スリル
ヤネック王は住民を避難させ始めていた。一部は姫を置いて逃げることはできないと拒否したが、姫からの願いでもあることを告げるとしぶしぶ従った。
街を出る前に姫を一目見ようと王宮へ寄っていく者もいた。彼らの期待に応えるため、姫は病弱な身体を押してテラスに出て手を振った。
住人達にもネフタールの噂を知る者は多く、もしかしたら彼女の姿を見るのは最後になるかもしれないとわかっていてか、滂沱の涙を流していた。
やがて控えていた侍女に促されて、姫は宮殿へ戻った。無理が祟ったのか、顔から血の気が引いている。
エリサ姫はソファに座って胸を押さえていた。痛むらしい。侍女が頓服の薬を飲ませるといくらか具合がよくなって、血の気も戻ってきていた。
「あの、街の人はどうなるのでしょう」
エリサ姫は侍女に聞いた。
「王弟様が治める隣町をはじめ、近隣の街や村へ逃れることになっております」
住み慣れた街を離れるのはやはりつらいだろう。それが自分のせいであることを意識したのか、姫の端正な顔が曇った。
昼食は宮殿の大食堂でとることになっていた。そこで特に腕の立つ人たちと会う予定だった。
ネフタールの予告からこっち、ほぼ姫専属の護衛となっている騎士団長アクトとともに食堂に入る。ヤネック王を含めた四人はすでに着席していた。あとは護衛の騎士と給仕たちだけだ。姫は王の隣に、アクトはその隣の席に着いた。すぐに食事が運ばれてきた。
「やあ、皆さま。この度はエリサ姫を守るためご足労頂き、大変感謝する」
ヤネック王がお辞儀をした。横のエリサ姫、その隣のアクトも頭を下げる。
「各々方、姫に自己紹介をお願いします」
アクトが王の言葉を継ぎ、カーンが立ち上がった
「ルイカルネ級冒険者、カーン・カープァルです。以後、お見知りおきを」
数日後には死んでいるかもしれない可能性は知っているだろうに、あるいは他の言葉を知らないのか、しかし誰も笑いもせずにカーンが礼をするのを見ていた。
「初めまして、カーン様。よろしくお願いします。ところで、紫……ルイカルネ級、というのは」
「冒険者の等級の一つです、姫」
エリサ姫の疑問にアクトが答えた。
「お強いのですか」
「上位等級ですからかなりのもの、と言えます。ルイカルネ級の条件は一般的には普通の兵士千人に相当することです。文字通りの一騎当千ですね。もちろん最低限の話ですから、同じルイカルネ級でも上位の者は数千、あるいは一万の兵に匹敵します。カーン殿は間違いなく、上級でしょう。こちらにいらっしゃる方々は同等の力を持っているものと存じます」
「いやいや、王国一の騎士、アクト殿にはかないませぬ」
カーンが武骨な顔立ちに苦笑を浮かべてから、食卓を挟んだ仮面の男にちらりと視線を向けた。王や姫の手前、露骨にではないが警戒しているらしい。
「期待していますよ、カーン殿」
「必ずご期待に沿える働きをして見せましょう」
カーンが椅子に座り直してから、仮面の男が静かに立ち上がった。
「オルソン。ただのオルソンです」
カーンの巨体とは対照的に、オルソンは痩せ気味だった。
「……生まれつき醜い顔つきゆえ、仮面のまま挨拶する非礼をお詫びしたい」
室内でも仮面はおろか、フードも外していなかった。
「あなたは、先日お会いした……オルソン様も、冒険者でらっしゃるのですか」
「そんなところです」
アクトとカーンは無表情でそのやり取りを聞いていた。
「儂とは何度も会っておるが、改めて自己紹介しよう。魔術師サルカルじゃ」
白く長い髭を蓄えた老魔術師が一礼した。
「えぇと、サルカル様は治癒師では……」
意外そうにエリサ姫はサルカルを見つめていた。
「うむ、傷ついた者を癒すのも魔法の仕事じゃ」
サルカルは皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして微笑んだ。彼の名前を聞いてから、カーンの表情は何かを思い出すようなものになっていたが直接話しかけるようなことはしなかった。
「さあ、食事が冷めてしまう」
食事を始めた。やがてカーンが全員を見まわしてから言った。
「ここにいるだけで全員なのですか」
アクトが澄ました顔で答えた。
「いえ、あともう一人、"天弓"シャーリエル殿にも連絡を取っているのですが、まだ返事がありません」
「彼女も、いらっしゃるのですか」
エリサ姫の儚げな美貌が憂いの色を帯びた。まるで親しい友人を気遣うように。
「彼女のことを知っているのかね」
サルカルが左の眉を持ち上げて尋ねた。
「はい、友人ですが……そんなにすごい方なのですか」
「実際に会ったことはないがの。ものすごい腕だとは聞いておる。なんでも一キロ先の怪物の目を一撃で射抜いたとか」
「あまりにも若くしてその強さですから、転生者との噂もありますな」
カーンが補足した。
「きっとお会いしたら驚きますよ」
面識があるらしいアクトが含み笑いを浮かべた。
「しかし、来れないのなら意味はない。残念だが期日が来たら彼女抜きで始めなくてはならないだろう。ネフタールが待ってくれるとは思えぬ」
重々しく言ったのはヤネック王だった。その場にいる全員の顔に楽観はなかった。
「お食事中失礼します、お会いしたいという方が見えています」
「今からか。いったいどこの誰だ」
食堂にやってきた兵士にヤネック王が聞く。
「ノルタンドのハルマン王子です」
「またあやつか」
ヤネック王の眉間に皺が寄った。アクトもその美貌をかすかに歪ませている。
「ノルタンドというと北の大国ですな。ハルマン第一王子が自ら兵を率いてこられたか」
感心したように言ったのはカーンだが、ヤネック王は渋い顔だ。
「ハルマン王子は立場を利用して、ずっとエリサ姫に結婚を迫ってきておる。今回も恩を着せに来たのだろう。奴は何人連れてきた」
兵が答えた。
「それが……わずか数人の手勢のみです」
「なんだと」
「ただ、"天弓"シャーリエル殿を連れてきた、と言っておりまして」
「嫌な方に先に雇われてしまったみたいですね」
アクトの美貌が嫌悪感を露にしていた。
「仕方がない、一度会おう」
ヤネック王はエリサ姫に食堂にいるように言った。兵には戻ってくるまで絶対誰も入れるな、と命令して出ていく。カーンたちもついていく。
広間で若い男がアフトーサの兵と押し問答をしていた。背後には彼の部下だろう、ノルタンド軍の鎧を着た数人の兵士が控えている。
「たかが兵卒ごときが、無礼であろう。余はノルタンドのハルマン王子だぞ」
若い男がアフトーサ兵に掴みかからんばかりの勢いで怒鳴った。身に着けた煌びやかな甲冑は傷一つなく、腰に下がった剣にも豪奢な装飾が施されている。細い体躯は軟弱さを感じさせ、垂れた目には強者の持つ風格は微塵もない。
「ようこそお越しくださいました、ハルマン王子」
廊下から広間に入り、ヤネック王が言った。歓迎の言葉は、しかし声音から本意でないことが誰にでもわかった。
「おお、ヤネック王か。姫は、エリサ姫はどこにいる。余を出迎えてはくれぬのか」
「先ほどからずっとこの調子なんです」
兵がうんざり顔でヤネック王に言った。
ハルマン王子のエリサ姫に対する執着は有名だった。彼女に求婚する王侯貴族は数え上げればきりがないが、その中でも厄介さは頭一つ抜けている。大国の王子としての立場を利用し、強引に言い寄ってくる彼をヤネック王やアクト、そして家臣たちは苦労しながら幾度となく追い返してきたのだ。高価な魔法の品を献上してきたこともあったが、ほとんどは倉庫の肥やしだ。
「姫は体調が思わしくなく、床に臥せっておられます」
王の横に控えていたアクトが嫌悪感を隠して言った。
「姫はいつもそれだな。だが余が来たからにはもう心配はいらぬ。部屋へ通してくれ。姫の顔を見たい」
「シャーリエル様をお連れと聞きましたが、どちらに」
「そう、"天弓"シャーリエル。余が高い金を出して雇ったのだ。愛しいエリサ姫を守るために。一人で一万の兵にも匹敵する、無敵の傭兵だ。姿を見せてやるがよい」
「はいはーい」
若い、いや幼い少女の声がした。ノルタンド兵の後ろから姿を見せたのは、十三、四歳程度の可愛らしい少女であった。背が小さかったため隠れて見えなかったのだ。
「おお、シャーリエル様。お元気でしたか」
「シャーリエル様、お久しぶりでございます」
「ヤネック王にイケメン騎士、じゃない、アクト様。ご無沙汰してます」
ヤネック王とアクトが丁寧に挨拶し、彼女も応じた。さすがに信じられないのか、カーンとサルカルは絶句していた。
「アクト殿、本当にその方が"天弓"シャーリエル殿なのか」
やがて代表してカーンが聞いた。声が幾分か震えている。
「そうだよ、あたしがシャーリエル。シャーリエル・カーウェン」
シャーリエルは大きな胸を張って名乗った。色素の薄い肌に胸元まで伸びた艶のある金髪、そして幼い顔つきに不釣り合いな大きな胸が特徴的な少女が背負うのは、銀色に輝く金属製の弓だった。使い込まれてはいるがよく手入れされたそれは、身長百四十センチ程度の彼女には大きすぎるようにも見える。薄い緑色のシャツを押し上げる二つの膨らみは、実際豊満であった。それなのに腰はしっかりとくびれていて、太ももまでのスカートから伸びる足はほっそりとしてある種の優美さを帯びていた。
「お会いしたら驚く、と申し上げたでしょう」
アクトが薄い笑みを見せる。
「若いとは聞いておったが……想像以上じゃ」
サルカルが唸るように声を絞り出した。
「ごめんね、アクト様。手紙を受け取ったのはこの人に雇われた後だったから。でも、やることは同じみたいですね」
甘えるような声音でシャーリエルが言った。彼女が主に見ているのはアクトだ。
「シャーリエルがおればネフタールなど恐れるに足りんわ。一人で一万だから、他国の援軍よりも実質的な数も多い」
自慢げに言うハルマン王子だったが誰も彼のことなど気にかけていない。いや、次の言葉にはヤネック王とアクトの顔が怒りと当惑に染まった。
「だから、余に軍権を渡すがよい」
「なぜ、そうなるのですか、ハルマン王子」
当然ながらヤネック王が難色を示した。
「余が指揮を執らねばネフタールを仕留める栄誉を得られんではないか。ああ、シャーリエルよ、ネフタールは殺すでないぞ、とどめは余が刺すからな。かのネフタールを倒した英雄ならば、エリサ姫も結婚を断れまい。そうであろう」
ハルマン王子は頬を緩めて勝手なことを言っている。
「えぇ、ちょっと待ってよ、あなたが指揮を執るの」
シャーリエルが唇を尖らせた。
「何か問題があるのか。お主がおれば勝てるであろう。それと、雇い主には敬意を払わんか。なりは小娘なれど傭兵として雇われたからにはそれなりの振る舞いを心掛けろ」
ぴくりと眉が動いた。
「問題大ありよ、このボンボンがっ。軍を率いたことなんて一度だってない癖に。あたしの友達の命がかかってるのよ。それに、あんたを敬うなんて契約には入ってないから」
可愛らしい顔が怒りに染まり口調も崩れていた。ハルマン王子の頬が引きつる。
「この、傭兵風情が……」
「その傭兵風情に頼らなきゃ何もできないのは、どこの誰かしら」
「くっ」
ハルマンの手が腰の剣に伸びた。お付きの兵たちの表情が強張る。大国の王子とはいえ宮殿で剣を抜くなど到底許されることではない。
「あら、抜くの。いいじゃない、やってみたら。"天弓"シャーリエルが得意なのは弓だけじゃないのよ」
彼女の腰のベルトには短剣が下がっている。
「……失せなさい。契約は破棄でいいわ。あんたみたいな奴に引っ掻き回されて、ヘタを踏みたくないの」
彼女が放出する圧力に押されて、ハルマン王子が後ずさった。
「うぅっ。覚えていろ、シャーリエルッ。貴様など父に言えばすぐに断頭台送りだっ」
ハルマン王子とその兵たちは慌てて宮殿の玄関から出ていった。そして門を抜けたところで後ろを振り返り、瞠目した。
扉の前に、矢をつがえたシャーリエルがいたからだ。
「断頭台送り、かあ。それは嫌だから、ここで始末しちゃおっかな」
「ひ、ひいいいぃっ」
ハルマン王子が悲鳴を上げて走り出した。慣れない甲冑のせいか足がもつれそうになる。兵たちも続く。
弓を引き絞る。きりきり、と。弦まで彼女のために作られた特別製の弓矢が唸っている。
きりきり、きりきり。少女の細腕が剛弓を限界まで引く、引いて、引き絞る。きりきり。まだ幼い少女の横顔に暗い愉悦が満ちていく。誰も止めようとはしない。きりきり、と。一国の王子をきりきり射たとあっては処刑されても文句は言えない。だから、いいのだ。極限のスリルを感じて、シャーリエルの唇が吊り上がる。
きりきり。ハルマン王子の背中はすでに遠く離れている。きりきり。逃げ足は速いようだ。熟練の射手であっても命中させるのは至難の業だろう。シャーリエルはきりきりと弓を構えたまま目を見開いている。きりきり、弓が、鳴る。きりきり、きりきり。スリル。きりきり。スリルが。
きいいいぃぃぃぃぃりきいいいいいぃぃぃぃりとおおおおおおぉぉぉぉぉぉ。
「ふっ」
矢が放たれた。それに伴う颶風が金色の髪を揺らし、豊満な胸を揺らし、短いスカートの裾を揺らした。
「おおっ」
カーンが驚きの声を上げた。
ハルマン王子の背中めがけて一直線に進んでいたかに見えた矢は、奇跡的な、否、常識では考えられない軌道を描いていた。逃げる兵士全員の鼻先を横から掠めてから急上昇したのだ。そして逃げる王子の目の前を通り、射手の狙い通りの場所……すなわち、彼の足元に突き刺さった。
矢の柄の部分に、奇妙なものが連なるように刺さっていた。それは、削ぎ落された鼻だった。王子に続いて逃げていた兵たちは一様に蹲って顔を抑えていた。血が零れている。
「はひいいいいいっ」
ハルマン王子が尻餅をついた地面に染みができていた。失禁したのだ。避難途中だった民たちがそれを見て目を丸くしていた。以降、彼は『お漏らし王子』と呼ばれることになる。
「……ふん、殺す価値もないわ」
シャーリエルは弓を下ろして息を吐いた。
「これが"天弓"の技か」
仮面の下で呟くように言ったのはオルソンだ。ヤネック王も、カーンも、サルカルも、驚愕と感嘆の入り混じった目で幼い弓使いの少女を見ていた。アクトなどはいまにも拍手を送りそうなほどに清々しい顔をしていた。
まあ、殺してしまってもよかったのだけれど。這いながら逃げていくハルマンの姿を眺めながらシャーリエルは思った。王子を殺したらノルタンドは面子にかけてシャーリエルを捕らえ、処刑するだろう。それは、たまらないスリルに違いなかった。
前の人生では得られなかったスリルを味わい尽くすことが彼女の生きがいだった。
草原に静かな風が吹いている。シャーリエルは目を細めて標的を見据えた。視線の先にあるのは兵を模した三つの等身大人形。距離は三百メートルほど。頭の部分に兜が乗っている。
主人は、一発でこの三つの的を射てみせろ、とシャーリエルに命じた。見事射果たしたならば自由を与えるのも吝かではない、とも。部下の武威を見せつけるために急遽執り行われた余興。天幕の下にはにこやかな顔をした主人と、その横でどこぞの貴婦人が面白そうに見守っている。周りには兵たちが列を組んでいた。
いったいこれまで何度同じことを聞かされたか。奴隷として拾われ、弓の才覚を見出されてからこっち、こんなことばかりだ。しかし奴隷に拒否する自由などない。
この時、シャーリエルはまだ十歳の少女だった。少なくとも、見た目だけは。いや、すでに豊かに育った胸はそうではないかもしれないが、ともかく。
転生者の年齢はどう数えるべきか、という議論がある。精神の連続性が保たれているのだから前世と合算して数えるべきだ、という見方に従えばシャーリエルは四十二歳となるだろう。
シャーリエルは、かつては斎藤由紀子という三十代の冴えないOLだった。都内の大学に落ち、滑り止めだった地元の大学を出てやはり地元の中小企業に勤め、気が付いたら結婚適齢期を過ぎていた。お決まりのパターンを辿った、ただの女。
私の人生は何のためにあるのだろう。こんなつまらない人生を送るために生まれてきたのか。子供のころは、もっと素晴らしいものが待っていると思っていたのに。
たまの休日に元気のない街を、そんなことを考えてぼんやり歩いていたらトラックに轢かれて死んだ。即死だった。
何も見えず、感じなくなった由紀子に声だけが届いた
「つまらない人生だった、そう思っているのだろう」
威厳を滲ませる、重い声だった。
その通りだ。本当に、つまらない人生だった。魂を震わせるような成功もなく、胸を焦がすような恋もなかった。何のために生きてきたのかわからない。
「やり直してみたいとは、思わないか。こことは違う世界で、もう一度、人生を」
ああ、そうか、そういうことか。由紀子は理解した。これはいわゆる、異世界転生か。不慮の死を遂げた者が神からすごい力を与えられるという、生前見たフィクションではありふれた展開だ。
由紀子はやり直したいと願った。
「いいだろう。我が名はセルトゥシィン。狩猟を司る神なり。汝はいかなる生を望むか」
自由がいい。何物にも縛られずに生きたい。
「よろしい。何よりも自由な境遇で転生させてやろう。類まれなる弓の才能を持ってな」
そして由紀子は転生した。確かに、自由だった。ただ、あまりにも自由すぎた。
由紀子は気づくと、赤ん坊の姿で小さな林の木下闇にいた。両親も何もなく、たった一人で。
飢え死にせずに済んだのはそこを治める貴族に奴隷として拾われたからだ。自由を願ったのにどうしてこうなるのか。同じ奴隷たちに育てられ、シャーリエルと名付けられた。六歳になったらすぐに働かされた。
転機が訪れたのは八歳の時だ。鬱屈した日々に慰めを求めて木を削って玩具でも作ろうかと考えていたが、手が勝手に動いて弓が出来上がっていた。セルトゥシィンから与えられたという才能のせいだろうか。
仕事の合間にシャーリエルは弓で遊んだ。百発百中だった。その腕が主人である領主の目に止まり、腕前を披露すると気に入られて戦に連れていかれた。
その国は先代の王の急死に伴う後継者争いで、麻のように乱れていた。シャーリエルの主人は群雄割拠の中で強かに生き残る小領主の一人だった。兵力に余裕はなく、使えるなら子供でも使う男だった。
毎日のように起こる小競り合いがシャーリエルの初陣になった。それで十人以上の敵兵を仕留めた。人の死などなんとも思わない。奴隷の境遇から抜け出すためならなんだってやってやる。
それから二年経った。軍勢同士が触れ合う前に敵将の頭を射抜くなど、何度やったか知れない。それでもまだ、シャーリエルは奴隷のままだった。自由を乞うても主人は引き延ばしにするだけだ。いいように使われている、というわけだ。前世でも面倒な仕事を押し付けられてばかりだったことを思い出した。
「どうした、早う射るがいい」
主人が酒で喉を潤しながら気楽に言った。うっさいわね。シャーリエルは弓を引き絞る。きりきり。
ぞぞ、と背筋に震えが来た。戦でもそうだった。弓を射ようとすると必ずそうなる。全身に貫くような恐怖……いや、スリルが駆け巡る。それは平和な前世では決して得られなかった快感でもあった。
もし外したらどうなるのだろう。戦なら敵兵に殺される。この余興で外しても死ぬかもしれない。主人に恥をかかせることになるのだから。処刑か。これまでの働きからそこまでされることはないかもしれない。失敗したことを理由に奴隷のまま使い潰されるのかも。
どちらにせよろくなことにはならない。だが当てるしかないのだ。きりきり。スリルが高まる。高まっていく。きりきり、きりり、り。
シャーリエルは矢を放った。横に並んだ三つの標的に乗った兜が甲高い音を立ててほぼ同時に落ちた。兵たちから感嘆の声が漏れる。
「おおっ、よくやったぞシャーリエル」
主人が破顔した。貴族の娘も小さな驚きの声を上げていた。
「……これで、自由にしてくれるんですよね」
幼い子供の声でシャーリエルは問うた。
「うむ、うむ、考えておいてやるぞ」
お決まりの文句を聞いた瞬間、シャーリエルの中で何かが切れた。
もううんざりよ。
「じゃあ、もう一つ、別の的を射抜いたら自由にしてくれますか」
「別の的、とはなんじゃ」
それには答えず、シャーリエルは矢をつがえた。
主人が目を剥いた。
矢の先には、主人の顔があった。
「な……」
額に突き刺さった矢は勢いを失わず、主人の首から上をもぎ取っていった。貴婦人はぽかんと口を開けて固まっていた。頭を失った主人の身体がぐらりと揺れて横倒しになる。杯が落ちて、地面が酒を吸っていた。
兵たちがどよめきだした。半分は非難と動揺、そしてもう半分は称賛の声だった。身勝手な彼に反感を覚える兵は多く、同情する者も少なからずいた。だからといって殺していいはずもない。武器を抜いた兵が迫る。
ああ、やった。やってしまった。ずっと前から考えていた、主人の頭を射抜いてみたら楽しいだろうか、と。答えはわかり切っていた。楽しいに決まっている。
十歳の少女にしては育ちすぎた胸を揺らし、シャーリエルは兵から逃れた。にこやかな笑みを浮かべ、手近な兵を射殺して。
こうしてシャーリエルはしばらく逃亡奴隷として追われることになったが、その生活は長くなかった。当主を失った領主一族の末路などたかが知れている。すぐに近隣の敵対勢力に滅ぼされ、追手は来なくなった。
あんな国、知ったことか。自由になったシャーリエルは他の国へ流れ流れて、いつしかその弓の腕から"天弓"の二つ名を頂く傭兵兼冒険者になっていた。
「お見事です、シャーリエル殿」
妙に晴れやかな顔でアクトが軽く拍手した。
「アクト様、どうですか私の弓は」
シャーリエルは騎士を振り返った。いままでいろんな騎士や貴族を見てきたが、知る限り彼以上の美貌を持つ者はいない。
「以前にもまして、素晴らしい」
「二人は知り合いか」
カーンが聞いた。
「ええ、以前魔物の討伐に立ち会ったことがあります。見ての通りの弓の腕ですから、宮殿にお呼びしたこともあるんですよ」
「転生者という噂を聞いたことがあるが、本当ですか」
「ふふっ、それはどうかしらね」
巨漢の剣士に年相応の少女のように笑って、シャーリエルはごまかした。
「その節は世話になりましたな、シャーリエル殿。エリサともよくやってくれているようで、親としては大変ありがたく思います」
改めてヤネック王が挨拶する。王として、そして父親として。
「友人、と言っておりましたが」
聞いたのはサルカルだった。
「宮殿に呼んだ時、あまり出歩けないエリサの話し相手になってもらったのだ。彼女もすっかり気に入ってくれて、文通までしてもらっておる」
エリサ姫と初めて会った時のことはよく覚えている。信じられないほどの美人だった。前世の冴えないOLとして彼女の前に立っていたら、劣等感と嫉妬で発狂していただろう。
絵に描いたような箱入り娘の彼女は、あれこれシャーリエルに聞いたものだった。どうも、病弱で外に出たことがないらしい。それで彼女のことを不憫に思ったのだ。お姫様で、美しいのに。人生とはままならないものだ。そんな彼女の慰めになれば、と文通を提案し、それは今も続いている。
「王様、エリサ様にお会いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだとも。きっと喜ぶだろう」
頷くヤネック王の顔には若干の翳りが見えた。その理由はわかっている。
ネフタールだ。幾多もの英傑が戦いを挑み、誰も勝ったことがないという最強の殺戮者。エリサ姫を狙う変態。
相手がイケメンなら話は別、なのだけれど。ともかく、エリサ姫はシャーリエルにとって、この世界では数少ない友人だ。いや、実際のところ唯一といっていい。彼女のために一肌脱ぐことには何の支障もない。
それに、無敵の殺戮者と戦えるのだ。それはきっと、これまでに味わったことのない最高のスリルになるだろう。
ああ、スリル、スリル。死と生の狭間にだけ降り注ぐ、極上の甘露。スリル、スリルを。スウウウウリイイイィィィルウウウウウウウゥゥゥゥッ。
可愛らしい笑みの後ろに渇望をひた隠し、シャーリエルは力を与えてくれた邪神に内心で感謝した。




