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【完結】探偵王子とフォルトゥーネ  作者: 黒井ここあ
はじめに
3/29

序曲 魔女の息子

 セシルが物心ついたときから少女は一緒にいた。けれども知らないうちに彼女の本当の名前を落としてしまったので、記憶の底から拾い上げた音を並べて、リアと呼んでいた。

 リアは鏡や窓ガラス、ぴかぴかに磨かれた銀の皿の向こうから、いつも朗らかに話しかけてきた。そしていつだったかのよく晴れた日、水たまりの中で亜麻色の髪と淡い碧の瞳を揺らして笑った。


「わたしたち、まるでそっくりさんね」


 そのとき初めて、セシルは己の容姿に気が向いた。

 それまで光を反射する物質は全てリアの住処だとばかり思っていた。そうしてリアがいなくなった場所をじっとよく観るとそこに彼女よりも丸くてふやけたような顔があるのに気付いた。大人に近づきつつあるすらりとした手足を持つ少女と、どこを見ても小さな自分とは違うのだと自覚した瞬間、幼心に隙間風が吹いた。これがセシルの自我の芽生えだった。


「歌は鍵なのよ、セシル」


 リアはそう言ってダ・マスケの村の子供が習う〈六つのマナの歌〉――炎のアパショナータ、水のバルカローレ、風のアリア、土のクラント、光のマドリガル、闇のノクターンを教えてくれた。少女の喉が奏でるソプラノは六種類の音楽の性格に合わせて甘くも勇ましくも明るくも暗くもなった。これは母親が娘へと口で伝えるものだと知るのはずっと後になってからだった。


「世界に散らばっている精霊のかけらを言葉で囲ってそうっと寄せ集めるの。そうすると彼らは自分が何者だったかを思い出してくれるのよ」


 すべての〈マナの歌〉を歌えるようになったとき、リアは秘密の歌を教えてくれた。

 その曲は、セシルがいつもそうしてきたように、彼女のソプラノをなぞっても楽譜に書きとめてもいけないという。ただリアが歌うのを聴き、覚えろというのだ。


「どうしてななつめはうたっちゃだめなの、リア?」


 少年が尖らせたあどけないくちびるを、少女は笑った。


「七つ目は、だあれも知らないからよ」


***


 さて、セシルは何度もこの素敵なリアという友だちを家族に紹介しようと試みた。


「これ、リアだよ」


「いいや、これは鏡だよ、セシル。そしてこれは、鏡に映ったセシルだ」


 父のモーリスは優しく諭すと、鏡を指差す息子の小さな頭を撫ぜた。

 そうじゃないのに。少年は納得のいかない気持ちでいっぱいになった。


「これ、リアだよ」


 母のメアリーはもっとひどかった。突然涙を溢れさせてセシルを抱きしめた。いったい何が悪かったのかわからなくて、セシルはとても悲しい気持ちになった。大好きなリアを大好きな家族に会わせたいだけなのに、どうしてこうもうまくいかないのだろう。

 母親と一緒になって泣くセシルを、鏡の中で心配そうに見ているリアがそこにいるのに。

 それからメアリーは、三日間寝込んでしまった。

 だが、メアリーとセシルの世話をしに来てくれた祖母ヴァイオレットだけは別だった。


「これ、リアだよ」


 三歳のセシルは少し考えた。

 鏡だけでなく、食器棚のガラスや窓ガラスなど、リアが現れる全てのものを指差した。

 それは、ヴァイオレットのブローチに姿を見せた少女を指差したときだった。初老の女は孫の小さな手のひらをその手で優しく包み込み、膝をついて顔を覗き込んでくれた。


「セシル。友だちを紹介してくれて、ありがとう」


「おばあちゃんには見えたの?」


 喜ぶ孫に祖母はやんわりと首を振った。


「なあんだ」


 しぼむ気持ちのままセシルが項垂れるとヴァイオレットは彼の顔をほっぺたごと持ちあげた。

 優しく見つめてくれる紫の瞳には、リアではなく自分が映っていた。


「すまないねえ。けれども、いないと思ってはいないよ」


「ほんとに? ほんとにリアはいるんだよ! ぼくとおんなじかおのおんなのこなんだ!」


 ヴァイオレットの口元がきりりと引き締まった。


「セシル、よくお聞き。友だちの言葉にはよくよく気をつけなさい。その子が鏡の国に住んでいるのならば、特に」


***


 祖母が含んで言い聞かせてくれた日から十年の月日が経った。

 十三歳になったセシルの一番の友だちは、やっぱりリアだった。

 少年以外に見えない鏡の国の乙女はずっと変わらず少女の姿のままだ。

 反対に、セシルは健やかに両の手足をすらりと伸ばしている途中である。

 二人はもう、双子といっても差し支えないほどそっくりになっていた。

 セシルが女装しているときは、本人たちでさえ一瞬、見間違うほどだ。

 セシルが少女に扮するのには訳があった。本人は大変不本意だったが、一人っ子のセシルは女系であるヴァーベン家の跡取りで、そしてこの家は世界に満ちているマナを操る魔女の系譜が住まう隠れ里ダ・マスケの村にあった。跡取り娘を期待していた母親はがっかりせず、彼に名前と、産着からドレスまで自分の服のお下がりすべてを授けた、という寸法だ。

 この日もそれは変わらなかった。

 セシルは母親のレッスンが終わるなりすぐに自室に戻ると、少年としてのアイデンティティを取り戻すべく、衣装を脱ぎ散らかした。うっすらと胸に詰め物の入ったシャツも脱ぎ捨て、下着一枚だけになったセシルの耳に笑い声が届いた。いつの間にか現れていたリアが鏡の中で長い髪を揺らしていた。セシルは慌てて自身の頭をまさぐった。そこにかつらはなかった。

 ほっと一息つく。


「ねえねえ、セシル。空を飛んでみたくはない?」


 笑いの収まらない少女が問うと、短髪の少年は碧い瞳で軽く睨みつけた。


「飛ぶ? さっき母さんに散々やらされたから、いいや」


「箒の話なんかしていないの。夢が無いわね。飛空艇に乗りたくない、って聞いているの!」


 小さく口を尖らせるリアにセシルは食いついた。軽く口笛を鳴らすと、ベッドの上で散らかっていた新聞が自らひらりと彼の手のひらまで飛んできた。それを鏡に向かって突きつける。


「飛空艇! 新聞のこれでしょ? 定期便ができるってやつ! それがダ・マスケに来るの?こんな山奥に?」


「ここには来ないわ。でも、コルシェン王国には行くわよ」


「ここだってコルシェンだけど?」


「こんな山奥には来ないわよ。ベッカ空港よ」


 と言いながら、リアは空中に光の地図を描いて見せる。

 器用なことに、セシルに向かって正面になるようにきっちりと鏡映しだ。


「そうしてここから夢追い人の国モルフェシア公国までひとっ飛びするの。どう? 楽しそうじゃない?」


「行きたい! 一回、乗ってみたかったんだ、オレ!」


「セシル! うるさい!」


 興奮した矢先、扉の向こうからメアリーの叱責が飛んできた。

 二人は顔を見合わせ、肩を竦め合った。

 しばらくして踵の音が遠ざかると、またもそろって胸をなでおろす。


「あの母さんが、なんていうか知らないけどさ」


 少年少女はどちらともなく噴き出した。それがにわかに収まると、リアは光の地図をそっと吹き消しセシルの瞳をまっすぐに見つめた。

 なんだろうと、少年も同様にする。

 少女のまなざしは、こんな風にたまに大人びることがあった。


「セシル。あなた、もう学校に行く年になったのよね」


「まあね。でもこんな田舎の学校じゃやることなんか変わんないよ。ハーブの調合にクリームの作り方だろ。あとは箒で飛ぶぐらいか。前時代的なことばっかりでつまんない」


 口を曲げる少年に対して、少女は真剣だった。


「ダ・マスケでやりたいことが無いんだったらつまらなくってもしょうがないわ。大丈夫、夢の一つや二つあれば、どこでだって、なんだってできるわよ」


「あればね」


 セシルはまたか、と乱暴に引いた椅子に腰かけ、机に顎肘をついた。


「そう簡単に見つかるものなら、とっくに見つけてるよ」


 そっぽを向きついでに、少し高くなり始めた鼻を窓に向ける。楽しそうに体を揺らすポプラにも、その上で喉自慢をするエナガの柔毛にこげにも、流れる雲の向こうで今は隠れている星々にも、セシルは夢を見いだせなかった。ただまどろみの間に見る夢そのものの甘さしか知らなかった。

 夢を持てずにいること。それがセシルにとって悩みと言えば悩ましくもあり、どうでもいいと言えばどうにも考えたくないことであった。


「それじゃあ、近い目標をあげるわ」


「いいよ、別に。母さんみたいな真似をしなくても」


 つんけんする口ぶりとは裏腹に、碧の瞳はちらとリアを盗み見ていた。そして少女のふっくらした口元が、震えてまごついているのを偶然見てしまった。リアが言いにくそうにしているのは初めてだった。彼女が何を言わんとしているのか全くわからない。

 不思議な緊張に唾を飲み込んだ。どこかよそよそしい奇妙な沈黙だった。


「お願い、セシル」


 一粒の涙と共に、言葉がこぼれた。

 少年は度肝を抜かれた。嫌な話題から逃げていた事も忘れるほどに。


「わたしに会いに来て。モルフェシアに」


「泣かないで、リア! どうしたのさ、急に? ねえ、理由は?」


「わたしたちが出会えば、運命が変わると思うの。お願い……!」


 少年は訳も分からず、同じ質問を繰り返した。しかし返ってくる答えも全く同じだった。

 どちらも譲らぬ押し問答の結果、根負けしたのはセシルの方だった。


「わかったよ。きっと会いに行くから。でもいきなりは驚いたよ。リアはオレの頭の中にしかいないと思ってたから」


***


 セシルは、すぐに冒険に出るほど無鉄砲ではなかった。

 第一、彼はダ・マスケから出たことがない。保護者無しに村の外へ出てはいけないからだ。

 けれどもセシルはこれを逆手にとった。さっそく、夕飯の後のティータイムで切り出した。


「ねえ。そろそろオレも外に出て〈非魔〉(ディマジカ)に紛れる練習をした方がいいと思う。どうかな。外の学校に行くってのは。例えばモルフェシア公国とか。知り合いがいればの話なんだけど」


 夫婦は一瞬、呆気にとられると、お互いの顔を見合わせてから同時に口を開いた。


「いいんじゃないか。なあ、メアリー?」


「まだ早いわよう。ねえ、あなた?」


 そして再び、お互いの顔を見つめあった。


***


 それからは、面白いほど簡単に事が進んだ。

 父のモーリスは婿養子だったが、一人息子の肩を持ってくれた。

 それにダ・マスケの子供が学問を求めて外界へ旅立つのは、さほど珍しいことでもなかった。

 メアリーの曲がった臍がまっすぐになる頃には、何をどうやったかは知らないが、祖母ヴァイオレットの口利きでモルフェシア公国での保護者兼出資者パトロンを得られた。

 パーシィ・グウェンドソンというのが彼の名だった。小切手と手紙の署名は、優美で達筆。富貴な印象を決定づけるのに十分だった。透かし模様が高級そうな便箋には、セシルの生活全般と健康だけでなく、ダ・マスケの家族をも支援する旨が書かれていた。

 他人にここまでしてくれるなんて。セシルは会ったこともない紳士に畏敬の念を強めた。

 彼がセシルのために選んでくれたのは、エルジェ・アカデミー。モルフェシアでも一、二を争う有名校だった。飛空艇が世界中を飛び交うようになってから、急激に需要の増えたパイロットと技師を養成するカリキュラムが注目されている。毎日少しの時間、彼の仕事を手伝えば学費まで出してくれるという。


「願ったり叶ったりってやつだよね、これ。マナのご加護かな。それともオレって自分の運命も動かせるくらい、強い力を持ってたりして?」


「仮に持っていたとしても、外じゃ使っちゃだめよ」


 そして出発の日、モルフェシア行きの飛空艇のチケットと荷物とを握りしめたセシルはコルシェン王国の空の玄関、ベッカ空港にいた。

 季節は冬の真っただ中。雪道を歩かせるのは忍びないからとモーリスとメアリーがこっそりと魔法の扉で送ってくれたここが、グウェンドソン氏との待ち合わせ場所だった。

 そこはセシルが想像もしないほど人と機械で溢れかえっていた。呆けて立ち尽くしていると、縦横無尽に絶えず早歩きで移動する人々に揉まれて玉突きのように流されてしまう。その人たちの顔は丸、三角、四角とあまりに様々だったし、彼らが投げ合う言葉も知るものから知らないものまで多岐にわたった。

 ダ・マスケを丸々覆い隠してしまいそうな高いガラスの天井の隅々まで、噴き出す蒸気とギヤ同士がぎちぎちいがみ合う鋼鉄の喧嘩が鳴り響いている。村のある山間と違って雪風はそれほどきつくはないものの、人々は白い息を口々にしていた。

 鼻を刺す油と香水、胸やけをさそう男の脂ぎった体臭など、あたりには音と同じくらいの目まぐるしさで、様々な匂いが飛び交う。香ばしいコーヒーとドーナツの香りがしたと思いきや、それらは一瞬で過ぎ去り、また違う匂いに置き換わる。

 すべての情報を、いちいち相手にしていられない。

 花の香に鳥の歌が聞こえては空に溶けてゆくのどかな故郷とかけ離れた様相に、セシルはくらくらした。

 溺れかけながらも、手紙で指定されたドックの隅っこになんとか辿り着いた。

 手紙のとおりならば、ここでグウェンドソン氏が拾ってくれる。

 皮鞄を椅子代わりに座ると、気分も少しはましになった。立ち止まると、余計に人の流れの速さを感じ、己の小ささを否が応でも認めざるを得ない。

 セシルはきりきりと冷えた手指を擦り合わせた。


「はあ。世界にはこんなに人がいるものなんだ……」


 ロフケシア行き、という声に、身なりや荷物も様々な人たちが、停まっている飛空艇の中へとなだれ込んでゆくのを眺めながら、息をついた。この後に、モルフェシア公国への飛空艇が入ってくるというアナウンスが聞こえた。場所に間違いはないらしい。

 セシルはへこたれてはいなかった。むしろ、ご機嫌だった。ダ・マスケの外だから、女装をしなくていいのも、理由の一つだ。メアリーが鞄の中に詰め込んできたフリルやリボンの類は全て抜き出して、数少ないお気に入りの服を詰め込んできた。己が性別に嘘をつかなくてよいというのは、かくも素晴らしいものか。気分は晴れやかだ。半ズボンからむき出しの膝小僧が寒さで赤く染まるけれど、それはそれで気持ちがいい。


「ねえ、リア。こんな人混みで待ち合わせなんて無理だよ。わかりやすいように、〈アパショナータ〉で小さく花火でも打ち上げとく?」


「そんなのだめよう。絶対に〈非魔〉(ディマジカ)の前で、魔法を使っちゃだぁめ」


「じゃあ、リアも話しかけてこないで」


「なによう、その言い方。先に聞いてきたのはセシルだわ。ひとが心配しているのに」


「その言い方、母さんみたい」


 モーリスがくれた腕時計、そのガラスの中で、小さなリアが頬を膨らませる。


「言ったじゃない。わたしたちみたいな魔女はね、もう、ダ・マスケにしかいないのよ。世界の普通は〈非魔〉(ディマジカ)なの。目立ったら、何をされるかわからないわ。怖い目にあってほしくないの」


「なにそれ。オレたちが特別みたいに」


「特別だって言ってるのよう!」


「君、それは電話なのか?」


「うわあ!」


 突然セシルの上に、細長い影とテノールが下りてきた。リアはすぐに姿を消した。

 びくつかせた身体ごと、リアが自分にしか見えないことをすっかり忘れ、腕時計をしていた右腕と、なんの関係もない左腕を背中にかくまい、影の持ち主を見上げた。


「ち、ちが、ちが、いえ、そうなんですけど!」


「ふむ? どちらでもなく、どちらでもある、と……」


 真っ先にセシルの瞳に飛び込んできたのは、澄んだ空色の瞳だった。その周りを、癖の無いはちみつ色の髪がさらりと彩っている。まっすぐな鼻梁と顎筋を持つ若く美しい男だ。

 セシルは見上げたまま、うっとりとしてしまった。

 まるで夏空の化身みたいだ。それか、絵本の中から王子さまが飛び出してきたみたいだ。


「亜麻色の髪に、碧の瞳……。はて?」


 埃一つないコートを纏った、身なりの綺麗な男は小首を傾げた。頭に乗せたシルクハットはずれない。けれども、右耳を飾る四枚羽の耳飾りは葉末のようにささやかに揺れて光を跳ね返した。紳士は睫毛を羽ばたかせると、持っていた紙とセシルとを見比べはじめた。理知的な瞳が往復する。

 セシルは、まじまじと観察されている決まりの悪さをやり過ごすべく、紳士の手元に焦点を定めた。すると紙の裏には彼のよく知る名前が書いてあった。


「ヴァイオレット・ヴァーベン! それ、もしかして、おばあちゃんの手紙? ってことは、お兄さんがグウェンドソンさん?」


「ほう。よく観ているんだね」


 男は瞳を丸めると、紙きれを上着の内ポケットにしまい、手袋を脱いで、セシルに右手を差しのべてくれた。流れるような動作だった。


「申し遅れて、すまない。間違ってはいけないと思って。お初にお目にかかる。パーシィ・グウェンドソンだ。ダ・マスケのセシル・ヴァーベンくんだね」


「は、はい!」


 セシルが握手をしようと手を重ねると、紳士はその手を顔へと引きよせて、冷えた指先に軽く口づけた。少年は言葉を失った。


「これから、よろしく頼むよ」


***


 ジュビリア大陸の西岸に位置するコルシェン王国から、内陸のモルフェシア公国までは三日かかるという。雪空の中でも止まらない強靭なエンジンがあるから大丈夫だ、とも。

 そういったことを紳士は軽く説明してくれた。飛空艇の内部構造は海洋船のそれとほとんど変わらないから、客室のグレードも、四台の二段ベッドが押し込まれた旅人用のエコノミールームから、恋人や夫婦に人気の個室、スイートルームまで多岐にわたるのだそうだ。

 紳士はお抱えらしい執事――ナズレと呼ばれている彼に荷物を持たせると、客室へ先導してくれた。セシルがまさかと思っていると、豪華なスイートルームに通された。執事が恭しく扉を開けてくれたので、丁重な扱いに慣れていない少年は、おっかなびっくりの礼を返した。

 そんなこんなで、グウェンドソン氏の衝撃的な挨拶のせいで頭がぐちゃぐちゃになったセシルは、生まれてはじめての飛空艇やフライトにも拘らず、気もそぞろだった。

 そもそも飛ぶ行為自体は経験していたので、セシルにとって、ふわりと体が持ち上がるときの揚力と重力との感覚は珍しいものでもなかったのだが。

 気がついたときには、見たかった出港のテープカットはとっくに終わっていた。


「気流に乗れたようだ。しばらくはのんびり過ごすといい」


 気を利かせてくれたパトロンが隣室に行くや否や、セシルはここぞとばかりにお守り代わりの腕時計にささやいた。


「リア。ねえ、リアってば! 起きてる? どうしよう。グウェンドソンさん、オレのこと、女だって思ってるよ!」


 呼び出された少女はふわぁとあくびを一つすると、小さなガラスの中で顎肘をついた。

 どうやらうたた寝の邪魔をしたようだ。

 セシルと同じの、触角のように飛び出した二つのくせ毛がふわふわと揺れる。


「そうねえ。セシルはわたしに似てかわいいから」


「『かわいい』は嫌だって言ってるだろ! でも、なにあれ! 外の人って、ああするのが普通なの?」


「いいえ。でも……」


「でもってなにさ――?」


 リアがまごついたのを問い詰めようとした瞬間、それは三つのノックで遮られた。


「ヴァーベンくん」


「はひぃ!」


 セシルは再び体をびくつかせると、戸口に現れた紳士を振り返った。

 冷や汗をにじませる少年を、男は不思議そうに見つめる。


「呼んだかな?」


「い、いえ! グウェンドソンさんのこと、呼んでないです!」


 鏡をちらちらと窺いながら取り繕うセシルを、紳士は軽く笑ったらしかった。

 というのも、ほんの微かに口の端が持ち上げられただけだったから。

 彼は扉を閉めると、その形のよいくちびるを開いた。


「パーシィで構わないよ。僕もセシルと呼ばせてもらっても? ところで、いつまでその格好でいるつもりだい?」


「ん? いつまで?」


 少年が首を傾げると、パーシィが小さく肯く。しかしセシルの問いは拾われなかった。


「着替えだ。僕が用意したもので良ければ、好きに着てくれたまえ、セシル」


「ほ、本当ですか! ありがとうございます、パーシィさん!」


 セシルが喜んで備え付けのクローゼットを開けると、彼の笑顔は戸惑いに凍りついた。

 そこには色とりどりの少女物の洋服が所せましと掛っていた。ふわりと花開いたのは、ヴァーべナの香りだ。セシルには、ハンガーにかかったそのどれもが一級品であると、感動する心の余裕はなかった。少年の疑惑が確信に変わる。やっぱりそうじゃないか。

 セシルは不快感を露わにしないよう、懸命に努力しながら振り向いた。


「あの、勘違いがあったらいけないんで、確認しておきたいんですけど」


 出会ってまだ一時間程度の、寛大で美しきパトロンに失礼があってはいけない。

 セシルは言葉を選んだ。少年のこれからは、パーシィの一存にかかっているのだ。


「なんだい?」


 紳士は穏やかに首を傾げる。乱暴でもいけない、けれども誤解は解かねばならない。

 齟齬は早いうちにとっぱらったほうがいい。セシルは心とボーイソプラノを固めた。


「オレ、男です」


 きっぱりと言った。そうセシルが思うくらい、極めて明快で簡潔なセリフだった。

 だがパーシィの反応は、同じくらい、こざっぱりしたものだった。


「知っているよ」


「じゃあ、どうして女装なんか!」


 正面へ一歩踏み出した若きパトロンは、少年の顔を覗き込んで目を細めた。


「当然だ。君を魔女として雇ったんだから」


 そして胸元からあの紙きれを取りだし、セシルの鼻先へ突き付けた。

 それは、少女に扮したセシルの写真だった。そして急に頬と頬を寄せてささやいた。


「安心してほしい。君が魔女の末裔であることは、僕しか知らない」


「なんでそれを!」


 セシルは反射的に男の胸を突き飛ばした。そのままよろよろと後ずさると、背中が二重窓へぶつかった。うなる風の音が聞こえる。けれどそれは遠く感じられた。


「知っているよ。ダ・マスケが魔女の村で、世界から隠れていることも」


 家族にまでお金が入るなんて、おかしいと思ったんだ。

 赤の他人を支援する、見返りを求めない紳士という幻が崩れ、絶望に合点がいく。

 セシルは家族に売られたのだ。魔法を使える希少種として。


「あんた、人買いだな!」


「違う。僕は探偵だ」


 探偵という言葉は、震えるセシルの耳に馴染みが無かった。わからない。信じられない。


「オレをどうするつもり?」


 声を波立たせる少年に、男はゆっくりと近づいた。

 すらりと伸びた長身に圧倒されそうになる。その彼に肩を掴まれ、空色の瞳で貫かれた。


「どうもしない。君の願いと契約書の通り、君を学校へ通わせる。その代わり、僕の仕事を助手として手伝ってほしい。それだけだ」


「嘘だ!」


「嘘じゃない! 天に誓ってもいい! モルフェシアへ着いたら、すぐにきみの故郷へ電話をかけようか?」


 きめ細やかだったテノールが急に爆発し、セシルは身体を縮こまらせた。

 青年の声音はすぐに元通りになった。


「君のお婆様と約束したんだ。ダ・マスケの秘密も、君のことも。絶対に守ると」

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