1-1 遠い伝言
「そもそも、わからないことが多すぎるんだよ」
セシルは自動車の窓越しに揺れて流れる景色を睨みつけた。革張の椅子はアカデミーのよりも座り心地がいい。プリマヴェラ社製だ。窓硝子に映り込んでいるのは不機嫌な少女の顔だ。リアではない。呼ばずとも現れた幼馴染は、モルフェシアに来てから、あまり姿を見せない。きまぐれにひょいと顔を出したと思えばすぐに手を振って消えてしまう。
大変不可解だった。セシルは泣いてまで乞うてきた彼女のためにわざわざ来たというのに。
今は大陸暦二六四五年〈水魚の月〉。あれからもう三か月になる。
魔女の隠里ダ・マスケの村を出て、モルフェシア公国の首都ケルムへやってきたセシルは、この間に二つの温かい居場所を得ていた。
一つはグレインジャー探偵事務所の若き所長、パーシィ・グウェンドソンの邸宅。もう一つは学び舎のエルジェ・アカデミーだ。そのどちらも天へ向かって背を競い合い、よく磨かれた大きな窓ガラスを壁一面に几帳面に並べていた。首を擡げずにはいられない都会の姿にはいつも感嘆させられる。かつらが無ければもっと楽しめるのに。あとスカートも無ければなおいい。
それに比べ、記憶の中の故郷――背が低くずんぐりむっくりのダ・マスケの家々は、古めかしいどころかおとぎ話めいてさえ見えた。
さて、グウェンドソン邸には、主人と客人以外に、執事が一人、それにハウスメイドの姉妹が二人と、料理人が一人いた。彼らはパーシィとセシルを生活の中心にして生きていた。
今セシルの乘る乗用車は執事のナズレが運転してくれている。
大きな屋敷には、主人の称号と家屋の管理ゆえにそれぞれの役割を果たす勤め人がいる。
と、セシルに嫌な顔一つせずに教えてくれたのも彼だ。
しかしモルフェシア公国は文明と資本主義を掲げた先進国。徹底的な個人主義が推奨されているこの国では、人々は自らの生活を己の手で動かすことに慣れていた。
その中にあって使用人を抱えている家は、貴族か実業家に限られているのだそうだ。
だがパーシィ・グウェンドソンという男がそのどちらかは、未だ不明だった。
出会いから三か月が過ぎているのに、少年は尋ねあぐねていたし、青年は言ってくれない。
セシルの方も、新しい環境に慣れるのにいっぱいいっぱいだったけれども。
他人を養える財力を持ち、ヴァイオレットと既知の仲でセシルに魔女の力と女装を求める男とは。あるときセシルは屋敷に誰もいないのを見計らって〈風のアリア〉に乗せてこっそりとヴァイオレットに尋ねてみた。
「あの人は何者なの? なんでオレやダ・マスケのことを知ってるの?」
「大丈夫。彼のことは、生まれる前から知っている。嘘のつけない、まっすぐな男だともね。信じるに足る人間だよ」
「信じられないから聞いてるんだよ!」
「では、信じられるよう、努力してごらん」
ダ・マスケの村の長老を務める大好きな祖母に言われて、少年はしぶしぶ引き下がった。
同様のことを探偵本人に問いただしてもよかった。
けれども、心のどこかであの美しい男の反感を買うことを恐れていたので、できなかった。
すぐに田舎へ押し戻されてはモルフェシアに来た意味が無いのだ。
「今は我が家での生活とケルム、それからアカデミーに慣れるといい。そうして余裕ができた頃に君の〈力〉を貸してもらいたい」
セシルの入学に際し、そう言ったそつのない笑顔すらなんだか呪わしく思いだす。
ふと、ちらりと見たフロントミラーで運転手と目があった。
「なにかご不満でも、セシル様?」
「ナズレさんにはないよ。でも聞いてもいい?」
「今ですか? わたくしはそんな――器用に運転しながらご希望の答えをご用意できるような人間ではありませんよ」
執事の男にそれとなくいなされてしまい、セシルは口を曲げた。できる癖に。
パーシィもそうだ。探偵の顔を持つ彼は、契約書通り、セシルを助手としてあちこちへ連れ歩いた。だがセシルがやったことと言えばメモを取ることぐらいで「魔女として雇った」意味はどこにも見出せなかった。
***
みんな、オレのことをお客さん扱いしたまんま。
少年のため息を合図にして、景色を流れていた黒い鉄柵がカフェや雑貨店の看板に変わった。
湿気てくすんだ色合いは雪の名残だ。春風が埃っぽさを拭ってくれるまではずっとこの調子だろう。ダ・マスケなら、そろそろ春祭りの支度で華やぐのに。
碧の視線を天へやると、背の高い建物の隙間を縫うようにして青空がちらついた。
あんなに近くに感じていた空なのに。セシルは寂しく思った。ちっちゃくなっちゃって。
彼の視界を、急に馬車の車輪が邪魔した。しかしそれも一瞬のこと。
執事の運転する自動車は最新式だったので、ご機嫌な唸り声を上げて勝利を宣言した。
セシルの送迎をも担当する初老の執事ナズレは、灰色の世界を颯爽と走り抜けてグウェンドソン邸へ戻ってきた。
執事はいつも、一度車を降りてホルガー通りに面した門を開けて再び車を動かすという手間をかけて、セシルを玄関まで運んでくれる。一度ならず断ったことがあるが、彼はそれが自分の職務であると頑として譲らなかった。だから少年も車庫からナズレが戻ってくるまで待った。それが通したい礼儀だった。
『グレインジャー探偵事務所』という看板の打ちつけられた玄関の前で待つこと数分。
戻ってきた執事が開いてくれた戸口をぴょこんとくぐる。
「おかえりなさいませ、セシルさま」
「今日もありがとう、ナズレさん。パーシィは?」
執事は改めて少年の荷物を置き、そつない動きでコートを脱がせてくれた。
少年も合わせて袖を抜く。これもこの三カ月で慣れたことの一つだった。
「ご在宅です。十五時からお約束のお客様と面会中でいらっしゃいます」
絨毯敷きの階段を上がりながら、執事が滔々と状況を教えてくれる。
「どうか――」
「わかってる。着替えでしょ。ちゃんとするって」
「お茶のご希望はおありですか?」
「なんでもいいや」
セシルは自室の扉の前で執事に軽く手を振った。これが自分なりの感謝の表現だった。
がちゃりと扉を閉じきり、上品な笑顔を外へ追い出す。これでやっと一人になれる。
「おかえりなさいませ、セシル様」
セシルのため息と同時に、部屋の中にいたメイドが振り返った。彼女は既に控えていた。
「ただいま、フィリナさん」
彼女――フィリナ・ミスクスはセシルを認めると、ふんわりと頬を持ち上げて膝を曲げた。
だよね。予想通り。
そう、つまりこれもまた新しい生活のルールなのだった。理由は後になればわかるよ。
一つに結い上げた飴色の髪、真っ直ぐに切り揃えている前髪。濃紺のお仕着せに真っ白なエプロンを身に着けた几帳面で清楚な彼女の瞳は、泉に映った葉末の碧色をしていて甘く可憐に垂れている。
この白百合のように素敵な女性は、グウェンドソン邸のメイド・オブ・オールワークだ。
「お着替えですね。さぁさ、こちらへ」
彼女の明るい声に、セシルは思わず頷いた。
一瞬、スカートからスカートへの嬉しくない着替えだということを失念してしまった。
一息吐く間もくれず、メイドのフィリナは少年の手をとって鏡の前へ連れ立った。
「今日はマクミランさんが新作を持ってきて下すったのですよ。ほら、先週旦那様がお選びになった。さっそく旦那様にご覧に入れましょうよ」
そして、ベッドの上に寝かせていた少女用のデイドレスを両手いっぱいに持ってきた。
どうやらあらかじめ選んでいたらしい。
「えぇ。別にいいよ」
「きっとよくお似合いですのに」
「オレはその逆を証明したいの」
セシルが鏡に向かってくちびるを尖らせると、フィリナも控えめに真似をしてきた。
年上のキュートな表情へ言い返せぬうちに、セシルの視界の端、鏡の中で何かが動いた。
リアだ。彼女は映り込む二人の背後からひょっこり首を覗かせて、くちびるだけで「おかえり」を言った。
メイドは三人目の登場には気づいていない。
当たり前だ。リアはセシルにしか見えない鏡の乙女なのだから。
フィリナさんさえいなければリアをとっちめられるのに。セシルは眉をしかめた。
「雪も溶けてまいりましたし、今日はこの水色なんていかがです?」
「それは嫌」
「もう。セシル様の『嫌』を聞いていたら裸になってしまいます」
「いや、普通のでいいってこと」
「『普通』じゃわからないから、お尋ねしているんですけれど」
どうしてこうセシルの身の回りにはマイペースを貫く人間ばかりなのだろう。
ぼんやりそう思っている間に、メイドが体の正面へどんどんとドレスをあてがう。
どれがいいかな、などと独り言を言うフィリナと一緒になって、リアが瞳を輝かせている。
「あっ! かわいい! わたしもそれ着たい!」
声につられてセシルがメイドの手を物理的に止めると、フィリナは子供っぽくむくれた。
その手には、モスグリーンの上に小花がちりばめられた少し田舎風のワンピースがあった。
「地味じゃありません?」
不満げなフィリナに、セシルは肩を竦めてみせた。
「これがいいんだってさ」
「また、他人事みたいに仰るんですね」
「だって事実、オレの趣味じゃないし」
セシルは素直にうなじを露わにした。それを合図にフィリナがフックを一つずつ外してゆく。
少年にも人並みの羞恥心はあった。けれども小公女の装いには人手が必要なのだ。
なにせパーシィが買うものはどれも手の届かないところにボタンがある服ばかりだったから。
***
ワンピースに着替えたセシルは、フィリナの微笑みを背に応接間に向かった。
アカデミーの制服よりも幾分ゆったりとしていてその分下着の隙間がすうすうする。
一階の応接間、その扉の前には執事が立っていた。彼は少年を認めると静かに扉を叩いた。
「旦那様、セシル様が戻られました」
くぐもりやすいバスバリトンは必要なだけくっきりとしていた。
「入りなさい」
若さがありつつも堂々としたテノールが帰ってくる。この家の主のものだった。
セシルは執事が音もたてずに開けた扉をくぐった。
ソファの蜂蜜色の髪の紳士――パーシィは肩越し振り向いて、ほんの少し口を横に引いた。
それが彼の笑みだとわかるのは、セシルと使用人ぐらいだった。音もなく扉が閉まる。
「おかえり、セシル。掛けなさい」
「ただいま、パーシィ」
少年が紳士の隣に腰かけようとすると、正面に座っていた男が急に立ち上がった。
「そちらが! 魔女様ですか! わたし、ワイルダーと申します! この度は!」
彼はセシルに向かって手を差し出してきた。
男は緊張症なのかまばたきは多いし、顔中に脂汗が光っている。
「ま、魔女だなんて……」
手を握れば肯定することになる。セシルが魔女の末裔であることは徹底して否定しなければならない。ただ、パーシィの仕事ぶりが良すぎること、また傍らに少女を置いていることから、噂が噂を呼んでいるのも確かだった。「グレインジャー探偵事務所には魔女がいる。すべての事件をたちどころに解明するのはそのためだ」と。
固まるセシルに助け船が出る。
「どうぞワイルダーさん、楽になさってください。この娘はただの助手です。会った人は魔法にかけられたように思いますが、それは愛らしさのせいでしょう」
パーシィは流暢に述べると、その流れでセシルの手を取って、自らの隣に座らせた。セシルは気まずさにうつむくほかできなかった。けれども「ただの助手」扱いをしたことは忘れまいと心のノートに書き留めた。せめて、優秀な、とか言ってくれたらいいのに。
「セシルです」
「そ、そうですね! 実に愛らしい助手さんで!」
客があわてて腰を下ろすと、パーシィは彼から視線を外さぬまま、セシルに万年筆と書類を手渡した。目を通せということだった。
「ところで、話の続きを聞かせてもらえませんか、ワイルダーさん」
「あ、ハイ」
セシルは書類に瞳を下ろす。走り書きでも、パーシィの筆記はいつもとても読みやすい。
碧の瞳で、駆け足で綴りをなぞる。
依頼人の名は、サミュエル・ワイルダー。年齢は三一。職業は学生。ってことは博士課程の人、かな。相談内容は、幽霊から手紙が毎日届くこと。
幽霊? セシルは噴出しそうなところを腹筋で堪えぬいた。良い大人が幽霊って!
「見てもらえればわかるのですが……」
ワイルダー氏が平べったいクッキーの缶を取り出したので、セシルはわくわくしながら顔をあげた。けれども、男が蓋を開けた中身は手紙だった。それも、一通や二通ではない。
「うわぁ」
「わたしみたいな男にラブレターなんて、って思ったんでしょう。同感です」
セシルがうっかり洩らした、がっかりとうんざりとが混じり合う声を、依頼人は違うふうに受け取ったようだった。
パーシィが手紙を開いている隣から、セシルは客の顔をまじまじと見た。やせぎすで近づきすぎた両目、ぼさぼさの頭は粉っぽく、シャツの襟も黄ばんでいる。お世辞にも美男とは言い難い、冴えない男子学生に、毎日ひっきりなしに女性からの手紙が来るとは。
パトロンに向けて小さくメモを書いた。ねえ、彼への嫌がらせじゃないの?
「と、とんでもないご謙遜をなさるのね、ワイルダーさんは」
セシルはこわばった笑顔と同じ調子で、相手をなだめようと試みる。
けれどそれも空しく、彼はぼそぼそとこぼした。
「そもそも話す友だちもいない男を好きな人なんてそんな虫のいい話なんかないよ。悪戯の手紙ならまだしも、幽霊を装うなんて意地悪がすぎる……と、すみません、その、つい……」
「たいそうお疲れのようだ。だが、こちらとしては包み隠さず話してもらえる方がありがたい。ところでこの手紙、宛て名も切手も、差出人すら書いていないんですね。消印すら無い。郵便局が関わっていないことになる」
探偵はねぎらいもそこそこに、ずばりと本題に切り込む。
「え、そうなの?」
セシルはかつてクッキーが入っていた缶の中に手を入れた。だれでも使いそうな長方形の封筒は、表を、そして裏を返しても、生成り色をしているほか、なんの文字も書かれていない。切手も、消印もだ。ただ、手紙を入れるための袋として扱われただけのようだ。
「切手がないんだったら、やっぱり知り合いから届いたんじゃ?」
「わたしに女の子のお友だちはいないんですよ、セシルさん」
「じゃあ、お母さんかな?」
「セシル。邪推はやめたまえ。君の悪い癖だ」
それをちらと目視したパーシィは手にしていた手紙の一枚を指差した。
「日付か。なるほど。だから『幽霊』と――」
「そうです!」
男は首の緩い人形のように頭を上下させる。
「日付って?」
セシルが尋ねると、探偵は一つ思案してから口を開いた。
「消印が無ければ、いつの手紙かはふつうわからないだろう。だが、この手紙の主はこれをしたためた日付だけは書いているんだ」
そう言って見せてくれたのは、手紙の右隅だった。
「二六二五年〈獅子の月〉……。嘘! 二〇年前だよ! 時間を超えて手紙が届いてるの? それが幽霊のしわざ?」
思わず声を上ずらせたセシルに、客が食らいつく。
「そう、幽霊の仕業です! そうとしか思えません! そこで警察に相談したのですが――」
「気の毒に、取り持ってもらえなかったそうだ」
小さく肩をすくめてみせた探偵の真意に、セシルは心当たりがあった。
「また、ホッフェン警部だね」
己の正義を信じ不可思議を信じない警部からの依頼人の斡旋は、グレインジャー探偵事務所では珍しいことではなかった。「警察の手を煩わせるな」が彼の口癖なのだ。
パーシィは涼しいウインクで少年の正解を褒めてくれた。艶っぽい目元にどきりとしたセシルの真向かいで、サミュエルは気の毒な自分を抱きしめている。
「なんだか誰かに見張られているような気がして、夜も眠れなくて」
なるほど、みすぼらしく見えたのは心労からくる衰弱か。
「心中、お察しします」
と、セシルが納得する横から、言葉だけの同情があった。
セシルにはそう、判断がつくようになっていた。
「本当に、早くどうにかしてもらいたいんです。このまま睡眠不足じゃあ、一ヶ月後の試験に勉強が間に合わない!」
「一ヶ月後! オ……ワタシもそうなんです! もしかしてエルジェ・アカデミーの学生なんですか?」
「ほう」
パーシィは小さく頷いた。それはセシルへでもあったし、依頼人へ向けてでもあった。
「わかりました。今日のところはここまでにしましょう。ワイルダーさん、この手紙をお借りします。それからなにか変わったことがあったら、メモを取っておいてください。近いうちに学生寮へ伺いましょう。行くときには管理人室へ電話を入れます」
***
依頼人ワイルダーがイーシア人のようにぺこぺこと頭を下げるのを張り付けの笑顔で見送ったあと、セシルはすぐに自室に戻った。そして、ちょうどお茶を持ってきてくれたフィリナが残念がるのを耳にしながら、すぐに装いを変えた。
かつらのない頭は軽く、襟足は風通しが良くて、体まで軽く感じられた。もちろん、シャツとズボンの単純な格好もセシルの心をほぐすのに一役買っていた。
飛び込んだベッドが抱きしめてくれるのに、少年は甘えてごろごろする。
一方のメイドは残念そうにしながら、てきぱきと洋服を仕分けしていた。
「今日もかわいらしかったので、バーバラにも見せてあげたかったんですけど」
「そのワンピースと今日限りでさよならじゃないでしょ。また見られるからいいじゃない」
少年の投げやりな答えに、フィリナは鳶色の瞳を丸めた。
「あら、『嫌』じゃないんですね」
「うっ! だ、だって仕方がないじゃないか! パーシィがそうしろって言うんだから!」
「うふふ。そうですね。旦那さまには逆らえませんわね」
少年が顔を真っ赤にしてむきになるのをメイドが笑っていると、威勢のいいノックが聞こえ、続いて少女が飛び込んできた。
「失礼します。セシルさま、姉さんを――?」
チョコレート色をした髪を二つのお団子にまとめたメイドだ。釣り目の彼女が、フィリナの妹バーバラだった。姉妹は揃ってグウェンドソン家に召し抱えられている。姉はメイド・オブ・オールワーク兼メイド長として執事と共に家じゅうを管理し、妹は昼は大学生、朝と夜はハウスメイドの二つの顔を持っていた。彼女もまた、パーシィに学業を支えられているひとりだった。セシルはベッドから顔だけを持ち上げた。
「おかえり、バーバラさん」
「ただいまです。あ、姉さんいた」
バーバラは十九歳。この家の中で一番セシルと年が近く、親しみやすい存在だった。たまには勉強もつきあってくれる。
「あら噂をしていれば。おかえりなさい。あとこれ、ランドリーに出しておいてちょうだい」
四つ歳上の姉が妹にあれやこれやを手渡す。
「わかった。あと、ちょっと相談があるんだけど。ゼミの時間がずれこんじゃって」
「いいけど、スケジュールでしょう? 今すぐにはわからないわ――」
「いいよフィリナさん。オレ、もう着替えちゃったし。片付けだってほとんど終わってるじゃない」
少年はやっと訪れたオフを謳歌し、ベッドの上でバタ足をする。
「まあ、セシルさまがかつらのお手入れをしてくださるのね? 助かるわ!」
「えー! それは嫌!」
姉のメイドがわざと眉を上げて言うのに、少年は顔を思いっきりしかめた。
妹の方が悪戯っぽい苦笑を洩らす。
「姉さんの『助かる』を突っぱねられる人なんかそうそういないですよ、セシル様」
***
メイドの姉妹が出ていき足音が遠のいたのを確認すると、言われたことをさっそくなおざりにしたセシルは、扉に鍵をかけて姿見の前にふんぞり返った。
「リア! ちょっと、リア! いない?」
少年の刺々しい呼び出しに一呼吸遅れて、鏡の国の友人は現れた。
ふわふわの亜麻色の髪が宙に泳いでいる。まるで水の中にいるかのようだ。
「やっと、二人っきりだね、セシル。会いたかったよ」
リアがうふ、とコケティッシュに投げてきたキスを、少年は手ではたき落とした。
「冗談はいいから。ちょっと。ずいぶんと久しぶりだよね、こうやって話すの? いつもどこに行ってるのさ! 呼んでも来ないし!」
セシルの剣幕に驚いて、少女は途端にしどろもどろになった。
「だ、だって、セシル、最近はなかなか一人になれないみたいだったし……」
「モルフェシアに来たはいいよ? パーシィも変なところ除けば本当にいい人だし、友だちもできたし、学校も楽しいし、探偵の手伝いだって悪くない。でもさ、リア。リアはどこにいるのさ?」
角張ったボーイソプラノを恐れたのか、少女はわざとらしく茶化す。
「あっ、ご飯の時間だわ!」
「そういうのもいいから。オレ、困ってるんだよ」
「……ごめん」
しゅんとするリアの口から聞きたいのは、謝罪ではなかった。
「だってオレ、リアに会いに来たんだよ。歩ける限りは探してみた。でもモルフェシアでも、このケルム市内なのか、そうじゃないのかじゃあ、全然違うだろ。どこにいるか教えてくれなかったら迎えに行けないだろ!」
「……そう、だよね」
「そうだよ!」
二人は、どちらともなく視線を逃がし続けていた。セシルの視界を彩る内装の典雅さは彼の心を和ませない。
重苦しい沈黙を破ろうにも、セシルが口を開けば問い詰めてしまいそうだった。だからリアが折れてくれるのをじっと待っていた。彼女から誘ってきた話だ。したがって、彼女から口を割ってもらわねばならない道理があった。少なくとも、セシルはそう思っていた。
「うぅ……」
リアが背を向けてうずくまる。
こういうとき、そばで抱きしめてあげられたらいいのに。セシルは痛いほどそう思った。
母や父、祖母がそうしてくれたように、温もりが言葉以上に雄弁なのを知っていたから。
「リア……」
セシルは、姿見に映るだけの小さな背中に、そっと触れた。硝子は平たくて冷たい。
指先から気持ちと温かさが伝わればいいのに。指の腹で撫でさすってみる。
少年の思いに反して、きゅ、と空しい音がした。
「セシル……わたしの言うこと、信じてくれる?」
「信じないわけないよ。今まで色んな事を教えてくれたのは、リアだよ?」
ちらと横顔を見せてくれた少女は、鼻を赤くしていた。ついでに一つ啜った。
「あのね……わたしね……」
「うん」
「……ケルムのね、空の――」
少女がぽつぽつと話し始めてくれていた矢先だった。ノックが三つ鳴り、整ったハイバリトンが少年を呼んだ。
「セシル、入るよ」
「ちょっと待って、今は――!」
セシルの許可が無いまま、鍵がかかっていたはずの扉があっさりと開いた。鏡の向こうの少女は姿を隠した。
「待って!」
少年は、侵入者を睨みつけて吠えた。
「パーシィ! 待ってって言ったのに!」
マスターキィを首にかけなおした紳士は、悪びれずに言った。
「僕も入ると言った」
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