと、昏睡が続いていると……」
「その通りだ。このまま目を覚ます確率は、正直低いと言わざるをえない。でも、目を覚ましてもおかしくないくらい、君の今の状態は不鮮明で……だからこそ、今君がここにいることに納得するような……難しいが……」
驚くことはなかったし、先生の気持ちもわかる。
遠岸楽を見た以上、このままゆっくり死に向かって消えていく気がする。
いつ目を覚ますかというのは、それこそ幻のような希望だろう。
「非科学的だが、戻れたりはしないのかい。こう、身体に入り込む形で」
「いえ、まったく、わからず……」
物理的に、問題があるのか、それとも戻りたくないという気持ちの問題なのか。わからない。しばらくの間沈黙を感じていると、先生は「なぜ」と、重い声音で口を開いた。
「死んで、しまったんだ。まだ、若いのに」
まだ若い。
その次に言いたいのは、生きたくても生きられない人がいる、だろうか。
先生は人を生かす仕事をしている。寿命以外で死を迎える人だって、前にする機会は多いだろう。
「死にたかったからです」
私は答えた。
生きたくても生きられない。それは痛いほど分かっている。分かっていてもなお、死にたかった。
だから、手首を切った。
「そこまで死にたいと思うほど、君の仕事は責められるものなのか。さくらちゃんだって、君の話をするたび、ずっと笑顔だったのに」
「人の前に立つ仕事ですから、色んな声があって当たり前です。私は向いてなかった」
いろんな声がある。そう思って頑張ってきた。私のことを好きな人がいれば嫌いな人もいる。
でも、すべてが駄目になった。今まで気にならなかったすべてが、気になるようになった。
結局のところ、私は向いてなかったのかもしれない。SNSだけじゃなく、この仕事にも。
アイドルとしてみんなを笑顔にしたいけど、叩かれたくない、嫌われたくないと思うことは、私の勝手な我儘でしかない。
「本当に、そうなのか。違うんじゃないか」
先生のまっすぐな疑問に、私は形容しがたい感覚に襲われた。
常識を砕かれるようで、返事すら選べない。先生は矢継ぎ早に、言葉を投げかけてくる。
「だって、人の目に触れてるからって、酷いことを言っていい理由にはならないだろう。君たちと同じように、僕らも社会に属している。子供は学校に通う。仕事をしていても、仕事をしてなかったとしても、必ず誰かと関わらなきゃいけない。でも、誰かと関わる以上、酷いことを言われる覚悟を玄関先で問われるなんてことはないはずだ。外で酷いことを言われて傷つく人は、外出に向いてないなんてことはないだろう」
「でも」
「君に、知っておいてほしいことがある。目が覚めた時のために」
大人に、仕事以外でこんなにも真剣に話をされるのは、何年ぶりだろう。反射的に喉が詰まって、肩に力がこもった。
「悪意のほうが、届くのがずっと速い。気を使う必要がないから。好きだと思って、相手を励ましたいと思って、そのまま最高速の好意を送る人は稀だ。スキルになりつつある。そういう人たちは、誇っていいくらい、本当に貴重だと思う」
そして先生は、何かを覚悟した瞳で前を見据えた。
「僕は大学生のころ、手紙をもらったことがある」
「え……」
「人の好意が綴られていく過程を、見たことがあった。すごく時間をかけていた。考えながら、消しゴムで消したりして、何度も何度も試行錯誤していた様子だった。立場上受け取ることは出来なかったが、確かにうれしかった」
手紙。
長文のメッセージをもらうことが、あった。読むたび嬉しくて、何度も力をもらっていた。
「相手のことが好きで、好きで、でも迷惑をかけたくないと、相手に悪く思われたくはないから言葉を選ぶ。でも、すぐ好意を伝えられる人もいるように、考えて、どうやって相手が苦しむか言葉をじっくりと選んで攻撃する人もいたかもしれない。騒ぎに便乗して、お祭りのようにゲーム感覚で何かをいう人間もいたかもしれない。そして言葉は攻撃的であれど、きちんと君を想って厳しい言葉を投げかけている人もいただろう。すべて、僕の想像でしかない。でも、確実に言えることは」
先生はそう言って私をまっすぐに見た。
「きっと君に、もっと励ましの言葉をかけたら良かった、考えていないで、ただ好きだと言えば良かったと思って後悔している人間が、必ずいる。不格好でも、泥臭くても、好きだとぶつけてしまえれば良かったと、思っているはずだ」
後悔をしている人。
思い浮かぶのは縁川天晴の笑顔だ。信号機が明滅するみたいに、こちらを呪う瞳も浮かぶ。
「死を選ぶほど苦しみぬいた君にこんなことを言うのは、不適切かもしれないけれど……」
「いえ……」
先生はまた腕時計に視線を落とした。ベルトを付け替えたデザインに見える時計は、女性もののデザインだった。
「ああ、さくらちゃんに会っていくかい?」
「あ、はい」
突然の提案に、反射で乗ってしまった。
まだ、さくらちゃんに遠岸楽についてどうやって説明するかも決めてない。遠くへ行ったと言うべきか。手術前のさくらちゃんに、死を伴う言葉は使いたくない。悩んでいると、ちょうど彼女が駆けてきた。
「あーせんせー! 」
さくらちゃんはぶんぶんとこちらに手を振っている。スケッチブックを小脇に抱え、点滴も腕についているから転ばないかひやひやする。
先生はすぐ立ち上がり、さくらちゃんを受け止めた。
「走ったら駄目だと言っただろう」
「でも、あかりちゃんに絵! 描いたから! ほら見て!」
さくらちゃんはスケッチブックを開いてこちらに見せる。そこには、さくらちゃんと、私、縁川天晴に、遠岸楽が描かれていた。
試していないけど、写真に私と遠岸楽は映れなかったと思う。けれどこうしてさくらちゃんと一緒にいたことが形として残ったことが、嬉しい。
消えていく私は、さくらちゃんや縁川天晴に、痛みを与えてしまうのに。
遠岸楽は喪失の瞬間を悟っていた。私に今その感覚はない。いずれ分かったとき、縁川天晴になんて言えばいいだろう。
後は決して追わないでほしい。
黙って消えても、身体が死ねば報道される。
「絵、描いてくれてありがとう」
「うん! あ、先生も描いたよ!」
さくらちゃんは、ページをめくって先生に絵を見せた。何かの紙を持った先生が、佇む姿が描かれている。
答案用紙、かもしれない。
四角ばった花丸を注視していると、さくらちゃんが口元を抑え、笑い交じりに私に耳打ちしてくる。
「先生ねぇ、花丸かくの下手なの。かくかくしてるんだよ!」
「さくらちゃん、聞こえてるよ? それに先生は花丸描くの下手じゃないの。かくかくさせて、世界で一つだけの花丸にしてるの」
先生とさくらちゃんのやり取りを横目に、私はそのしかくばった花丸に目を向ける。外側のぐるぐるが三角形になっている特徴的な花丸。
この花丸。私は見たことが、ある。
私を助けてくれて──恋心について語っていた、あの女性。
たしか彼女は、恋文についても話をしていた。
私に、懐かしい匂いがすると言っていた。
そんな彼女が肌身離さず持っていた、あの栞。
ここに描かれている花丸と、同じものだった。




