気持ち浮き立つ、金曜のバケット
金曜の夜は、街の空気が少しだけ浮き立っている。
仕事帰りの人たちの足取りが、どこか軽い。
私もそのひとりで、
「明日は休みだ」と思うだけで、胸の奥がふわっと緩む。
家に帰る前に、
どうしても寄りたい場所があった。
いつものパン屋だ。
夜のパン屋は、昼とは違う顔をしている。
照明が少し落ち着いていて、
店内に残る焼きたての香りが、
一日の終わりを優しく包んでくれる。
ショーケースの端に、
バゲットが数本だけ残っていた。
細長い影が、どこか誇らしげに立っている。
「これください」
店員さんが手渡してくれた瞬間、
紙袋越しに伝わる“まだ少し温かい”感触に、
思わず胸が高鳴った。
家に持ち帰るまでの数分、
バゲットの香ばしい匂いが
紙袋の隙間からふわっと漏れてくる。
焼けた小麦の香り。
ほんのり焦げた皮の香り。
その奥に、バターとは違う、
素朴でまっすぐな香りがある。
家に着いて袋を開けると、
表面の皮がパリッと張っていて、
指で軽く押すと、
「パリッ……」と小さく返事をする。
この音が好きだ。
夜だから食べるのは我慢して、
明日の昼に一番おいしい状態で食べるために、
そっとキッチンの端に置く。
でも、
そのまま寝るのはもったいなくて、
ついもう一度だけ触れてしまう。
固いはずなのに、
どこかしっとりした重みがあって、
“明日のおいしさ”を静かに約束してくれているみたいだ。
「明日、絶対おいしく食べるからね」
そうつぶやいて、
私はバゲットをそっと布巾で包んだ。
金曜の夜に買ったバゲットは、
明日の昼を少し特別にしてくれる。
そんな予感がして、
私はいつもより少しだけ幸せな気持ちで眠りについた。




