月が咲く
満月の深夜。
煌々と夜空を照らす月に誘われて、闇を孕んで黒々とした水を湛える湖の中に歩を進める。
冬の水の恐ろしいほどの冷たさに全身がガタガタと震えるが、気にせずに歩き続ける。
ちゃぷちゃぷと自らの立てる音以外には何も聞こえない。
綺麗な夜だった。
絡みつく服がずっしりと重く、まるで水の中ではなく、もっとドロドロとした液体に浸っている錯覚に陥る。
月から目を離し、水面を見る。
歩みがもたらしたさざ波で、せっかくの月が揺らいでしまっている。
勿体なく思い、歩みを止める。
だというのに、月は笑ってくれない。
それが震える身体のせいだと気づく。
深く息を吸う。身の震えが止まるように祈りながら。
目を瞑り、緊張の糸をほぐす。
そうだ。何も怖がることはない。
全ての感覚が消えてしまえばいい。
細く長い息を吐いた。
そっと目を開ける。
まあるく輝く月がふたつ、天と地に別たれている。
それがなんだか悲しくて、黒い水面から月を掬いとる。
角度とかのせいだろう、手元に引き寄せた水の中に月はいない。
色々試してはみたけれど、結局は諦めた。
諦めて、水面に浮かぶ月をツンとつつく。
月に触れられたことがなんだか可笑しくて、しばらく月を揺らして戯れていた。
それも飽きて、月を握り締める。
沈んだ手の平の上に、また月が現れる。
途端に全てがどうでもよくなってしまい、また歩き始めた。
水が腰の位置を越えた頃、
「おおい」と背後から女の声がかかる。
期待と不安の入り乱れた感情が湧き上がって立ち止まる。
けれど振り向けない。
羞恥と期待と絶望が、黒々とした水よりもなお黒く、そして重く自らの心に纏わりついている。
しばらくそうしていると「おい」と、今度は少し怒ったような調子の声が聞こえ、背後から水を掻き分ける音が近づいてくる。
それでも、頭の中はぐるぐると、どうしたものか思い悩んでいる。
「どうしようもないな、お前さんは」
すぐ近くで声が聞こえたかと思うと、背後から手を握られる。
恐ろしく冷たい手の感触に思わず「冷たい」と言ってしまうと、「誰のせいだ」と怒声とともに手を引かれ、強引に振り向かされる。
――月が咲いていた。
月だ。彼女は己の月だった。
他の誰のものでもない、水面に咲く月。
その彼女が唇をきつく結んでこちらを睨み、怒りを隠すこともしない。
その姿を見ても現実感の薄さが消えてくれなくて、彼女の頬を両手で挟む。
つめたっ、とつぶやいて彼女が己にしがみつく。
その肩越しに、季節外れのワンピースが黒い湖に黒い弧を描いているのが見える。
彼女の震えが体越しに伝わってくる。
抱き返して、何を伝えるべきか、迷う。
そして全ては今更だということに気づく。
思えばこの日々は、月を掬うようなものだった。
決して触れない、手の中のお月様。
「どうしようもないバカだよ、お前さんは」
両手をしっかりと繋ぎ、体を重ねる。
震えが収まれば、この黒い水中で、自分らはひとつの月になれる。
そう、信じて。