三十一、世界はこんなにも
「食べ物は、炭水化物、タンパク質、脂質から成り立っています」
「あ、血や肉になるもの、体の調子を整えるもの、体の熱を作るもの、ですか?」
「うん、よくわかってますね」
ライラはまず、サリーにライラの持てるすべての知識を伝えることにした。サリーは元来頭のいい人間だったから、すぐに飲み込んで自分の知識に変えていく。まずは三大栄養素の基本だ。
「炭水化物とタンパク質が、一グラムあたり四キロカロリー。脂質が九キロカロリーです。それを、一日当たりの総カロリーの内、炭水化物が五十パーセント、たんぱく質が三十パーセント、脂質がニ十パーセントになるように割り振ります」
「なるほど。一キログラムを落とすのに必要なのが七千キロカロリーなので、一日の総摂取量から、減量したいカロリーを減らせばいいのですね」
「やっぱり、サリーさんは覚えがよくて楽しいです」
一ヶ月に落としていいのは、体重の五パーセントまで。だとしたら、大体三キログラム。三キログラムを減らすには、二万千カロリーを消費すればいい。サリーはまだ成長期だから、一日の必要カロリーは二千ほど。一ヶ月に二万千キロカロリーを消費するには、一日あたり七百キロカロリー消費する必要がある。運動で二百キロカロリーを消費するとして、食事は五百キロカロリーを減らせばいい。サリーの一日のカロリーは、千六百となる計算だ。
最近は、ラダ抜きで、女子ふたりでの勉強会が主だった。その方がサリーもやりやすいだろうし、ライラもなんだかんだ妹ができたようでうれしかった。サリーがライラに懐いて、どこまでもついてくる。まるで子鹿のようで可愛らしい。
サリーは三回に一回は食事を吐いてしまうが、焦らず、じっくりとライラは向き合った。できなかったことを責めるのではなく、できたことを褒めるほうにライラは注力している。例えば、ちゃんと食べられて、吐かずに我慢できた時は、ライラはサリーをぎゅっと抱きしめるようにしていた。
「なんだか、お母さんみたいです」
「ええ、私が?」
「め、迷惑ですよね。私、お母さんは幼いころに死んでいて。どんなものか、知らないんですけれど」
そんな事情があったとは知らず、ライラは、サリーを抱きしめ直した。やっぱり子鹿みたいに震えていて、可愛くて仕方がなかった。自分にも、姉妹がいたらこんな感じかな、なんてことを考えることもあった。
「じゃあ、ここにいる間は、私がお母さんですね」
サリーが嬉しそうに笑っている。こういった、食事がとれない病の場合、母親が回復の手助けになることが多い。食べ物を吐き出すことは、生きることを拒否することでもあるが、母親の愛情を欲して、こういった行動に出る子供も多いと聞く。母親の愛情不足が、食行動に影響を与える、というのは、ノフの書物にも書いてあった。見るまで信じられなかったが、サリーに今必要なのは、紛れもなく愛情だった。
「お父さまには、こういう悩み、言えないので」
「そうですね。でも、いつも愛していたんだと思います。だから、サリーさんが痩せて、心配していました」
「お父さまが?」
サリーが、意外そうに顔をあげた。ライラの腕の中で安心しきったひな鳥のように、無防備なその姿は、きっと誰よりも生きたくてもがき苦しんでいたに違いない。
「ネル国王さま。今回の外交だけでなく、折に触れて、様々な国との外交の席で、食べているのに体重が減る病について、聞いて回っていたと。ラダくんから聞いています」
「そう、なんだあ。お父さま、私が痩せてもなにも言わないから、私は見捨てられたのだと思っていました」
だいぶすれ違っていたようだ。ライラは、サリーの頭を優しくなでる。サリーが目を細めて笑っている。猫のようにかわいらしい、大きな瞳。小麦色の肌もきれいだ。最近は、食べられる回数が増えてきたからか、肌の艶も戻ってきた。
「私、吐いていたころは、お風呂で髪の毛がすごく抜けるのが悩みだったんですけれど、もしかして、食べないと髪の毛って抜けるんですか?」
「そうですね。よく気づきましたね。食べないと、人間は生命を維持するために、生命活動に関係のないものから生成をやめていきます。肌が荒れたり、髪の毛が抜けるのもそうです。それらを切り捨てて、血や肉を維持する方を優先するんです」
「じゃあ、食べるようになったから、髪の毛も戻るでしょうか」
「大丈夫。よくなりますよ、サリーさんは」
ぱっと顔を明るくして、サリーがライラから離れてステップを踏んだ。そのステップは、リノアのワルツなどとは違って、ライラの知らない美しい旋律を奏でている。たたん、たん。サリーの美しい足取りに見とれる。
「サリーさん、上手です」
「そうでしょう? お母さまも、踊りが上手な方だったのだそうです」
それに、とサリーが続ける。
「私、お母さんにそっくりなんですって」
「じゃあ、さぞ美しい方だったのでしょう」
「私って、美しいですか?」
サリーの足が止まった。まるで、信じられないと言いたげな、疑いの目をライラに向けている。客観的に見ても、サリーは美しい。が、そういった美醜の話は、極力避けるべきだったのにと、ライラは言葉に詰まってしまった。
「ごめんなさい、ライラさま。困らせました」
「私、は」
ライラは自分の容姿が嫌いだ。太っていたころはもっと。だけど、いつまで自分たちは昔の自分に縛られなければならないのだろうか。自分なんてと卑下する人生よりも、どんな自分だって自信をもって進める人生の方が、どんなに尊く、そして、楽だろうか。
「わ、私、自分なんてって……痩せた今でも、心は白豚のままなんです」
「白豚なんてっ! ライラさまは、美しい方です。心も!」
サリーさんがライラに歩み寄って、ライラの胸を軽くたたいた。それこそがライラたちの答えで、きっとこのことを、ラダもずっと、ずっとライラに知ってほしかったのだろうと思った。涙がこぼれた。ライラは他者の傷跡を見て、自分の中にあったわだかまりを自覚した。ライラたちはこんなにも自由だ。
「え、ライラさま?」
「ご、ごめんなさい。私、そうですね。美しさというのは、きっと見た目ではなく心、自分は自分であるのだから、ほかには惑わされないその強さ、それこそが美しさだと、今気づきました」
サリーが首をかしげる。十五歳のサリーには少し難しかったかもしれない。この先、国王の娘として、サリーにはもっともっとつらいことが待っているに違いない。それでも、
「サリーさん。サリーさんは、強くまっすぐで、美しいです。きっと、この世界に醜いものなんて、存在しないように」
「じゃあ、ライラさまも、美しいですね。私、ライラさまがお姉ちゃんだったらって、何度も思いました」
ライラたちは、たった一か月の関係だ。今後も外交で会うことはあるだろうが、ライラたちは別々の道を歩む。ライラがそうであったように、サリーもまた、この世界の美しさに、気づく日が来るのだろうか。
「サリーさんのおかげで、私はひとつ、学べました」
「ええ、なんですかそれ。私の方こそ、今すぐにはいかないかもしれませんけれど、いつか病を治そうって、ライラさまのおかげで、思えました」
料理も楽しいし、とサリーが続けた。
ライラはその夜、サリーが寝るのを見届けてから、ラダの寝室へと向かった。最近はサリーにつきっきりで、ライラの方から訪ねるのは久しぶりだった。




