春のスイッチ
その日、純喫茶ローズ、とかかれたガラスのドアを押して外に出ると、夕闇に沈む町は、ひときわ風がきつくなっていた。
三月の終わりとは思えない寒さだ。
居酒屋ののぼりがバタバタと音を立ててはためき、枯葉やゴミが舞い上がっては顔にあたる。行きかう人はコートの襟を立て、俯き加減に小走りになっている。
その週、春休みのバイトの面接に立て続けに四件落ちていた。
五件目のパチンコ店でも、「いざという時面倒な客と戦える覇気がない」という理由で断られた。
パチンコ屋にまでふられて、もう自分にできる仕事はこの世にないように思われた。
下を向いて北風の中を歩いていると、自分が歩いているんじゃなくて、足の下の道路がベルトコンベヤーのように後ろに流れているような気がしてくる。
景色も壮大な3Dがただ後ろに流れているだけで、ぼくは延々同じ場所で足踏みしているんじゃないか。歩いても歩いても、実際は一メートルも前に進んではいないんじゃないのか? そんな非現実感に襲われはじめていた。
さあ、落ち着け。ぼくはまだ大学二年で、たかだかバイトの面接だ。人格を全否定されたわけじゃない。あちらこちらで言われたことは本当に当たっていないか? きちんと思い出せ。
……悪いけど、笑顔の苦手な人は困るんだ。きみその顔、無理してるよね。
塾講師に向いてると、自分で思いますか? どうも人の目を見るのが苦手なようだけど。
自分に自信がない人は、家庭教師は無理だよ。勉強ができるできないじゃない、相手に信頼されるようなオーラが必要なんだ。
その痩せた体で、引っ越し業は無理じゃないかな。うちは体育会系から取ってるんだよ。
ああ、言われたことは全部あたってる、その通りだ。
でも、外から言葉にして他人に指摘されるのが、こんなに堪えるとは。就活自殺なんて甘えてると思ったけど、バイトごときでこんなんじゃ、ぼくだっていざぼこぼこにされたら生きて行けるかどうかわからない。……
そんな中、風に交じって高い声が響いてきた。
いかがですかー、新商品の試食です。ハワイで大人気のフレーバーポップコーン、八種の味で日本上陸です。お味見いかがですかー。
ぼくが立っている十字路の向かいに、明るい照明で照らされたポップコーンマシンが見えた。新しくできた雑居ビルの中の店の商品を、外の出店で売っているのだ。その横に立つのは、ピンクの売り子服を着た若い女の子。寒風の吹きすさぶ中、彼女は妙に胸を強調したメイドのような格好をして、猫耳のついた帽子をかぶり、懸命に叫んでいる。
……いくらなんでも、あれじゃ寒すぎる。だいいちこんな北風の中で、あんなミニスカート着させられて。アメリカンパイのチェーン店の制服があんな感じじゃなかったっけ?
ぼくは正面に彼女を見ながら、ゆっくりと横断歩道を渡った。
通行人は強風の中目を伏せたまま、だれ一人立ち止まりもしない。
やがて自然に、彼女と視線が合った。
うさぎのような黒目がちの瞳だ。鼻の頭と頬が赤く染まっている。髪は漆黒で、顔の輪郭に沿った素直なショートだ。
「よかったらお味見いかがですか?」彼女はにっこり微笑んで言った。
ぼくは立ち止まって、はい、と小さな声で言った。
「ハワイの人気店なんです。おすすめフレーバーは、メープル、キャラメル、シナモンと、バラに、ハニーもあるんですよ」彼女は小さな紙コップに全種類を一個ずつ入れて、上を手で蓋したままぼくに差し出してきた。紙コップは小刻みに震えていた。
「飛ばないように気を付けて食べてくださいね」
ぼくは紙コップの中身を一気にあおった。メープルとキャラメルとシナモンとバラとハニーが口の中で混ざり合った。
「あああ、……」彼女は慌てたような声を出した。自分でもいきなり何でこのような暴挙に出たのかわからなかった。
「おいしいですか? 全部いっぺんに食べるとどんな味します?」 彼女は笑いをこらえながら言った。ぼくはしばらく口がポップコーンでいっぱいで返事もできなかったが、少し余裕ができると
「なんか、……甘くて優しくて、春、って味がします」思った通りを言った。
「わ、素敵。嬉しい」彼女は笑顔で答えた。
「いまの、全部、ください」ぼくは口の中で粉砕されたポップコーンを飲み下しながら言った。
「ええっ、ほんとですか? すごく嬉しいんですけど、お客さん、お値段これなんですけど、ほんとに……」
「きょう、バイトで金が入ったんで」嘘と鼻水が同時にするりと出た。ぼくはあわてて手の甲で鼻の下をこすった。ビルの中から店長らしき中年男が顔を出した。
「蕾ちゃん、外寒いから今日はもうそこまででいいよ」
「わかりました。店長、今いっぺんに五種類売れたところです!」
「それはそれは、ありがとうございます。これからもご贔屓に」男は嬉しそうにぼくに頭を下げた。
こっちはいいから、もうちょっと早めに切り上げてやれよ。悪趣味な服を何とかしてやれよ、っていうかおまえが蕾ちゃんと同じ服着て外で売れよ。ぼくは中途半端な笑顔を返しながら心の中で罵った。
「はいどうぞ、風に飛ばされないように気を付けてくださいね。ありがとうございました」大きな紙袋をこちらに渡しながら、彼女は猫耳を風に揺らして頭を下げた。ぼくは思い切って語りかけた。
「寒くないですか、こんな場所で、そんなかっこで」
寒いに決まっている。でも、寒いでしょ、という語りかけは近すぎてできない。これがぼくの距離感の限度だった。
「寒いですね! でも、今終わりました。頑張れたから、嬉しいですよ」そして笑顔で付け加えた。「お金って、そう簡単にもらえるもんじゃないって、田舎のおばあちゃんから聞いてましたから。最後にこんなに売れて、ほんとに嬉しいです。ありがとうございました!」
ぼくはなんだか泣きたいような気持ちになった。
「この出店いつまでですか」
「開店記念なんで、あと二週間ですね」
「その間、頑張ってください。友達にも宣伝しときます」
「はいっ、ぜひ! ありがとうございます!」
袋を胸に抱えて横断歩道をわたり、振り向くと、猫耳の彼女は大きく手を振ってくれた。ぼくも手を振り返した。
ぼくは自分が涙ぐんでいるのに気付いた。
こんなことで。こんな小さなことで。
だけど今はうれしい、猫耳の彼女に小さな幸せをあげられたことが。そしてポップコーンの他にも、あったかいものを彼女から手渡されたことが。こんなふうに、ほんの小さなことが心を通して体中を温めてくれるような瞬間が、人生にはたまにあるんだ。
またバイト探そう。めげてたまるか。
ぼくは松明を手渡された聖火ランナーのような気持ちで、まだほのぼのと温かいポップコーンを袋から出してはかじりつつ、北風の中を帰路についた。
翌日、学食で味の薄いラーメンをすすっていると、友人の豪徳寺がカレーを乗せたトレイを手に隣の席に座った。
「よう鳥越。どうだった、バイトの方」
「うん。いまんとこ、全滅」ぼくはテーブルの上の胡椒をばさばさ振りかけながら言った。
「そりゃおめでとう」豪徳寺は七味を取るとぼくのラーメンに振りかけた。
「おい、バカ野郎」
「今は辛いのが食いたい気分だろ」
彼は高校一年で出会ってから今までずっと髪型が同じだ。ずうっと昔のキムタク風。そしてそれが似合わなくもない、つまり平たく言ってイケメンの類なのである。本人もよく自覚していて、女の子から声をかけられても決してテンパったりがっついたりしない。余裕から来る自然体の対応を見せるのだ。ぼくとは別人種である。
「おれの家庭教師のバイト回してやるよっていうわけにもいかないしなあ」カレーライスをスプーンでカツカツとかき込みながら豪徳寺は言った。「でお前、どういうとこ応募したんだよ。どんな感触だった?」
「家庭教師センター、塾講師、コンビニ、引っ越し、パチ屋」
「また見事にランク落としたんだな。パチ屋もだめか、名門大学生が」そういうと彼は豪快に笑った。
「戦闘能力なさそうだからだめだって。ろくでもない客ばかり来るとこだし。それと、大学二年なのにバイト経験がないってことで煙たがられるんだよ。レポートが厳しくて、一年次は大学側でバイト禁止令出してたぐらいだって言っても、あまり信じてもらえないどころかまずます煙たがられて」
「そんなこと引越し屋のバイトで言っても嫌味なだけだろ」豪徳寺は水をごくごくと飲んだ。
「そうだ、ハワイのポップコーン持ってきた」ぼくは鞄からメープルとハニーとバラのポップコーンを出して、豪徳寺にすすめた。
「なんだこれ、こんなにたくさん」
「路上販売で売ってた」
「なんでこんなにまとめて買ったんだよ」メープルのポップコーンを口に頬張りながら彼は言った。「しけしけだ。こういうのは作りたてじゃないとな」
そうだ、とぼくは心の中で膝を打った。「じゃ、作りたてを買いに行かないか」
「ああ?」
「友達にも勧めるっていっちゃったんで」
ぼくはかいつまんで猫耳の彼女の様子を話した。彼がその気になればまた彼女に会う口実になる。友達に宣伝するといった言葉を言葉だけにはしたくなかった。豪徳寺のモテ属性が少し気にはなったが、彼には現在進行形の彼女がいるのだ。
「よし乗った」ぼくの下手くそな説明を聞き終わった途端、豪徳寺は言った。「いっしょに買いに行こうじゃないか。店長が気を変えてその服を変えさせないうちに」
どうやら「アンナミラーズみたいな服」と言ったのが効いたらしい。
その日はきのうとうって変わって、ぽかぽかの上天気だった。太陽さえ出ればビルの南側のあの場所は日あたりがいいはずだ。ぼくは赤いマフラーに灰色のコートをお洒落に着込んだ豪徳寺と並んで駅の改札を出ると、まっすぐにあの雑居ビルを目指した。
屋外の販売ブースは同じ場所にあった。明るい色のポップコーンマシンの両脇には色とりどりの風船がくくりつけられ、ちょうどその一つを手に取って、彼女がお客の小さな男の子に手渡しているところだった。
「ありがとう、また来てね」彼女の明るい声が聞こえた。相変わらず猫耳帽子をかぶり、あのアンナミラーズ服だ。学習能力も思いやりもない店長だ。けれど隣の豪徳寺は満足そうににこにこしていた。
彼女がこちらを向いた。ぼくは頭を下げるか手を上げるかとっさに迷い、頭を下げながら手を上げるというどこかの部族みたいな挨拶をしてしまった。
「いらっしゃいませえ」蕾ちゃんのニコニコ笑顔の前に、ついと豪徳寺が出た。
「ご試食いかがですか? フレーバーがたくさんあるんですよ」
「関西出身?」
「え?」蕾ちゃんは一瞬きょとんとした。
「当たった?」と得意そうに彼。
「出身じゃないけど、父の故郷が岡山なんですよ。里帰りに付き合ってるうち、うつったのかも。どうしてわかるんですか?」
「今微妙に、あるんですよの“る”にアクセントが来てたから」
「えー、そうなんだ。はずかしい……」蕾ちゃんの白い頬がみるみる赤くなった。
「いやいや、美人の方言てすごくイイですよ。かえってセクシーかつほのぼのしてて、最高」
「いえ、あの、そんな……」
ぼくは彼女と豪徳寺を交互に見ながら、すっかり会話に入るチャンスを失っていた。
彼は直接掌にポップコーンを乗せてもらい、出来たてを嬉しそうに食べた。
「うん、おいしい。きょうこいつにさめたの食べさせてもらったんだけど、やっぱり出来たてが食べたくなって」
「あ、そうなんですか。わざわざ来てくださってありがとうございます、うれしいです!」
……ぼくに対するお礼はなしなのか。無意識に顔がうつむきがちになる。
「できたてを、どうですか」彼女が、気づいたようにぼくにも声をかけてきた。
「ありがとう。でも、きのう食べたから。たくさん」
「あ、……そうですよね」曖昧な表情を浮かべて彼女は会話を切った。
……このちぐはぐな空気。
豪徳寺は話し込みながら早速三種類も買い込んでいた。ぼくは黙って財布を出すと、フレーバー一覧を見た。そして、きのうにつなげるような会話を心の中で探した。
「じゃあ、あのとき買わなかった奴を。みんなおいしかったし、新しいの食べてみたいんで」
「はい、はい……ええと……はい……」
彼女は泣きそうな顔になった。どうやら何を売ったか忘れているらしい。そりゃあ無理もないことだ。キラキラした目で蕾ちゃんを見る豪徳寺の隣で、まるで子どもみたいな意地悪をしているぼく。 気恥ずかしくなって、俯いて小声で言った。
「メープル、キャラメル、シナモンと、バラに、ハニー。の、ほか」
彼女は、わかりましたそれなら、と慌てた様子で、バターとチーズ、くるみの三種類をコップに入れ始めた。
気が付けば、ぼくらの後ろには五、六人の行列ができていた。あの日は悪天候だったけど、天気が良ければそこそこ売れているらしい。いっぱし人助けした気分になっていたぼくは、ずいぶんと滑稽だったのだ。
おつりをぼくに手渡すとき、彼女は俯き加減のまま、小声で言った。
「あの、……ごめんなさいね」
顔を上げて答えようとすると、それを押しとどめるように、彼女は大きな明るい声で、ありがとうございました! と言い、ぼくの後ろの豪徳寺が、また来ます! と元気に答えた。
約束の再訪は、あっという間に終わった。
「すっごい可愛い子じゃないか」豪徳寺が振り向きながら言った。「なんで最初にそう言わないんだよ」
「可愛いから見に行こうとか、そういう話じゃなかったんで。友達連れてくと約束しちゃったから。それだけ」ぼくは淡々とした風を装いながら言った。
「おれならそんな約束しないな。それ本音か?」
「そうだよ」
「人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためには、それと同等の代価が必要になる。知ってるか鳥越」
「知ってるよ、鋼の錬金術師の等価交換のセリフだろ。なんで今」
「そうか。よし、明日も来よう。あさっても」
「って、今付き合ってる彼女は」
「先週別れた」豪徳寺はバラのポップコーンをかじりながら笑った。
駅近くの公園で、赤いマフラーの道徳時と連れ立って歩く彼女を見かけたのは、それからわずか三日後だった。
彼をあそこに連れて行けばどうなるかなんて、ある程度分かっていたことだ。ぼくは、ただ彼女の笑顔が見たかったのだ。自分が選んでもらえるとか、彼女をエスコートするとか、そんな大それたことは考えていなかった。だから、これでいいんだ。
それでも、鈍い痛みはしばらく胸に残った。
あのとき、過剰な期待をしていたつもりはないけれど、きのうはありがとうとか、ほんとに連れてきてくれたんですね、という会話をどこかで心待ちにしていなかったと言えばうそになる。それすらもらえなかった。一瞬にして豪徳寺にみんな持っていかれた。
当然だ。ぼくは勇気という対価を払わなかった。
春休みに入って、ぼくはウェイターのバイトにありついていた。
駅前の、純喫茶ローズ。彼女と会う前、バイト先で拒否られ続けてしょんぼりと俯いてクリームソーダを飲んでいた店だ。赤いビニールレザーのソファに、壁の飾り棚には鮭を咥えた熊の木彫り。 ああいった昭和な店は、嫌いではない。
あれからなんとなくまた店にいって、ウインナコーヒーを頼んで棚の漫画を数冊テーブルに置いたら、かちゃりとおかれたコーヒーの受皿に、いためたウインナが置いてあった。ご丁寧に楊枝が刺してある。
「?」
奇妙に思いながらも、こういう店もあるのかとおとなしくかじっていたら、厨房の中で赤茶けた髪のおばちゃんが笑いをこらえているのが見えた。思わず睨んだら、厨房の中からおばちゃんが声をかけてきた。
「おいしい?」
「おいしいです。すっごく」ぼくは意地になって答えた。
「少しは元気出た?」
「え?」
「最初に来た日、噛みつくような顔してソーダ睨んでたでしょ。そのあとひと飲みにしたでしょ。試練に耐えてる青少年はわかるのよ、だてに年食ってないもの」そういうといわくありげな顔をして厨房から出て、テーブルの横に立ち、エプロンで手を拭きながら言ったのだ。
「なんか相談に乗れるなら乗ってあげましょうか、この通り店も暇だし」
「うーんと……」
若い女子は苦手だけれど、こういう年齢のおばちゃんだとあまり気遅れはしない。ぼくはバイトの面接に落ちまくっていることを正直に話した。家庭環境を聞かれたので、小学校のころ母親を亡くして父と二人暮らしなこと、自宅から大学に通っていることを手短かに説明した。
「猫は好き?」話し終えると、おばちゃんは唐突に聞いてきた。
「え、まあ、好きですけど」
すると冷蔵庫とかビールケースの裏に回ってごそごそしたあと、ものすごく太った白猫を抱き上げて出てきた。
「じゃあ、この子の世話とウエイターお願い。この子いつもこうして寝っぱなしなんだけどね」猫はにゃあ、と迷惑そうな太い声を出した。ぼくは近寄ってその喉を撫でた。
こうしてあっさりとバイトの件は解決したのだ。
困るのは、半透明の入り口のドアを通して向かいのビルが見えることだった。その外には、あのポップコーンマシンと、そしてピンクのミニスカートの彼女がいる。
遠くで猫耳がひらひらするのを見るたび、ちりちりと胸の奥が音を立てた。見るのも見ないのも不自然に思え、早く出店期間が終わってくれればいいと思い、いやいつまでも見ていたいとも思った。
ポップコーン店の客の数は確実に増えていった。そして明らかに男性客が多い。あのアンナミラーズ服のせいだ。相変わらずひどい冷え込みの日にも、あの服を着せられている。
「あの店がどうかしたの?」机を拭きながら外を見ていたら、背後からおばちゃんに声をかけられてしまった。いえ、と一度は言ったけれど、何となく誰かに思いを預けたいような気がして、できるだけ淡々と、今までのことを話した。
膝の猫を撫でながら聞いていたおばちゃんは、ははん、というと先を続けた。
「そのイケメン君と彼女の付き合いは、長くは続かないわね」
「どうしてですか」ぼくは思わず問い返した。
「短時間で手に入れたものは短時間で失うものよ。浅い下心が満足したなら、それで終わりでしょ」
「浅い下心……」
「一見女に不自由してなさそうな男の子ほど、近距離でラストまでたどりつこうとするものよ」懐から煙草を取り出すと、火をつけながらおばちゃんはずけずけといった。「ぼくちゃんには、性欲ってものはないの?」
あまりのもの言いに、ぼくは一瞬言葉に詰まった。
「いやその、なくはないですけど……」
「女の子と付き合ったことぐらいあるでしょ」
「いや、ないんです」
「一度も? あらあら、まあ」おばちゃんは奥に引っ込んでオーディオをいじっていたが、やがて店内に中森明菜の「駅」が流れはじめた。
「やめてくださいよ」今にも消え入りそうな声で歌われるモロな失恋ソングに顔を熱くして思わず抗議すると
「いい歌でしょ。ゆっくり初失恋に浸るといいわよ」おばちゃんは意地の悪い笑みを浮かべて厨房に引っ込んだ。
その歌をバックに窓の外を見ている自分がギャグのように思えて、ぼくは外を見るのをやめてしまった。
試食いかがですかー。というあの可愛らしい声が脳裏によみがえった。
試食……。
ポップコーンの出店期間最後の日、純喫茶ローズはお休みだった。
ぼくはなんだかそわそわと尻が落ち着かず、家を出て電車に乗り、ポップコーン店に向かった。家への土産にポップコーンを買うだけだ、と自分に言い訳をしながら。
出店はあったが、彼女の姿はなかった。
別の女の子が二人でやっている。そして今日だけ、どういうわけか明るい色のあったかそうなダウンジャケットを着ている。店内を外から覗いて見ても、彼女の姿はなかった。
ぼくは思い切って近寄ると、ハニー味のポップコーンを一つ買い、ついでに売り子に尋ねてみた。
「あの、昨日までここで売ってた売り子さんは……」
丸顔にメガネの子は、意味ありげに隣のやせ形の店員と顔を見合わせた。
「風邪ひいて、相当熱が高いとかで、お休みです」
ああ糞、とぼくは思った。……わかってたことじゃないか、こうなるのは。今日に限ってこんなふくふくのジャケット着せやがって!
「この出店が終わったら、店内の仕事に戻るんですよね?」
「いえ、彼女は特別宣伝期間だけのバイトなので、今日までの予定だったんです」そう言うと、メガネ女子は含み笑いをしながら言った。
「その質問、お客さんで八人目ですよ」
ぼくは迷いに迷った挙句、豪徳寺に電話した。もう後悔はしたくなかった。
「元気? ちょっと相談に乗ってほしいんだけども」
『相談ってなんだ。つか、バイトの方どうなった』奴はいつもと同じ調子だ。
「レトロな喫茶店のウエイターやってる。猫の世話付きで」
『おまえらしいな。で、相談ってなによ?』
少し言いよどんだ後、思い切って聞いてみた。
「ぶっちゃけて聞くけど、ポップコーンの彼女と付き合ってるよね」
返事までにしばらく間があった。
『まあちょっとだけ。でも、もうだめかもな』
「だめ?」
『泣かれちゃってさ。どうも考えてたよりややこしい子かな』
ローズのおばちゃんがいった、性欲、という言葉がキーワードのように浮かび上がる。
なにがあった、と聞きたい気持ちをぐっと押さえて、別方向から聞いてみた。
「……さっき店に行ってきた。風邪ひいて休んでるって」
『あの環境じゃな。仕方ないかな』豪徳寺の答えは淡々としていた。
「見舞いとか行かないの?」
『んー。もう、そういう関係でもないし』
しばらく間があって、豪徳寺は続けた。
『待ち合わせの場所に行くだろ? するとこっちの目の前で、声かけてきた別の男についていこうとするんだ。それが二回。で、引き止めると、ごめんなさい、ちょっと間違っちゃったとか、あなただと思ったって。そんな言い訳があるか、普通じゃないだろ? そう言ったら、泣きだした。多少頭のネジが緩い子かもしれないな』
……頭のネジが緩い?
どうしてもそうは思えない。何か事情がありそうだ。しばらく考えた後、ぼくは聞いた。
「もう会わないのか」
『ああ、多分』
ぼくはすっと息を吸い込むと、思い切って言った。
「じゃあ彼女のメアドと電話番号教えてくれないか」
『は?』
唖然とした気配の後、くくく、というような押さえた笑い声が響いてきた。だろうな、でも構うものか。くくくく、はそれからずいぶん長く続いたと思う。
『おまえさ、なんなのそれ。普通それはないぞ』笑い終わると奴は言った。
「ないだろうけど、今聞かないと絶対後悔すると思って」
『そうか。いやあ、そうか。お前がな……、そうかあ』なにか感心したような様子で豪徳寺は繰り返した。『わかったよ、お前の初めての勇気にここはひとつエールを送ろう。ま、連絡先の横流しなんてルール違反だけど、ここはおれが常識外れになってやるよ。お前以外だったら駄目だけど、生まれてこのかた肉を食ったことのない超草食獣だから問題はないだろうし』
「ありがとう。感謝する!」
ため息交じりに奴は言った。
『……おまえって、ほんとプライドないのな。見事だよ。連絡先はメールで送る。住所は知らない。じゃあ、頑張れ』
ぼくは届いた番号をメモし、半日その数字を睨んで過ごした。もし唐突にかけたとしても、誰だかわからない番号からの電話なんてとるとも思えない。でも、留守録に入れることはできる。基本的に、メールは嫌いだ。最初に使うのは自分の声でなくては。
というより、同じ日にポップコーンを買った客の片方と付き合い、別れた途端もう片方から電話が来るなんて、彼女はどう思うだろうか。だいたいぼく以外に八人もの客が彼女の行方を気にしていたという、その高い競争率の中に自分が割り込んで何とかなるとも思えない。
いや、考えていたらなにもできない。そうさ、対価を払わなければ何物も手に入らないんだ。プライドなんざくそくらえだ。
家では緊張するので、発泡酒を二缶買い、お気に入りの公園に向かった。
雑木林をさまよって、夕暮れのベンチに腰掛けた。眼前には、暮れていく池にしだれ落ちる桜の老木が見える。花のつぼみはまだ固い。腐りかけた杭の先端に、ゴイサギがとまって下を向いている。
発泡酒を立て続けに開けると、ふわりと酔い心地が全身を包んだ。ぼくはその勢いでスマホを取り出し、対価だ対価!と自分に言い聞かせながら番号を打った。
……呼び出し音だ。もう後戻りできない。
どうか出てくれ、という思いと、出てくれないほうがいい、というおそれが同時に押し寄せた。四つ目を数えたとき、呼び出し音が止んだ。
『はい?』
声を聴いた途端、言おうと思っていた言葉ぜんぶに羽が生えて頭の中から飛び去ってしまった。ぼくはあわあわと立ち上がり、ベンチの背後の藤棚の下をうろつき始めた。
「あのぼくです、いや、あのポップコーンを一緒に買った豪徳寺の友人です。あの、わかりますか。たくさん買った、一緒にたくさん買ってたやつです。電話番号は彼に無理言って聞き出しました、すみません。あの二度、二度とはかけませんから、一度だけですから、あぼくの名前は鳥越、鳥越聡志です」
そこまで行って息継ぎすると、電話の向こうで小さく噴き出す声が聞こえたような気がした。
『……なんのご用ですか』
冷静な声が帰って来た。いや、ほんの少し笑いを含んだ声だ。わずかな希望をそこにつないだ。
「あの、ポップコーン買おうとお店に行ったら姿が見えなくて、風邪をひいたと聞いたものだから、心配になって。あの、大丈夫ですか」
言い終わるか終らぬうちに電話の向こうで立て続けに咳が聞こえた。ぼくは慌てて言った。「あの、大丈夫ですか、迷惑なら……」
『いえ、大丈夫です』彼女はか細い声でそれだけ答えた。ぼくは通話を切られないよう、必死で言葉を続けた。
「ぼく、ぼくはすごくお店の人に腹たててました。あんなに薄着で外に立たせるなんてと。でも一番腹を立てたのは自分に、です。あのときしていた自分のマフラーを貸すとか、店長に一言いうとか、なにかできることはあったはずなんで、でもどれもしなかった。結局何も。でもぼくはあのとき、あなたからポップコーン以外にもたくさん、あったかいものをもらったんです。一生懸命働いてるその姿だけで、寒いのにこちらに向けてくれた笑顔だけで、ぼくだけがあったまった。だからそれをこれから、すこしでも、あなたに……」いやまて、具体的に何をどうしようとしているのか肝心なところが抜けてる。これじゃ彼女は答えようがない。ただ焦ってがっついてるように取られるぞ。落ち着け、自分。ぼくはひとつ深呼吸すると、トーンを落として言った。
「あの、一人暮らしですか? ちゃんと飲んで、ちゃんと食べられてますか?」
『はい、一人です。でも、大丈夫ですから』
「ぼくなんでも持っていきますから。玄関先においてそれで帰りますから。いるものがあったら言ってください。大丈夫ですから!」
何が大丈夫なんだよ、と自分で自分に突っ込みを入れる。すると、意外な言葉が返って来た。
『ほんとに、……甘えていいんですか?』
「ほんとにほんとです! 甘えてください!」ぼくは勢い込んだ。
『じゃあ、言っちゃおうかな。ポカリと、レトルトのおかゆ。それと、野菜ジュース……』
「わかりましたっ! ポカリとレトルトのおかゆと野菜ジュースですね!」
そのあと彼女から聞いた住所は、意外なぐらいあの喫茶ローズから近かった。ぼくは浮き上がるような気持で電話を切ると、近くのスーパーに飛び込んだ。
あれほど幸せな気持ちで買い物したことはない。今買っているこれらのものが、彼女の体を巡り、元気を与え、血と肉になってくれるんだ。ぼくは今彼女に、必要とされている。さらにプリンだのヨーグルトだのごちゃごちゃ買い足すと、ぼくはバスに飛び乗り、彼女の住まいを目指した。
スマホのナビを手にたどり着いたのは、静かな住宅街の中の、半分が蔦に埋もれた古い洋館だった。石造りの門の脇には大きな桜があって、所々蕾がほころんでいる。入り口のドアは木製の観音開きで、玄関前のたたきから総タイル張りだ。ドラマか何かで使われそうな風情あるつくりだ。
ポストの名前を確認する。尾花沢。電話で聞いたのと同じ苗字。女性の一人住まいにしては不自然な広さだ。
玄関わきのインタホンのボタンを押す。
『はい』
ああ、彼女の声だ。
「あの、ぼくです。あの、鳥越……」
『鍵開けてありますので、どうぞそのまま二階へあがって』
観音開きの扉を内側に開ける。ドアに穿たれた丸いガラス窓から夕方の光がぼんやりと廊下を照らす。玄関の床も古風な丸タイルがしきつめられてあり、上がり框にはモスグリーンのスリッパが一つ置いてあった。目の前の階段には古風な擬宝珠つきの手すりがある。壁には、夕暮れの針葉樹林から鳥たちが飛び立っていく大きな青い絵が飾られてあった。
スリッパをひっかけて家に上がり、ぎしぎしと鳴る階段を踏む。 まだ何かが非現実的で、唐突に誰かに揺り起こされたらすべては掻き消えるんじゃないかという心もとなさがあった。
踊り場から上を見上げて、ぼくは思わず「あ」と声を上げた。
階段の上に、彼女が立っていたのだ。
今時珍しい「どてら」を着ている。
彼女は蒼白な顔でかすかに笑い、少し頭を下げた。ショートヘアが、汗か何かで顔に張り付いていた。屋根なり天井から下がる鉄でできた花のような照明の、鈍い灯りの中で、その姿は売り子をしていた時よりずっとたよりなげで、きれいだった。鳩の柄のどてらを着ていても。
「鳥越、聡志、さん」一つ一つ区切るように彼女は言った。
「そうです」階段を上がりきると、ぼくは言った。「起きて来なくても…… 熱が高いんでしょう」そして買い物袋を差し出した。彼女は俯き加減に袋を受け取ると、緊張気味に言った。
「ありがとうございます。お代、いくらでしたか」
「とんでもない、お見舞いです。熱が高いんでしょ、起きて大丈夫なんですか」
「もうだいぶ下がったの。でも、おなかがすいて」彼女は情けなさそうな顔で笑った。
「コップとかお皿どこですか、いろいろすぐ飲んで食べられるようにするから、それからすぐ帰りますから」見渡せば、二階は屋根裏のように解放された空間になっていた。屏風のような衝立が空間の中央にある、あそこの向こうが多分ベッドスペースだろう。衝立の横には、なぜか扇風機。
壁一面に大小の、花々や湖や森の絵が飾られていて、イーゼルや足踏みミシンが雑然と置いてある空間は、部屋というより古色蒼然としたアトリエに近い。それでも女性らしい生活感があるのは、布で手作りされたかに見えるカフェカーテンやテーブルカバー、ランプシェードが部屋に柔らかさを漂わせてくれているからだ。観音開きの窓辺には、たくさんの観葉祝物が置いてあった。
この広い空間に暖房は電気ストーブひとつ。部屋の中は、なんだか寒々としていた。
「きたなくしてるでしょ」彼女は恥ずかしそうに言った。
「いや、すごく趣味いいですよ。でも広い家ですよね。ここに一人で?」
「母は画家で、今はパリで個展開いてる。父は通信社のロンドン支店にいて、それぞれバラバラで暮らしてるから。ここはもともと母のアトリエだったんだけど、好きに使っていいって」
「なんか、……映画みたいな、すごい家族ですね」ぼくはあたりを見渡しながら、思った通りを言った。
「小さいころから一人で生きる努力をしろって言われてきたの」
彼女はぼくを、衝立の向こうの二人掛けのソファにいざない、自分はその正面のベッドに座った。ぼくはサイドテーブルの上に伏せてあったコップにポカリを注いだ。彼女はのどを鳴らして、おいしそうにそれを飲んだ。せわしなく動く細いのどを眺めながら、ぼくは単純に、幸せだった。
「おかゆあっためますね。電子レンジありますか」
「北の窓際に流しがあってそのそばに……」
一部屋で何でもできる空間だった。白い陶器の皿におかゆを入れてレンジに入れスイッチを入れる。買ってきたシソ昆布を小皿にあける。大根ときゅうりの糠漬けをトントンと切って小鉢に乗せる。湯気の立った皿を彼女の前に運ぶ。お礼を言って、彼女がスプーンでふうふうしながら食べる。ぼくはもう言葉もないぐらい、満足だった。 何が一番うれしいかって、彼女に信頼を寄せられているこの事実だ。無害だと思われ、安心される。それぐらいしか、たぶんぼくには取り柄がないのだ。
「ああ、おいしかった」一気に食べ終えると、彼女は笑顔を見せた。
「お皿洗ってきますね」ぼくは小さな盆に食器を重ねた。
「待って。その前に、言いたいことがあるの」
小動物のような彼女の濡れた瞳がこちらを向いた。なんとなく、わけありなのだろうなという気がしてはいた。ぼくは、はい、と生真面目に答えて盆をサイドテーブルに置き、ソファに座りなおした。
彼女は膝の上の両手をもみしだくようにして下を向き、それから横を向いた。十秒ぐらいの沈黙があった。
「相貌失認、て、知ってる?」
か細い声で、彼女は言った。
「そうぼう……しつにん?」聞き覚えのない単語を、ぼくは繰り返した。
「知らないな」
「人の顔が認識できない、覚えられない、そういう障碍。わたし、それなの」
ぼくは思わず眼前の彼女をまじまじと見てしまった。視線を落としたまま、少しカーブした睫がふるふるとふるえている。
その瞬間、ぼくの頭の中でいろんなことが一気に腑に落ちた。
二度目に店に行ったときの、ちぐはぐな対応。ごめんなさいね、という言葉。豪徳寺が語ったエピソード。
……引き止めると、ごめんなさい、ちょっと間違っちゃったとか、あなただと思ったって。そんな言い訳があるか?……
「何度会っても、ひとの顔が覚えられないんです。
服の色とかメガネとか髪型とかで、記号みたいにして覚えても、着替えられたりメガネ外されたりするともう、全然わからないの。
大学に進まなかったのも、高校の友達関係で散々嫌な思いしたから。
勉強して資格取って働いてまっとうに生きて行こうとしたんだけど、バイトすらうまくいかなくて……。毎日会ってる人にエレベーターの中で声かけられて、ご無沙汰してます、と言ってしまったり、上司が分からなくて目の前を素通りしたり、どちら様ですか、と言ってしまったり。ふざけてるとか無礼な子と思われて、……何度もしつこく名前を確認しては呆れられて……」
ぼくは黙って聞いているしかなかった。
そんな障碍が、この世にあるんだ。
見ただけではわからないから、ずっとやっかいなんだろう。冷たくて気まぐれな子だと思われてしまうのだろう。今まで、どんなに辛くて不便な思いをしてきたことだろう。
「だから、短期バイトを転々としてきたの。今度のポップコーン店も、一時的なお店でお菓子を売るだけなら大丈夫と思ったんだけど、たくさんの人にまた来ます、と言われて、嬉しいんだけど、それでもう誰かわからなくなって……
あなたにも、悪いことしちゃった」
「そんな全然。ちっとも悪くないから」ぼくは慌てて言った。
「昔からこうだから、自然と臆病になって、深い人付き合いを避けるようになったの。でも、その時その時のお仕事は精一杯、大事にしようと思った。あそこの店長はわたしの事情を知ったうえで雇ってくれたから、何でも言われた通りにしようとがんばったんだけど……」
それであの薄着か! 好意からじゃない、彼女の弱点を利用しただけじゃないか。ぼくはニコニコ顔の店長を思い出して、さらにむかむかしてきた。
「でね。……豪徳寺君にも、悪いことをしちゃった」
「いや違うよ。そんな、なんでいちいち悪いと思うんだ。きみはちっとも」言いかけて、彼女が涙ぐんでいることに気づき、ぼくは絶句した。
「言い訳はできなかったけど、ごめんなさいって、いっておいて。毎日お店が終わるまで寒い中待っていてくれたのに、いろいろ差し入れもくれたのに。すごく決心してお付き合いを始めたのに。わたし顔が覚えられなくて、失礼なことばかりして怒らせちゃったの。でも、説明する勇気がなかった……」
ぼくは口をつぐんだまま、彼女の頬が紅潮してゆくのを見ていた。
「彼が、好き?」
ぼくはおずおずと聞いてみた。彼女はすぐには答えなかった。
「わからない。あんまりやさしくしてくれたから、思い切ってちゃんとしたお付き合いをしてみたら、ちゃんと認識できるかと思ったの。自分の彼を、彼氏だと。思いがこもれば、わかるかなって。わたし、勝手だった。やっぱりだめだった……」
二人で言葉を飲み込むその空間に、柱時計のかっちかっちという音だけが響いた。静寂が耳をつんざくレベルになったころ、ぼくは、口を開いた。
「じゃ、少しぼくの話もさせてもらえるかな」
「……うん。なに?」彼女は小声で言って、少し怪訝そうにぼくの顔を見た。
「ぼくが小学校三年のときの話なんだ。興味ないかもしれないけど、最後まで聞いてほしい。
その日のことはよく覚えてる。発端は『しらたき』だった。
鍋の用意をしていた母親が、あらしらたき買い忘れたわ、て言って、でもいいわよねしらたきなんてなくても春雨でも、と乾物入れをゴソゴソし始めたら、ポテチをつまみに晩酌していた父親が怒りだしたんだ。しらたきと春雨は違う。買ってこい!って。
父はしらたきとか蒟蒻の類が大好きだった。
どっちでも似たようなものでしょ、て母親が言うと、全然違う。ここで待ってるから買ってこい! って。
おなかすいたから早くしてよー、と催促したのは、ぼく。
しょうがないわねえ。じゃあ自転車で買ってきますよ、って言って、母は自転車に乗って夜の道を近くのスーパーに出かけた。そして酒酔い運転の車にはねられて即死した」
彼女ははっと瞳を広げてぼくを見た。ぼくは目線を外して続けた。
「ぼくと父だけが知ってる。この世でたった一人の母を死なせたのは、おやじとぼくなんだ。
棺を前に涙した親戚の誰も、しらたきの一件は知らない」
彼女は黙ってぼくを見つめている。困ったことに、何故今自分がこれを語り始めたのか自分でもよくわからなかった。ぼくはきもちの流れのままに続けた。
「母親がいないせいかどうか、ぼくは女の人に対して、まともな恋愛感情が持てないところがあるんだ。好きになっても、守ってほしいとか温めてほしいとか、そういう、受け身の欲求しか出てこない。自分から女性を幸せにしたいとか、そういう気持ちが生まれるまで、恋なんて無理だと思ってた。
でも、そう、失礼かもしれないけど、今きみを見ていて、初めての気持ちが生まれてるんだ。きみを守りたいし、幸せにしたい。なってもらいたい」
しゃべっていると、全身が震えてきた。自分の口から出てくる言葉で、逆に今の自分を知る、そういう状態になっていた。
この言葉を与えてくれているのは、眼前の彼女なのだ。
彼女はじっとぼくの目を見ていたけれど、声のトーンを落とすと、呟くように言った。
「……わたしは、同情されているの? だからそんなことを話してくれたの?」
「え……」
「わたし、あなたが考えてるより、きっとずっとめんどくさいよ。わたし自身がいつもさびしいから、あまり寄ってこられると、ひとでなしになっちゃうかもしれない」
未知の感情が頭を混乱させる。ぼくはいま何を言われているんだ? がらがらと頭の中をかき回して言葉を探したけれど、口から出てきたのは、自分でも予想しない言葉だった。
「同情しちゃ、いけない?」
彼女の目が驚きに見開かれた。
「ぼくは豪徳寺と違ってこんな外見だし、魅力も特にない。もてたこともない。普通なら、きみみたいな人と対等にしゃべる機会だってないかもしれない。
同情していると思われたならそれでいい。同情ぐらいさせてください。そしてぼくを憐れんでくれても構わない。そんな立場を利用してしか、ぼくは気持ちを打ち明けられない情けないやつなんだ」
「……」
「ああ、今思い出した……、もう一度会ったら必ず言おうと思っていた言葉があるんだ」
ぼくは彼女の次の言葉が怖くて、切れ目なくつづけた。
「あなたにもらった暖かいものが、今もぼくの体を温めてくれています。
だから、お返しに来ました。どうぞ、ぼくのありったけを受け取ってください。
ひと目見たときから、……好きでした」
彼女の頬がますます紅潮していった。ぼくの頬も負けずにリンゴみたいに真っ赤になっていたと思う。いたたまれず、ぼくは膝の上で握りしめた両手に視線を落とした。
彼女は震える唇を開いた。
「さっきも言ったけど、わたし、……今寂しいから、すごく落ち込んでるから、あなたの気持ちを利用しちゃうかもしれない。それでもいいの?」何か追いつめられたような口調だった。
「いいよ、利用しても。ぼくは後悔しないから」
「わたし、あなたのことが好きかどうか、まだわからない。いい人だって思うけど、それ以上は……」
「いいんだ、そんなこと。すべてはこれからでいいんだ」
「どこかで待ち合わせても、わたし、あなたの顔をきっと覚えていない」
「そしたら何度でも自己紹介するからいいよ。こんにちは、ぼくは鳥越聡志です。鳥越、聡志です」
彼女は泣き笑いのような顔になった。
「電話で聞いたとき、なんだか、選挙演説みたいだと思ったわ」
からんからんとドアチャイムが鳴る。
「来た、来たわよ。あのかわいい子でしょ? 蕾ちゃん」おばちゃんは小声で言うと、いらっしゃいませえ、と入口に向けて声を張り上げた。
「お約束の一時ぴったりね。さあ、注文を取りに行って」
窓際のテーブルに座って、彼女は不安そうに窓の外を見ている。薄いピンクの春物のコートが、ショートカットによく似あっている。あ、コートを脱いだ。下は眩しいような真っ白なセーターだ。
猫を抱いたまま、おばちゃんはBGMに、荒井由実の「海を見ていた午後」をかけ始めた。これも悲恋ソングじゃないか。
「もうちょっと幸先いいのを……」と文句を言うと、
「あなたが最初に店に来た時もこの曲かけてたのよ。無意識に、歌詞に出てくるソーダ水頼んだでしょ。あの子はどうかしらね、楽しみね」おばちゃんは愉快そうに言った。
ぼくはメニューと水を手に彼女の席に向かった。バイトの件は内緒にしてある。まさか、待ち合わせの相手が注文を取りに来るとは思っていないだろう。
ユーミンの歌声が静かな店内に響き渡る。
「ご注文お決まりですか」
彼女は手元のメモ帳を見ながら、こちらとは目を合わせずに答えた。
「あの、クリームソーダを」
ああ、シンクロだ。
そのとき、小さな手の中のメモ帳に、ぼくの目は釘づけになった。
ボールペンで描いたつたない似顔絵が、そこにはあった。
短髪、きょとんとした目、にっこりわらった口元の、男の顔。横には丸まっこい字で「とりごえさとしくん」と書いてある。
これがぼくなんだ。彼女の記憶の中の、ぼくなんだ。
覚えておこうと、描いてくれたんだ。
……ああ、すごくいい奴そうじゃないか。すごくやさしそうじゃないか。
その顔を懸命に見詰める彼女の胸の内を思うと、ぼくは何か熱いかたまりが胸をせりあがってくるような心持ちがした。
ひとり暮らしのあの家には、扇風機と小さなストーブと、たくさんの絵があった。
彼女一人だけの淋しい空間。季節感のない部屋。その中に、ぼくはこれからはいっていく。そうして、春のスイッチを押すんだ。
いつまでも立ち去らないボーイを不審に思ったのか、彼女が目を上げた。
その目が、あ、という小さな声とともに見開かれた。
ぼくはにっこり微笑みながら言った。
「こんにちは。鳥越です。鳥越、聡志です」
「うん、わかった。わたしいま、ちゃんと、気づいたわ!」
あの日、彼女から受け取ったのと同じ灯りが彼女のうちにともり、やわらかな花弁が静かに花開いていくのを、ぼくは胸を震わせながら見つめていた。
彼女の家の門の桜は、もうじき開くだろう。
五年ぐらい前に書いた作品です。
このころは、道を歩いて庭先の花を見るだけでいろいろなストーリーが浮かんでいました。今は言葉が自分の中に沈んでしまい出てこられない状態です。推敲を重ねてかなり手を入れましたが、やはり文章から離れたくないなと思いました。