仮面の暗殺者
夜も更けたころ、全身を黒づくめの服で覆った男が王宮を訪れた。羽織ったマントと一体になったフードを目深に被っている上に、同じく闇色の凹凸のない仮面をつけていて顔は見えない。目の部分に開いた、横に長い切れ込みから覗く瞳もやはり黒だった。フードの間からはみ出した蓬髪が揺れている。
「オルソンだ。アクトに呼ばれた」
彼は番兵にそれだけ告げた。仮面の奥から発せられたそれは、感情を押し殺したような、低く捻じれた声だった。
番兵は胡散臭げな視線をオルソンに向けた。その目が驚きに染まった。
「オルソン……"影のオルソン"かっ」
番兵たちが彼の通り名を叫びつつ槍を向けた。彼はぴくりとも動かない。震えた槍の穂先はまだ胸の前に留め置かれていたが、ちょっとしたきっかけがあれば兵はそれを突き出すだろう。
「武器を下ろしなさい」
門の向こうから声がかけられた。冷たくも威厳に満ちた声音は、騎士団長アクトのものだった。
「しかし、こいつは」
兵はオルソンから視線を外さない。目を逸らした瞬間、自分の命がなくなるとでも言うように。
「よい、私が呼びました。武器を下ろしなさい」
アクトは同じことを命じた。兵は後じさりながらゆっくりと槍を下ろす。
「三年ぶりか。久しぶりだな。お前のところの兵は客人に槍を向けるのか」
皮肉を言うオルソンにもアクトは澄ましたものだ。
「王がお待ちです。こちらへどうぞ」
「付き合おう」
オルソンは招かれるまま王宮に足を踏み入れる。兵たちは恐れと不安、そして敵愾心を込めて彼を見ていた。
宮殿を歩くオルソンの姿はかなり場違いだった。明かりの下で見ると、黒いマント付きのフードはところどころ擦り切れていた。黒染めの服も同様だ。腰に巻いたベルトの左右に一振りずつダガーが鞘に納まっている。そして、嗅覚に優れたものならわかるかもしれない、染みついた血の匂い。
影のオルソンといえば、裏の世界では知らぬ者はいない。五百人の標的を始末した凄腕の暗殺者として。
会議室の前でアクトが向き直った。
「王がお会いになる。身に着けている武器はすべて外してください」
それは不可能なのだが。しかし口を開く前に扉の向こうから声がした。
「そのままでよい。オルソン殿をお通ししろ」
「……わかりました」
開いた扉の先にいたのは椅子に腰かけたヤネック王だった。三年前より白髪が少し増えた程度で、あまり変わっていない。
「オルソン殿。疑うわけではないが、本当にあのオルソン殿なのか。失礼だが顔を見せてはくれないだろうか」
机を挟んで王と向かい合ったオルソンが聞く。
「いいのか」
「構わん、余もアクトも知っておる」
闇色のフードを脱ぎ仮面も外す。蓬髪が零れた。その下の顔も。
いや、オルソンには顔がなかった。
仮面の下にあったのは皮膚のない髑髏であった。
鼻は軟骨ごと削り落とされたみたいに穴が開いているだけで、唇もなかった。上下の顎骨の間から覗く歯の周りには薄い歯茎がへばりついている。口内は他の人間とさほど変わらないようで、頬にわずかにへばりついた筋肉と内側のそれで口を動かして喋っているのだろう。両の眼窩に嵌ったむき出しの眼球がヤネック王を静かに見つめていた。艶のない乾いた髑髏の表面を、魔法の明かりが照らす。
「これでいいか」
「確かに。すまなかったオルソン殿」
常人なら悲鳴を上げていてもおかしくない異形にも、王と騎士は身じろぎ一つしなかった。ただわずかに息を呑んだだけだ。実のところ、オルソンのもう一つの通り名は"骸骨処刑人"であった。
「この度はよくぞおいでくださった」
仮面をつけなおした暗殺者に、立ち上がったヤネック王が頭を下げた。横に立つアクトもそれに倣う。
「おかしな話だな。一度は命を狙われた、薄汚い暗殺者に王と騎士団長が頭を下げるとは」
本来ならば無礼討ちにされるべきオルソンの態度。しかし臣下の礼を取らせるために呼ばれたわけではないのだ。
「国の一大事ですからね。正直なところ、私と斬り合って生きていた相手を他に知りません」
それが世辞ではないと知っていた。あの時はお互い本気で殺し合ったのだ。さしものオルソンも死を覚悟した。そして闇の中で光を見たのだ。
「あの、お父様」
閉じられていた扉が開いて声が聞こえた。鍵はかけていなかったのだ。
瞬間、オルソンの脳髄が震えた。同時にアクトの顔が歪む。
前に聞いたのはたったの一度だけだが、間違えようがない。気品に溢れ、優雅ですらあるのに儚さを感じさせる透き通った声。ああ、こんなにも甘美で心を震わせる音色は他にないだろう。オルソンはゆっくりと、仮面の顔で扉の方を振り向いた。
そして、光を見た。
おお。おおお。
どこか冷たい印象を与える魔法の光が灯る部屋が、春先の陽だまりに変わったかのような錯覚を覚えた。気を抜けば仮面の下のむき出しの瞳から涙が流れていたかもしれない。オルソンはその誘惑に耐える。
エリサマリル姫はヤネック王の一人娘であり、大陸一の美姫という呼び名が恐ろしく控えめな評価であることを見る者に思い知らせる、完璧な美貌の持ち主であった。年齢は今年で十八になるが、王宮の外に出たことがないほどの箱入り娘でもあるが故か、若干のあどけなさを残していた。処女雪のような白い肌には一点の曇りもなく、滑らかさは幾年もの時間をかけて磨き上げられた玉を思わせた。透明感のある薄栗色の髪は肩にかかる程度まで伸び、先端で内側に向かって緩やかな曲線を描いている。装飾品は薄紅色の髪飾りのみで、同じ色のドレスが美と愛の神、フルーリィンですら嫉妬するであろう完璧な肢体を包んでいた。
美しい。この世界中、いや転移者や転生者がやってきた世界の言語すべてをかき集めても表現しきれぬほど、美しい。
身体が弱いという噂は聞いたことがある。丸く開いた目に宿る光はどこか寂し気で憂いを帯びていたが、それは最高級の宝石のように澄んだ瞳に、翳りではなく儚い美をもたらしていた。
美しい女はこれまでも見てきた。それはどこかの国の王妃や王女だったり、貴族の娘だったり、あるいは富豪の家族だったりしたが、彼女らに特有の傲慢さはエリサ姫からは一切感じられなかった。
そして、あの目。仮面のオルソンに向けられるのは、恐怖や侮蔑、そして偏見の視線だった。
しかしエリサ姫は違った。彼女はオルソンを、ただただ素直に見つめていた。
「姫、なりません。このような時間に」
素早く動いたアクトがエリサ姫の姿を隠すように立った。
「ごめんなさい、でも、その方は私のために来てくださったのではないのですか。私には何もできませんが、せめてご挨拶だけでも、と」
彼女は遠慮がちに騎士の向こうから顔を覗かせた。それが自らのために命を懸ける戦士への、最低限の礼儀だとでも言うように。
アクトは彼女を守れる位置についていた。王もそれを許した。暗殺者とはいえ呼びつけたのは彼らなのだ。しかし騎士の剣は、その気になれば瞬きする間に暗殺者の首を刎ねるだろう。それだけのことをするつもりは毛頭ないが。
エリサ姫はオルソンに深々と頭を下げた。
「この度は私などのためにネフタールと戦ってくださることに、心より感謝いたします。どうか、ご武運を」
すらりと通ったきれいな鼻筋の下、淡い口紅を引いた形の良い唇の端が持ち上がって、自然な微笑を見せた。
初めてその姿を見た時から、オルソンは彼女のことを忘れたことはなかった。
オルソン・タケダの人生は五歳の時に大きく狂った。
名前が示す通り、彼の先祖は転移者だった。各地にこういう者はそれなりにいるが、少なくともオルソン自身も、その両親もどこにでもいるただの人だった。ただ、先祖は災いをもたらす魔女を倒したのだ、という話を寝る前に母はよくしていた。
だけど、そんなものはおとぎ話だと思っていた。転移者も転生者も、実在したとしても自分の人生には何の関わりもないものだと。五歳にしてオルソンはある種の諦念を抱いていた。
そしてある朝起きた時、それがただの幻想にすぎないということを知った。
オルソンは母の悲鳴で目を覚ました。何か恐ろしいものを見るような目がオルソンに向けられていた。母は浅い呼吸を繰り返し、全身を小刻みに震わせている。異変に気付いて駆けつけた父も、オルソンを見て短い呻きを漏らした。
オルソンは不思議そうに両親を見て、どうしたの、と声をかけようとした。口が上手く動かせなかった。顔に違和感を覚えて手を触れた。
肌の感触がなかった。手に伝わるのは硬質で、乾いた、ざらざらした感触だった。
自分の顔はどうなっているのか尋ねようとしたところで母が叫んだ。
化け物、と。
続けて父が叫んだ。
お前は何だ、オルソンをどこにやった。
訳がわからず狼狽えるオルソンだったが、やがて父が斧を持ち出してきたので必死に逃げた。通りに出ると、人々の間から悲鳴が上がった。助けを求める暇もなく衛兵までもが血相を変えてオルソンを追い立てた。
這う這うの体で生まれ育った町を逃げ出したオルソンは、偶然見つけた泉で渇きを癒そうと水面に顔を近づけて息を呑んだ。
オルソンは見たのだ。水鏡に揺蕩う、皮膚も肉も失った髑髏の顔を。
なんなんだ。
これは、なんなんだ。
オルソンは嗚咽した。瞼を失った目からぼろぼろと涙が零れて池に落ちた。世の中に、こんなに残酷で理不尽なことがあるとは考えもしなかった。
私たちのご先祖様は魔女を倒したのよ。寝る前に母がよく話していたことを思い出す。まさかこれは、その呪いなのか。魔女なんて遠い昔の話のはずだ。それが、なぜ、いま、自分に。
こんな顔では町にも戻れない。一人で生きる術を持たないオルソンはあてどなく彷徨い続け、餓死寸前のところで奴隷商人に拾われた。売られた先は見世物小屋であった。
見世物小屋の元締めは乱暴な男で、何かにつけてオルソンを殴った。客の入りが少ないと殴り、酒に酔ってはやはり殴った。
それは次第に激しさを増し、身の危険を感じたオルソンは落ちていた酒瓶で逆に彼を殴り殺して脱走したのだ。まだ子供だったオルソンの身体は信じられない力を発揮していた。赤黒く腫れ上がり頭蓋骨が陥没した彼の頭部はぐちゃぐちゃになっていた。その死体に唾を吐きかけた。
これでお前も化け物の仲間入りだな、クソ野郎。そう言い残してオルソンは逃げた。
脱走したオルソンは打ち捨てられた小屋を見つけ、そこで一夜を明かした。目を覚ますと、部屋の片隅に三十代ぐらいの女がいた。訝るオルソンに彼女は自分が虚無を司る神、ニズゥーインを奉る教団の勧誘員であることを告げた。
彼女は続けてこう言った。教団は暗殺を生業としている、あなたの手はすでに血で汚れている。他に行くところがないなら私たちの仲間にならないか、と。変わり者ばかりだから、髑髏の顔でも構わないとも言った。
オルソンはその提案を飲んだ。もう人並みの人生は遅れないことを自覚しながら。
幼いオルソンは教団の元で暗殺者としての訓練を受けた。厳しかったがなんとかやりとげることができた。仲間たちは髑髏顔のオルソンにも最低限の礼節を守って接してくれていた。社会から弾き出された者としての連帯感がそうさせたのだろう。
十四歳になったとき、仮面と共に初仕事を与えられた。酒ばかり飲んで借金を返そうともしないろくでなしを殺してほしい、と。そんなことで他人を殺せるのか。人間とはそんなものだ。オルソンは冷ややかにそう思った。
そして彼は、見覚えのある街の、見覚えのある家で、見覚えのある男を殺した。男の妻はいなかった。死んだのか、出ていったのかはわからない。
オルソンはそのろくでなしの首を掻き切り、初仕事を完璧に実行した。教団は意図的にこの仕事を割り当てたのだろうか。そんなことはどうでもよかった。
これを皮切りに、オルソンは殺しに殺した。相手が物乞いだろうと、貴族だろうと、男だろうと、女だろうと、子供だろうと、老人だろうと、報酬さえ払えば誰でも殺した。仕留められなかった標的はない。気鋭の暗殺者に教団の仲間たちから賛辞すら送られることもあった。
護衛に仮面を割られて素顔を晒すことも、わずかながらにあった。"骸骨処刑人"というもう一つのあだ名がつけられた。
命の危険を感じたこともある。それでも足を洗うつもりはなかった。他に生きる術を知らないのだから。一度など標的の富豪を始末したら、偶然街に居合わせた"剛腕"カーンに追い回されたこともあった。金にならないから正面切って戦うことは避けたが、さすがに生きた心地がしなかった。
ある日、首領から直接呼び出されて、大きなヤマを任された。内容はアフトーサの王、ヤネックを始末しろ、というものだった。たいそう美しい姫がいる国だとは噂で知っていた。大方、王を暗殺し、混乱に乗じて強引に姫をものにしようと考えた、どこかの馬鹿貴族か王族の依頼だろう。
しかし一国の王を殺すということは教団の歴史でも前例がなく、報酬も莫大な額が提示されていた。絶対に失敗できない仕事に、オルソンは選ばれたのだった。
王にも姫にも興味はなかったが、生きていくには殺さねばならない。情報を集め、王都に潜み、警備の巡回路を調べ上げ、機が熟するのを待った。
そして、決行の日を迎えた。
宵闇に潜んだオルソンは宮殿内に張り巡らされた魔術的探知手段をすりぬけ、兵士の巡回をやり過ごし、一直線に王の寝室を目指し、失敗した。
その日は宮殿にいないはずの騎士、アクトルン・オーリィン・トールランスが闇の中のオルソンを探り出したのだ。宮殿に仕える者の中でも要注意人物の一人だった。剣技もさることながら、目端が利いて勘も鋭い。次期騎士団長候補でもあった。
王の寝室に続く廊下で斬り合いになり、アクトの実力を垣間見た。勝てるかどうかは運任せになるな。オルソンは悟った。眉目秀麗な騎士の表情も厳しいものになっていた。
「アクト、様」
通路の先、曲がり角のところに人影が見えた。騎士に呼びかける声音は戸惑っているようで、しかし澄み渡るように美しかった。
「姫っ、お下がりくださいっ」
叫ぶ騎士の注意がそちらへ向いた。もらった。千載一遇の機会に、オルソンは鎧の隙間を狙ってナイフを抉りこもうと、し、た。
視界の端に彼女の姿が映ったかと思うと、視線が勝手に吸い込まれていた。
冷たい夜の闇の中に、光があった。目を刺激する不自然なものではなく、それは優しくも儚い陽光だった。大陸一の美姫、エリサマリル。その呼び名の、なんと控えめなことか。大陸などではとても足りぬ、天上の存在すら敵わぬその美しさにオルソンは心を奪われていた。
なんと、美しい。こんな人がこの世に存在するのか。存在していいのか。この時のエリサマリルはまだ十五歳だったが、すでに想像を超える美貌を纏っていた。闇から闇へと渡り歩き、血みどろの人生を送ってきたオルソンの心に彼女の美貌は殊更に沁みた。
時間が止まったように感じられたが、実際には一瞬だった。暗殺者としての本能が危険を告げた。頭上から振り下ろされた剣がオルソンの仮面を割り、髑髏の額を掠めていったのだ。
見られた、醜い顔を。オルソンは目の前の敵ではなく、エリサマリルの方を見た。髑髏の顔に投げかけられるのは、決まって侮蔑や恐れの表情だった。もし彼女がそんな顔をしていたのなら、オルソンはその場で自殺していたかもしれない。
だがそうはならなかった。エリサマリルが浮かべたのは、ただの驚きであり、それはやがて別のものに変わった。憐憫……いや違う、憐れんでいるのとはまた別の感情。すぐにでも治癒師を呼びそうな。気づかい、とでもいうのだろうか。
それは、純粋に彼女の優しさから来ていた。
優しさ。オルソンとは長い間無縁だったもの。
騎士の追撃を躱し、オルソンは宮殿から逃げ出していた。もう、誰かを殺そうなどという気分ではなかった。
髑髏の頭の中は、エリサマリル姫のことで一杯になっていた。どうすればいい。王は殺さねばならない。依頼を果たさねば生きられない。王が死ねば姫は悲しむだろう。彼女に翳りをもたらすなど、許されぬことのように思えた。
王都からほど近い町で再び狙うべきか葛藤していたオルソンのもとに二人の刺客がやってきた。同じ教団の、同僚とでもいうべき者たちだった。
暗殺に失敗したオルソンを始末しろ、それが依頼人の要求だと冥途の土産として教えてくれた。もちろん、死んだのは刺客の方だった。
たった一度の失敗でけじめを求められるのは、暗殺者としてはよくある話だった。
そして仲間に裏切られて崩壊するというのも、暗殺組織としては、やはりよくある話だった。
刺客を始末してからアジトに戻り、襲撃した。一人ずつ、丁寧に、容赦なく。殺さなければ生きられないのだから仕方がない。そしてそれを教えてくれたのは彼らなのだ。
首領から新人まで、オルソンは皆殺しにした。その中には自分を拾った勧誘員もいた。仕事でいなかったメンバーは待ち伏せし、やはり殺した。組織の生き残りが恨んで復讐にくるというのも、やはりお決まりのパターンだからだ。
次の仕事は依頼人を始末することだった。これもやはり、よくある話だ。首領の部屋を探って依頼人の情報を見つけた。近くの国の貴族。館に忍び込み、命乞いをする太った男の心臓を抉って殺した。
依頼人による契約破棄。こんなものだろう。これで王を殺さずに済む。姫の悲しむ顔も、見なくて済んだ。
教団を滅ぼしてからもオルソンはフリーの暗殺者として仕事を請け負った。他に生きる術を知らない。自ら所属する教団を皆殺しにした冷徹さを気に入った依頼人も多かった。
淡々と殺し、オルソンは生きた。いつかまた、エリサマリル姫に会えることを夢見て。
「あの、お名前を教えていただけないでしょうか」
エリサ姫が尋ねた。アクトから刺すような視線が向けられるが、一瞬だけで消える。
「オルソンです、姫」
「……以前どこかでお会いしませんでしたか、オルソン様」
再び姫が尋ねた。
「いえ、ありません。他人の空似でしょう。それから、敬称は不要です。ただのオルソンで結構」
「そう、ですか。申し訳ありません。私の勘違いですね」
短く答えたオルソンの心の内は歓喜に満ちていた。
覚えていたのか。覚えていて、くれたのか。
たった一度だけ見た、醜いしゃれこうべの、薄汚い暗殺者を。
そして、ああ、名前まで呼んでくれた。形のいい唇から発せられる清らかな音色がオルソンの名を紡いだ時、天にも昇るような心地になったのだ。
その場に跪いて、手の甲に口づけたい衝動に駆られるが、薄汚い暗殺者には許されないことだ。
命に代えてでも彼女を守ろう。そう決めた。
オルソンは自らの髑髏の顔を意識する。暗殺稼業で貯めた金を使い、何人もの魔術師に調べてもらったが原因も治療法もわからなかった、人生を狂わせた忌々しい顔。
姫を守り通すことができたなら、この髑髏の顔も元に戻るだろう。なぜだかわからないが、そんな気がした。
もっともその時には、すでに死んでいるかもしれないが。
服の上から自分の腹を撫でる。そこには爆弾が仕込んであった。錬金術師が作った高性能の爆薬。意思によって発火するそれは最後の手段であり、使う相手はすでに決まっていた。