残酷だけど優しい人
微笑んだ口元が動いて、ヤネック王の魂が言った。
「エリサよ……余は、お前を愛していた。そう、せめて死ぬ前に一度だけでいいから……犯したかったぐらいになあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
絶叫が綻びかけたエリサ姫の顔を叩き、一気に絶望の底へと叩き落した。
「犯したかったぞエルサ姫えええええぇぇぇぇぇぇぇぇっ」
ヤネック王の顔は歪み捩れて破れそうになっていた。
「俺もだっ、俺も犯したかったっ」
「私もですっエリサ姫様っ、あなたを私だけのものにしたかったのですっ、髪だけで我慢していたのに、我慢していたのにいいいいいいぃぃぃぃウケケ。ケケケケケケ毛毛っ」
「我々は皆、あなたのために死んだのです。それなのになぜあなただけがのうのうと生きているうううううううううっ」
「一人だけ生き残ろうとはっ、許さん、許さんぞっ」
「死ねっ、今からでも死んでくれえええええええっ。俺たちの痛みをお前も味わえええええええっ」
魂たちが口々に叫ぶそれは、醜い欲望と、怒りと、憎しみの合唱であった。
エリサ姫は耳を塞いで両膝をついた。きつく閉じた目から涙が溢れ出す。
やっぱり、やっぱり私は生きていてはいけないのだ。彼らは私が殺したも同然なのだから。
風が吹いた、いやネフタールが剣を振った。剣圧で煙が散らされた。呪いの歌を唄う魂たちも消えていく。それでもエリサ姫の震えは止まらなかった。顔が青ざめていく。発作が。
「ネフタール、さん、お願いです……どうか、いま、ここで」
苦労しながらエリサ姫は言った。もう呼吸をするのも辛い。ドレスの上から胸を抑える。これまでにない強い痛み。
「……わかりました。では、目を閉じてください。一瞬で済みますから」
言われるままエリサ姫は目を閉じた。視界が闇になる。
終わる。これで終わる。大勢の人を死に追いやる選択をした私が、生きていていいはずがない。これでよかったのだ。ごめんなさい、お父様。兵士の皆さん。エリサ姫は口に出さず、亡くなった人々に詫びた。私も今、そちらに参りますから。
そして身体の中を何かが通り抜けた。
本当に、一瞬だった。斬ったのは首か、胸か。それもよくわからない。苦しみも痛みも消え去った。やがて意識も消え去る、何も感じなくなるのだろう。
だが十秒経ち、二十秒経っても意識は消えなかった。三十秒が過ぎたころ、エリサ姫は恐る恐ると目を開けた。
「どうして、私、生きて……」
エリサ姫は自分の身体を確認した。どこにも傷はついていない。
朝焼けに照らされたネフタールが剣を持った手を自然に下げていた。その刀身になにやら黒い靄のようなものがまとわりついている。
「あなたにとりついていた病魔を斬りました」
それは剣に貫かれ、小刻みに痙攣しているようにも見えた。エリサ姫を苦しめ続け、死に追いやろうとしていた病の源がそれ、なのか。
でも、そんなことができるのか。何人もの治癒師が匙を投げてきたのに、こんなにあっさりと。
「驚いた。文字通りの病魔、とでも言いますか、ほとんど生き物ですね、これは」
ネフタールが不思議そうに言ってから剣を差し上げた。刀身が一瞬見えなくなったかと思うと、黒い靄が細切れになって地面に落ちた。音もなく消えていく。
「いえ、実は実際にあなたを見た時から、気づいてはいました。身体の中に入り込んだ何かが悪さをしているということは。すぐに殺せるということも……治癒師ではないので、あくまで推測になりますが、あなたに何らかの感情を寄せている人が大勢亡くなったからではないかと思います」
「それは、どういう……」
もう発作は収まった。いや、本当に消えてしまったみたいだ。身体が軽い。血の気も戻ってきている。
「この程度の病魔なら治癒師の方も見抜けたはずです。なのにそれができなかったとなると、僕が来る前と後で状況が変化したとしか思えません。あの病魔はあなたに向けられた感情を力に変えていたのかもしれません。感情の持ち主が大勢亡くなったから、僕にも見ることができたし、殺すこともできたのではないかと……あくまで推測ですが」
ネフタールは感情を込めずに言っていた。だがその言葉はエリサ姫にとって救いにはならなかった。むしろ発作とは別の、重い痛みをもたらしていた。絶望感が増しただけだった。
私の命に、生きるだけの価値があるとは到底思えない。
「それに、あなたに伝えたいことがある人が、まだいらっしゃるようなので」
香は完全に消えてはいなかった。細い煙に大勢の人が、いや魂が集まっている。その数は数百か、数千か。
魂が口々に叫んでいる。
「ごめんなさい、エリサ姫。我々があなたの足かせになっていたなんて」
「俺たちはあなたのために命を懸けた。そしてあなたはまだ生きている。こんなに嬉しいことはない」
「おめでとう、エリサ姫。病気が治ったんだね。おめでとう、本当に、おめでとう」
「勝手なお願いかもしれないけれど、どうか諦めずに生きてほしい。幸せになってほしいんだ」
それは謝罪と、祝福と、激励の大合唱であった。
武骨な大男、カーンの魂が見えた。粗削りな顔に微笑を浮かべている。白い髭を蓄えた魔術師、サルカルが静かに笑って手を叩いた。花火が上がる。魂の。頭上でぽん、ぽんと花を咲かせる。魂たちが湧いた。拍手が巻き起こる。彼らは全力で、エリサ姫を祝福しているのだった。
髑髏の顔をした男が静かに近づいてきて、エリサ姫の前に跪いた。いつか見た、暗殺者。やはり彼はオルソンだったのだ。覚えている、夜中にアクトと斬り合っていたのを。その時に思ったのは、髑髏の顔で生きていかねばならぬ彼の人生だった。それはよほど苦しく辛いものなのだろう、と。
彼が何かを求めているような気がして、エリサ姫はゆっくりと手を差し出した。オルソンはその手の甲に口づけをした。魂だから触れることはできなかったけれど、彼は確かに、そうした。
半透明の髑髏の顔が歪んで別の形を作った。それは肉のある、人間の顔だった。髑髏の顔が元に戻ったのだ。三十代程度の、痩せた顔。驚いたようにオルソンが姫の顔を見てまた頭を垂れた。
いつの間にか、エリサ姫の目から溢れる紅涙が別の意味に変わっていた。
「ありがとう、ごめんなさい、ありがとう、ありがとう、ごめんなさい」
エリサ姫は感謝と謝罪の言葉を繰り返した。
「私、私、どうしたら……」
「好きなように、生きてください」
人の顔を取り戻したオルソンが告げた。魂たちもそれに頷いていた。
香が燃え尽きた。煙が消えて魂たちも姿を薄れさせていく。最後まで彼らは微笑みながら祝福の言葉を投げかけていた。
「まだ死ぬおつもりですかな」
ネフタールが聞いた。立ち上がったエリサ姫は泣きながら首を横に振った。
「でも、私は、報酬を……」
「ええ、頂きました。病魔から、あなたの命を。ですからお返しします。一度頂いた物をどうしようと、僕の勝手ですよね」
「私は、生きていて、いいのですか」
「生きることに、誰かの許可はいりません。あなた自身が決めることですから」
ネフタールは優しく告げた。
ずっと気になっていたことがあった。なぜ彼がわざわざ予告状を出したのかを。殺しの依頼は受けないと言いながら大勢殺したのかを。あるかないかの微笑を浮かべるネフタールを見て、エリサ姫は全てを理解した。
「ネフタールさん、あなた、もしかして……」
予告状は民を王都から逃がす時間を作るためだったのではないか。殺しの依頼を受けないのは、心の傷を軽くするためだったのではないのか。
その先をわざわざ口にしたりはしなかった。
「はい、なんでしょう」
「……いえ、なんでもありません」
ありがとう、ネフタール。残酷だけど優しい人。エリサ姫は涙をぬぐった。
「さて、これは仮定の話なんですけどね、もし僕が、いまから依頼も何も関係なく、あなたを殺す、と言ったら、どうしますか」
ネフタールはちょっと悪戯っぽく言った。
エリサ姫は迷わなかった。
「戦います。私なんかでは絶対に敵わないでしょうけど、最後まで諦めたりはしません。死ぬまで戦って、戦い抜いて、それから、死にます」
ネフタールが微笑んだ。
「いい返事です」
その彼の向こう側から幼い少女の声がかかった。
「ネフタールッ姫から離れなさいっ」
目を向けると、弓を構えたシャーリエルが立っていた。きりきりと矢を引き絞って。
ああ、本当にシャーリエルは、生きて。でも、もう戦う必要は。もう誰も死ぬ必要はないのだ。
そう言おうとする前にネフタールが振り向いた。ぞっと、エリサ姫の背筋に悪寒が走った。まさか、殺すのでは……。
「……なーんてね」
舌を出したシャーリエルが弓を下ろした。ネフタールも剣を抜いたりはせず、ただ彼女の方に向き直っただけだった。それでエリサ姫はようやく胸を撫で下ろした。
「シャーリエル様、よくぞご無事で」
「情けをかけられたのは癪だけど、まあ、ね。完敗だったわ」
金髪を揺らしてシャーリエルが苦笑した。何もかもを失ってしまったと思っていたけれど、彼女だけはまだ生きていた。よかった、本当に良かった。エリサ姫は嬉し涙を流した。さっきから泣いてばかりだ。
「身体は何ともないのですか、腕を落とされた、と聞いていましたけど」
「持続式回復魔法がまだ効いてたから、腕も生え戻ったわ。術師が死んでも残るのよね、あの手の魔法。ちょっと気持ち悪いけど、平気よ」
そして今度はネフタールの方を見て彼女は言った。
「大丈夫、もうあなたをどうこうするつもりはないから。姫も無事なら、私はそれでいいもの。イケメン騎士は残念だけど、また別の男を探すわ。ところで一つ質問をしてもいいかしら……あなた一体、何者なの」
「僕は殺戮者です。皆さんが知っての通りの」
「そういう意味じゃない。ルイカルネ級に匹敵する実力者を含めて、五万人もの兵士を一人で皆殺しにした……あなたも、神の恩寵を受けているの」
「いいえ、どうも僕はこの世界の神様からは嫌われているみたいですから。転移者ではありますけど、ただの人間ですよ」
「じゃあどうやって」
「ちょっとしたずるをしていることは、認めます。僕は卑怯者です……先人たちが積み上げた技と力を引き継いでいるんです。ただの人間の情念を、ざっと五百億年分ほど」
ネフタールはさらりととんでもないことを言った。これにはエリサ姫もシャーリエルも呆気にとられていた。
「五百……億」
シャーリエルが唸った。ついでに白いシャツに包まれた胸も揺れた。
「こちらに来る前はほんの百年ちょっとぐらいしか使えなかったんですけどね」
「……わかったわ。とりあえずそれで納得してあげる。でもなんで、エリサ姫を助けたの。たった一人で何万人も殺して。そのことについては感謝してはいるけれど。あなたは神にでもなったつもりなの」
「僕は神でも悪魔でもありません。ただの人間です。この力を使って依頼人の願いを叶える、それだけです。そのためだったら何万人でも、何十万人でも殺して差し上げますよ。ただ、殺しの依頼だけは勘弁してくださいね」
微妙に矛盾したことを言っていることに彼は気づいているのだろうか。だがきっと、彼にならできるだろうし、必要なら、やるだろう。
「なんのために、そんなことを」
「ただの自己満足です。あと、お金ですね」
ネフタールははっきりと宣言した。そう、呆れかえるほどはっきりと。シャーリエルはすっかり毒気を抜かれたような顔になっていた。
「あ、そう。もういいわ。これ以上聞くのが馬鹿らしくなってきた。それで、これからどうするつもりなの」
「帰りますよ。報酬もいただきましたし。なにより畑をほったらかしにしたままなんですよ。作物が駄目になったら大変です」
また冗談とも本気ともつかないことを言う。
「最後に、エリサマリルさん。命は一人に一つの、大事なものです。軽々しく取引に使ってはいけませんよ。ではお二人とも、お元気で。依頼でしたらいつでも歓迎します。ごきげんよう」
ネフタールは二人に背を向けた。
これから、か。エリサ姫はその言葉で思い出した。私の人生はこれで終わったわけではないのだ。
生きるんだ。何があっても、あがいてもがいて、死ぬまでは生きるんだ。そう決めたのだから。
エリサ姫はふと、あの張り紙のことを思い出していた。
「あの、ネフタールさん」
そして去っていこうとする彼の背中に声をかけた。
この事件を境に、大陸一の美姫と謳われたエリサマリル姫の行方は誰にもわからなくなった。
他の街にいて難を逃れた兵士たちが王都を調査したところ、見つけることができたのは夥しい数の死体だけだった。
ヤネックの後を継いだ王弟はエリサマリルは死んだものとして扱い、荘厳な国葬を執り行った。多くの国民と、彼女に熱を上げていた諸外国の王侯貴族も参列し、彼女の死を悼んだ。
遠く離れたセンダ国にちょっとした噂が流れた。
眼鏡をかけた、大層な美少女がいるというのだ。メイド服を着た彼女を住民たちはよく見かけるようになり、実際のところ非の打ち所がない美しさを持っていた。
彼女がどこに住んでいるか突き止めようとした者たちは、旧市街地に入ったところでそれきり消息を絶つことになるのだが。
そして、まだ幼いのに大きな胸を持った女の子もそのあたりでたまに見られるようになった、とも。
メイド服を着て眼鏡をかけた少女は、自分の人生を生きる喜びに満ちているようで、とても幸せそうだった。
旧市街地のとある家の小さな庭に、色とりどりの花が咲き誇っていた。
読んで頂きありがとうございました。
これにて完結です。




