選ばれし後悔
選ばれし後悔
導入:後悔に囚われた現在
雨が静かに降り続く夜、40代の悠真はリビングでグラスを傾けていた。数年前に父の健三を病で亡くして以来、彼は深い後悔と自責の念に囚われ続けている。仕事は失敗し多額の借金を抱え、私生活も独身で孤独な日々。書斎に残された、健三が最後に座っていた椅子を見るたび、胸の奥が締め付けられる。悠真は自身を不細工で根暗、友達も少ないと認識しており、この劣等感が彼の人生観に暗い影を落としていた。脳裏には、健三との最後の口論、そして和解の機会を自ら手放したあの瞬間の記憶が鮮明に蘇り、悠真を苦しみに沈ませる。時には夢に父が出てきて、良い思い出も、そして父の厳しい言葉も、悠真を苛むように繰り返された。
過去の確執と、病床での決定的な喪失
健三は昔気質で不器用な性格だった。同時に、周囲や親戚からの目を非常に気にする人物でもあった。特に長男の悠真には厳しく、悠真は幼い頃から自分だけが愛されていないという疎外感を抱いていた。健三からの具体的な愛情表現の欠如が、悠真の「愛されていない」という思い込みを強固にしていたのだ。
健三は学生時代に陸上部で実績を残せなかった過去があり、その叶えられなかった夢を長男である悠真に託そうと、中学入学時に陸上部への入部を強く勧めた。しかし、悠真は父の期待を「押し付け」だと感じ、反発して帰宅部を選択した。長男が家を継ぎ、親の期待に応えるのが当然という日本の伝統的な価値観の中で、悠真は長男としての役割を果たせていないという自己否定感を深める。親戚の集まりでは、悠真が「まだ結婚しないのか」「仕事はどうしているのか」と問われるたびに、家族は曖昧な笑みを浮かべ、悠真をかばうように振る舞ったが、それがかえって彼に「自分は家族の恥だ」と感じさせた。
その一方で、弟は健三の勧め通り陸上部に入部し、健三から熱心な指導を受ける。弟は普通以上に容姿も良く、明るく活発で、部活にも友達が多く、健三は弟の試合に足繁く通い、誇らしげに応援していた。悠真はそんな父と弟の姿を見るたび、自分だけが「父の期待に応えられなかった失敗作」という劣等感と、居場所のない孤独感を深めていく。悠真は、弟が父から可愛がられ、自分を出し抜いていると勝手に思い込み、弟とも積極的に交流せず、不仲な感情を抱え、未だにぎこちない関係を続けている。
悠真が独身で仕事も成功していない中、弟は会社員として安定した生活を送り、悠真より先に結婚する。結婚も兄弟順番にしていくのが暗黙のルールとしてある中、悠真は弟の結婚もまた、「父を喜ばせるため」であり、**自分の「失敗」のせいで弟がその役割を「代わってくれた」**と想像し、自身の劣等感と罪悪感をさらに深めた。健三が弟の結婚をどう思っていたか、そして弟がなぜ兄より先に結婚したのか、その真意も悠真には分からなかった。
母、弟、妹も、健三と悠真の関係がうまくいっていないこと、そして弟が父のために行動しているかもしれないことを察してはいたが、周囲や親戚からの詮索を恐れ、誰もそのことを口にしなかった。母は諦めや無力感を抱え、弟妹も口を挟むことの難しさを感じていたのだ。この家族の沈黙が、悠真の孤独感を一層深めていく。
健三が病に倒れて以降、自身に残された時間が長くないことを悟っていた健三は、悠真との関係を修復しようと、自ら話しかける機会を増やし、和解のチャンスを作ろうとしていた。たわいない世間話、昔の思い出話、あるいは悠真の仕事の様子をそれとなく尋ねるなど、健三なりに歩み寄ろうと試みていたのだ。しかし、悠真は仕事の失敗を父に知られたくない意地と長年の確執から、依然として冷たい対応を続けた。健三の容態が思わしくないと聞き、ようやく見舞いに行った悠真は、病室での会話が再び感情的な口論に発展してしまう。健三は弱々しい声で何かを言いかけるように口を開き、わずかに呼吸を荒げた。しかし、悠真は健三が言葉を紡ぎ出すよりも早く、まるで長年の確執を全て拒絶するかのように、「父さんには俺の気持ちなんて分からない!」と言い放ち、病室を飛び出した。健三は、悠真を呼び止めるようにか細い手を伸ばそうとしたが、その手は空を切り、力なく落ちた。健三の目に、一瞬、諦めとも悲しみともつかない光が宿った。数日後、健三はそのまま息を引き取った。
深まる後悔と、永遠に聞けない真実
健三の死後、悠真は強烈な後悔の念に襲われる。病室で父が何かを伝えようとしていたのに、彼自身の頑なな態度によってその言葉を完全に遮断してしまったこと、そして父が自ら作った和解の機会を全て拒絶し続けたことが彼を深く苦しめる。生前は疎ましくさえ感じていた健三の存在が、亡くなったことで、いかに自分の中で大きかったかを痛感し、父の不在が悠真の孤独感を深めた。
健三の一周忌を前に、悠真は健三の書斎を整理することを決意する。書斎に入ると、健三が愛用していた煙草の匂いや、彼の使っていた万年筆が目に入り、心が締め付けられる。悠真は健三の遺品を丁寧に整理するが、父の真意を明らかにするような手紙やメモは一切見つからない。陸上部のユニフォームは見つかるものの、それに関する父の心境を示すものは何もなく、悠真は漠然と父の叶わぬ夢を感じるだけだ。
悠真は、母や弟たちが父の真意や、弟の行動の裏側を知っていたかもしれないと漠然と感じてはいるが、その真実を直接聞くことを怖れてしまう。聞くことで、自分の想像が壊れること、あるいはより残酷な真実を知ってしまうことへの恐れがあるからだ。悠真には、真実を問いかける衝動すら湧かない。
そのため、悠真は遺品から得られた情報がないまま、そして家族からの説明もないまま、これまでの自分の経験と都合の良い(あるいは都合の悪い)想像を巡らせ続ける。弟の行動はやはり「父のため」だったのだろう、母も父との関係で苦しんでいたに違いない、それでも自分は誰にも歩み寄ろうとしなかった、と。そして、もし自分が父の願い(陸上部入部や20代での結婚)を叶えていれば、弟は父の期待を背負うことなく、もっと自由に自分の好きなことを選べたのではないかと、自己嫌悪と罪悪感を募らせる。
この聞けない真実と、際限なく膨らむ想像が、彼の後悔をさらに深く、出口のないものにする。彼の後悔は、父との直接的な関係に留まらず、弟との不仲が自身の誤解に基づいていた可能性、家族の沈黙がもたらした「解決されないまま残された感情の塊」として、彼の心を締めつけ続ける。
結末:永遠に届かぬ仲直りと、うやむやな真実
悠真は健三の遺品を整理し終え、嗚咽する。それは、父の愛情を知ったからではなく、真実を知る機会を永遠に失ったこと、そして**「死んでしまったら仲直りできない」という残酷な現実**を突きつけられ、取り返しのつかない後悔を抱えて生きていかねばならないという絶望にも似た涙だ。
健三の遺影に語りかける言葉は、悔恨の表情とともに「お父さん…」と途切れるだけ。彼の顔に安堵の色は浮かばない。健三の書斎は片付けられ、窓から陽光が差し込むが、その光は悠真の心の内には全く届かない。
悠真は、父の陸上への情熱が込められたユニフォームを大切にたたむものの、それを自身が何か新しいことを始めるきっかけにするわけではない。弟とのぎこちない関係は、父の死後も変わらないままだ。父が本当に弟や妹を溺愛していたのか、それともその愛情もまた不器用さや複雑な期待の裏返しだったのか、悠真には永遠に分からない。その真実もまた、うやむやなまま、悠真の心に重くのしかかる。
彼は、父を失った悲しみと、誰にも打ち明けられない後悔と孤独を抱えたまま、これからも生きていくことを暗示して物語は終わる。彼の人生に明確な希望の光は差し込まず、過去の影が彼を永遠に追い続ける。彼の後悔は、彼自身の内面の問題だけでなく、家族間の「言えない」空気と、永遠に明かされない真実によってもたらされたものであり、それは彼一人の力では決して解決できない、重い十字架として悠真の人生に残り続けるのだ。そして、悠真は永遠にうやむやなままを、どこかで望んでいるのかもしれない。なぜなら、真実を知ることは、彼にとってあまりにも重い責任と向き合うことになるからだ。