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三十七、ライラとラダ?

「ライラ、大丈夫か?」

「はい……ラダくんこそ、大丈夫ですか?」


 幸いにも、ハルト皇子は命に別条はなく、ライラはほっと胸を撫で下ろした。


「ライラ。感謝する」

「や。たまたまわかっただけです」

「すずらんも、墨汁も?」

「はい。料理に関することでしたので、たまたま知っていただけです」


 それでも、とラダはライラに感謝の意を表すように跪いて、その手の甲に口付けた。


「長年のつかえがとれた。ありがとう」


 しかし、マリ王女の恨みは買うことになるだろう。しばらくは、マリ王女はこの国に滞在すると聞いているし、今後は顔を合わせないように極力部屋で過ごさねば。ライラはふうと息を吐き出す。

 ラダの母の無念は晴らせたが、きっとマリ王女からは一生恨まれるだろう。ライラはそれが、なによりも悲しくて、苦しかった。


 だから、これは因果応報なのでは、とライラは思った。

 朝起きたら、ライラの姿が豚になっていた。比喩ではなく、豚のように醜く。いや、豚に失礼かもしれないと思うほどに、肌がただれて背中は曲がり、声はしわがれて脂肪が体中を包んでいた。なにが起こったのかわからなかった。ライラはなにか、悪いものでも食べたのだろうか。


「なん」


 声を出しても、鏡を見ても自分が自分ではない気がして、ライラは自分の置かれた状況を整理することにした。ライラの声がしわがれライラのものではなくなっている。ライラがライラたるゆえんが揺らいだ。

 ライラには、敵が多い。これは魔法というよりは呪いに近い。ラダの肌に触れたからわかる。この感覚は、呪いだ。今一度自分の体を見渡してみる。腐臭のようなにおいが、部屋に充満している。イルとの修行で、魔法の感覚は掴んだつもりだ。魔法で姿を変えられたのなら、こんな風に体を蝕む感覚はないだろう。変えられた、つまり一時的にこの姿になったのなら、ライラの体に魔法の力がまとわりついているはずだ。だとしたら、やっぱりこれは、呪いだ。

 ライラは鏡を見る。心まで白豚に戻ってしまって、こんな姿じゃラダに申し訳が立たない。それに、呪いだとしたらこれを解く方法は、呪いをかけた本人にしかわからない。


 血迷ったと言われたらそうなのかもしれない。けれどライラは、こんな姿をラダに見られるくらいなら、死んだほうがましだと思った。そもそも、こんな背格好、声で自分がライラだと主張したところで、誰が信じるだろうか。ラダを失望させたくない。それよりももっと、自分がライラだと、ラダが気づいてくれなかったらと思うと怖かった。


 城を出て、人通りの少ない道を歩く。森を抜ける際、魔物たちに出くわしたが、魔物たちはライラを襲うことはなかった。ライラは呪われている、つまり邪悪なものなのだ。だから魔物は、ライラを仲間と思い攻撃しない。

 魔物にも、仲間意識というものはあるらしかった。ならば、人間とも協定を結んで、不可侵条約を結びなおせれば、ふたつの種族はともに生きられるのではないだろうか。先日の戦争は、ライラに傷跡を残した。人間を助けるためには魔物を殺さねばならず、魔物を救うには人間が死ななければならない。ふたつが助かる道があるというのに、ライラには、魔物を説得する力がない。単なる人間の小娘の言葉に、誰が耳を傾けるだろう。

 くう、とお腹が鳴いた。今朝はまだ、ご飯も飲み物さえ飲んでいなかった。持ち金は多少ある。このまま、旅に出るのも悪くない。最後に、父と母を遠くから見ようと思った。

 市場にくりだし、ライラはマントを頭から被って、お金を差し出し食べ物をこうた。なのに、マントを被っていてもライラの醜さは隠しきれず、匂いはもっと、誤魔化せなかった。


「きったないばあさんだな。うちの店からはなにも売れないよ!」

「お、お金はあります」

「しっし、アンタみたいのが店に来たってなったら、店の名に傷がつく」


 道中、食料をと思ったのだが、どの店も門前払いで話すら聞いてもらえなかった。ひとは見た目でその人を判断する。醜くなったライラになんて、誰も興味がなくて当たり前だ。臭く、汚物のようなライラになんて。ライラは昔を思い出す。やっぱり、いつだってライラは醜いままだ。

 ライラは川でのどを潤し、故郷の街まで歩く。体が重く、汗だくだった。ずるりと足を引きずりながら、ライラは故郷をさまよった。体が重いせいで、半日経ってもあまり進まず、ライラは亀の歩みで街を歩いた。


「あはは、本当に呪われてる」


 聞き覚えのある声に、顔を上げた。キリ王妃だった。キリ王妃はハンカチで鼻を押さえながら、悪意を含んだ笑みをこちらに向けている。言動からするに、ライラがライラであることがわかるらしい。となれば、これは呪いで、この呪いをかけたのは、キリ王妃で間違いないだろう。


「キリ王妃さま。呪いに手を出したのですか」


 しわがれた声を、また笑われた。白豚、醜い女。ライラはいつだって自分に自信がない。


「そうよ。私は廃妃、娘も平民に落ちる。他ならぬアナタのせいで。ですが、この呪いは、掛けられた人間が最も恐れるものを具現化するだけの、お遊びみたいなものですわ」


 しかし、恐れが深く、根深いほどに強く作用する。キリ王妃がライラのマントを取り払って、醜いライラの姿を見て笑った。


「裏の方との取引だったから、心配しましたけれど」

――上手くいってよかったわ。


 キリ王妃はなんて残酷なことができるのだろう。人間の最も恐れるものを、具現化する呪い。だけど、呪いには必ず、代価が必要となる。ノフの文献を思い出す。


「それで、キリ王妃さまはなにを差し出したのです?」

「はは、知識だけはあるのね。そうね、万が一解呪されたら、その呪いは私に跳ね返る。でももう、どうでもいいわ。私が私たる所以はもうなくなったのだから」


 そうまでしてライラを陥れたかったのだと思うと、ライラは自分の存在意義がわからなくなった。少なくとも、キリ王妃にとってライラは悪で、だからこそ排除しようとしている。相容れない人間同士を無理やり和解させることは、困難を極める。例えば、人間と魔物のように。

 キリ王妃の気持ちは理解できる。ライラのせいで投獄されたのだから。だが、だからといって、やっていいことと悪いことがある。マリのためにも、罪を償うべきだ。

 向こうから、兵士たちがキリ王妃を探して走ってきた。キリ王妃は、言葉巧みに脱獄したのだろう。人当たりのいい人柄にも関わらず、人を殺す残忍さも持ち合わせた隣国の王妃。娘というものは、自分の人生を捨ててでも、幸せにしたい存在なのだろう。


「せいぜい、あがきなさい。苦しんで苦しんで、絶望して死ぬがいいわ」


 ライラが憎いのはわかる。けれどそれは、害していいという理由にはならない。ライラはキリ王妃にかける言葉すらなかった。なにを言っても無駄だろう。

 キリ王妃が兵士たちに捕らえられ、街中に消えていくのを横目で見ながら、ライラはまた、重い足取りで実家を目指した。体が重くて上手く歩けない。キリ王妃は、死刑こそ免れたが、国に帰っても居場所などないだろう。


「ライラ!」


 後ろから聞こえたのは、まぎれもなくラダの声だった。ライラを探し、走っている。焦りの滲んだ声、心底ライラを求める声。ライラはラダを振り返らなかった。どうせラダは、ライラになんて気づかない。ラダより先に、ルイスがライラのわきを素通りした。ほらね。やっぱり。


「ライラさま! いたら返事を!」


 ルイスはライラに気づいていないようだった。それでいいと思う。ライラは死んだ。そういうことにすれば、ラダだってきっと、純潔の乙女を探しに出るだろう。ライラはラダの声に気付かぬふりをして、マントを被り直して真っ直ぐに歩く。

 ライラのわきを、ラダが通り過ぎる――


「ライラ?」

「……!?」


 ラダは、ライラの隣を通り過ぎずに、ライラの真ん前で足を止めた。ライラ、ライラ、と何度もライラの名前を呼んでいる。マントの下のライラの顔を、見せる気にはなれなかった。ラダが、マントの上からライラの肩をつかんだ。


「人違いです」


 やっぱり自分の声じゃないみたいだった。ガラガラで、かすれている。ラダがライラのマントを取り去った。醜い姿が、ラダの瞳に映し出される。ライラは思わずマントを被り直す。ラダにだけは、見られたくなかった。


「いいや、わかる。オマエはライラだ。なにがあった?」


 ラダは、醜くただれたライラの頬に手を当てて、ライラを心配そうにのぞき込んでいる。そんなこと、あるはずないと思っていた。姿が変わったライラを、ラダだけが見つけ出してくれた。誰もがライラを邪険に扱うのに、ラダだけが、ライラをいつも、まっすぐに見つめてくれる。マントを今一度脱ぎとって、ラダがライラに柔らかな笑みを向けた。安堵ともとれる表情に、ライラは自分が醜くなったことを一瞬だけ忘れた。

 涙がこぼれる。ラダは、その涙をそっとぬぐってくれた。汚いから、触らないで。そう思うのに、ライラはラダの手に頬を寄せて、ふと息を吐いた。


「わた、起きたら、こんなに、なってて」

「ああ」

「多分、呪い、で」

「問題ない」

「問題ない?」


 ラダがライラの背中に手を回して、におうこともいとわずにライラを抱きしめた。ライラは生ごみのような、どぶのようなにおいを発しているのに、ラダはなんらいつもと変わりない。眉ひとつ動かさなかった。

 ライラはラダを見上げる。青い瞳はサファイヤのように美しい。そしてきっと、心もまた、誰よりも美しいのだと、今、知った。


「ライラがもし、その姿のままでも、俺の妻でいてほしい」

「ラダくん……でも、私にはもう、一時的な解呪すらできない」

「いい、それで。俺はあきらめが悪いんだ。もっと別の、なにか呪いを解く方法を、一生かけて探すさ」

「でも、でも」

「少しは黙れ」


 瞬間、ラダの唇がライラの唇と重なった。いつもとは逆だ、いつもはライラが硬い皮膚に口づけるのに、今日はラダがライラの硬い皮膚に唇を寄せた。ラダのあたたかな心がライラに流れ込む。ライラはきっと、ずっとラダと一緒にいたい。そしてラダもまた、いつもライラが解呪する時、同じ気持ちだったのだと知る。

 どんな姿でも、アナタが好き。ラダはライラを、ライラはラダを。ライラは初めて、自分が自分であることの意味を知った。ライラがドラゴンのラダを変わりなく愛するように、ラダはどんなライラも愛してくれる。だったらライラは、もう、過去の自分を受け入れて、先に進む、それだけだ。


「ライラ……」

「え……?」


 しわがれた声に張りが戻る。ライラの体が元の姿に戻っていく。ラダを見上げて、ライラは一筋の涙を流した。人魚姫の呪いを解くには、王子の真実の愛が必要だった。ライラの呪いもまた。


「ラダくん」

「なんだ」

「ひとつ、試したいことが、あります」


 きっとそう、ライラの心さえ揺るがなければ。ライラの心さえ決まれば。

 ライラは背伸びをする。ラダの唇は薄くて柔らかくて、温かかった。

 唇が離れた瞬間、ぱあっと国中が白い光に包まれた。ラダの体から、ドラゴンが透けて出ていくのが見える。


『呪いは解かれた』


 ドラゴンの低い咆哮が、国に響き渡るのだった。

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