払暁
宮殿の兵をすべて殺したネフタールは草花の彫金が施された扉の前に、甲冑を着た男の姿を認めた。仁王立ちした彼の双眸は血走り、口からは荒い息を吐き出している。右手に剣を握った彼は、アフトーサの国王ヤネックであった。
「姫は、渡さぬぞ、ネフタール」
ヤネック王が喉を震わせた。
「姫は私の、全てなのだ。絶対に、誰にも渡さぬっ」
剣を上段に構えた姿は、騎士ほどではないにせよ見事なものだった。だがその刃が殺戮者に届くことは彼自身も期待していなかっただろう。踏み込んだ彼の剣が振り下ろされる前に首が飛び、床に転がった。残った胴体が崩れた。
ヤネック王の死体を一瞥してからネフタールは手近な部屋からカーテンを持ってきて、その上にかけた。
改めて姫の居室の前に立ち、剣を振った。魔法の力で閉ざされていた扉があっさりと分解された。
その向こうに、椅子に座ったエリサ姫が待っていた。
「お待たせしました。あ、ノックをすべきでしたか」
剣を収めたネフタールにエリサ姫が苦笑を返した。それはやはり、悲し気な笑みだった。
エリサ姫はカーテンに覆われた父の死体を見た。宮殿を守っていた兵士たちの成れの果ても。
「本当に皆、亡くなってしまわれたのですね」
エリサ姫は目を伏せた。最後まで残ると父が言った時からこうなることは予感していた。だが、実際に見せつけられると胸が痛んだ。邪神に生贄を捧げることを選んだとしても、やはり父は父だった。
「はい、アフトーサの兵は最後の一兵まで逃げずに戦いました」
静かに告げるのは殺戮者、ネフタールだった。王都に集結した五万もの兵をたった一人で殲滅した男。
「そう、ですか」
「あまり気にしないでください。その手段を選択したのは僕ですから」
ネフタールはそう言った。
宮殿を出ると、王都が廃墟になっていた。崩れ落ちた建物と通りに散乱する兵たちの残骸が篝火や魔法の光で照らされて見えている。街を覆う壁もところどころ壊れていた。門は完全に崩れている。
最後に自分の足で街に出たのはいつだっただろう。まだ病気になる前だった。侍従と、父と、護衛の騎士たちと一緒に街を歩いたのだ。道ゆく人々はみんな笑いかけてくれて、エリサ姫も手を振ったことを覚えている。
それももう全部、壊れてしまった。人の気配は全く感じられない。東の空が白みがかり、壊滅した街の姿を浮かび上がらせようとしていた。
死んだ。本当に、死んでしまった。エリサ姫を守るためわざわざ外国からやってきた兵士たちも、アフトーサの兵士も、王が提示した報酬につられて参加した冒険者も、志願した民兵も、巨体に愛嬌のある顔つきをしたカーンも、仮面で顔を隠したオルソンも、何度もエリサ姫の診察に来てくれたサルカルも、騎士団長のアクトも。
「あの、シャーリエル様は、どうなりましたか」
戦いが始まる直前に、彼女だけは殺さないでほしいとエリサ姫は泣いて頼んだのだ。
「両腕を落として気絶させただけで、殺してはいませんよ。戦闘の巻き添えになっていなければ生きているでしょう」
彼がそう言うのなら、そうなのだろう。彼は言ったことを必ず実行する。エリサ姫は少しだけ安心した。シャーリエルを選んだことに後悔はない。文通で外の世界のいろんな話をしてくれた彼女だけは助けたかった。でも、大勢の中からたった一人だけを選ぶ行為は、それそのものが残酷ではないのか。
「この騒動に何の意味があるのでしょう。私なんかのために大勢死んで、彼らの人生はなんだったのでしょうか……あまりにも虚無で、理不尽では」
エリサ姫は述懐した。
「はい、世界はもともと理不尽で残酷です。そして誰もがその片棒を担いでいるんですよ」
そう言うネフタールの声音は優しかった。内容は別として。
「だからといって嘆いていては何も始まりません。前を向いて歩いていくことが大事ですよ、どんな時でも。さて、行きましょうか」
ネフタールに促されて、エリサ姫は垂れた顔を上げてから頷いた。そう、私はこれから死ぬのだ。王都の外に出て、報酬として自分の命を捧げて、死ぬのだ。それが死者への贖罪になればいいのだけれど。
人のいなくなった通りを行く。門はすべて破壊されているから、城壁の一番近いところを目指した。傍まで行ったところで壁を切り崩しますから、とネフタールが言ってくれた。
道の先に、黒衣の男が立っていた。光彩のない黒い瞳と、こけた頬。疎らに生えた黒い髪はぴったりと撫でつけられている。
ヤネック王に生贄と引き換えにエリサ姫の延命を提案した闇の司祭、シンドッホだった。
「何も出来ぬ小娘かと思っておりましたが、誤算でした」
シンドッホが暗い声音で告げた。
「労せずして生贄を手に入れるはずが、台無しです。だがまだ終わったわけではありません。あなたの美貌にはまだ、使い道があります……魔術で生きた屍にして、どこぞの王侯貴族の元にでも潜り込ませてやりましょう」
二人の間に割り込むように、ネフタールが歩み出た。
生贄を欲する闇の司祭と、数万人を皆殺しにした殺戮者。どちらも邪悪と断じられて然るべき存在だ。
しかし、ネフタールは私を守ろうとしている。エリサ姫は理解していた。それが、依頼だから。
シンドッホが言う。
「ふん、殺戮者か。雑魚を大勢殺した程度でいい気になっておるのか。人間風情が。貴様も、ここに漂う魂たちも、せいぜい我が主上の糧になるがいい」
「うーん、ずいぶん大物ぶってますが、自分が小物だと気づいてない時点で、なんといいますか上滑りしているんですよ、あなた」
「なんだとぉ……」
場違いな言葉にシンドッホが目を細めた。
「だって、そうでしょう。王様を唆すところまではよかったんですけどね、エリサ姫にいらない話をしたのは完全に失敗ですよ。おかげで計画は頓挫、送り込んだ部下も殺されて、あなたは大慌てで飛んできたんですよね。小物以外にどう表現したらいいのか、僕にはわかりません」
シンドッホが怒りに頬をひくつかせ、そして笑った。
「カカッ」
彼の傍の空間にいくつもの闇色の穴が開いた。そこから無数の太い触手が恐ろしい速度で伸びてくる。
エリサ姫も標的になっていた。触手が迫る。反射的に目をつぶろうとしたが、歪な肉塊が明後日の方向に斬り飛ばされていった。
気が付いた時にはすべて終わっていた。ネフタールが動くところは全く見えず、エリサ姫に知覚できたのは、勝手に切り刻まれる触手の群れと細切れになったそれが石畳に落ちる音だけだった。
ネフタールはほど近い場所にいた。彼は両手両足を切り取られて芋虫みたいになったシンドッホの背中を踏みつけていた。
「うぐ、ぐぅっ……」
芋虫が呻いた。
「この方が元凶、ということですよね。さて、どうしましょうか」
「どう、とは……」
ネフタールが何を求めているのか、エリサ姫にはわからなかった。
「殺してしまうのは簡単なんですが、知っての通り僕は殺しの仕事は受けません。止めを刺すのならあなたがやるべきですね。ご安心を、もう魔法も何一つ使えませんから」
「このまま放っておいても、亡くなるのではないのでしょうか」
エリサ姫が言うと、ネフタールは首を振った。
「いえ、再生できないように斬りましたが、生き残る可能性はゼロではありません。万が一生き残ったら、次はもっとひどいことを企むでしょう。まあ僕に復讐にするのが先でしょうけどね。お決まりのパターンの一つです」
シンドッホが顔を上げた。
「ひ、姫様……どうか、どうかご慈悲を……」
彼は泣きそうな顔で命乞いをしていた。
「これは、私の本意ではないのです……ダル・マルディンから、生贄を強要されて……こうするほかはなかったのです。どうか、ごうかご慈悲を……」
エリサ姫はシンドッホを見下ろした。この男のせいで、全てが滅茶苦茶になってしまった。自分一人が死ねば終わるはずが、大勢の人が死んだのだ。
「使いますか」
ネフタールが鎌様のナイフを差し出した。屈曲した柄尻には指を通すための輪がついていた。
震える手でエリサ姫はそれを受け取った。
「どう、すればいいのでしょう」
「首の動脈を切れば済むでしょう。脳への血流を断てば死ぬはずです」
ナイフをシンドッホの首筋に当てる。彼は呻きながら泣きながら、冷たい刃を見つめていた。
重苦しい静寂が数秒続いた後、エリサ姫はナイフを離した。
「すいません、私にはできません。いくら悪人といえども、人の命を奪うのは、どうしても……」
「そうですか。それがあなたの選択なのですね」
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません。あなたは頑張りました。この方が生きるも死ぬも、あとは運次第です」
エリサ姫はシンドッホに背を向けた。
「ひ、ひひっ、ありがとうございます姫様、ひっひひっ」
奇妙な笑い声が上がった。
その直後に何かが転がる音が聞こえた。
エリサ姫が振り向くと、シンドッホの首が胴体から離れていた。
足を上げたネフタールが、その生首を踏み潰した。
「……ど、どうして」
「さて、なんのことでしょう。依頼とは関係なく、僕が殺したいから殺した、ただそれだけです」
ネフタールは澄ました顔でそう言った。
「行きましょう」
城壁を目指して歩きはじめる。病に蝕まれた身体にはひどく遠く感じられたが、エリサ姫は弱音も吐かずに歩き続けた。ネフタールは穏やかにそれを見守っていた。
聳え立つ壁に近づいていくと、ネフタールが「そこで止まってください」と言った。彼が壁の上端まで飛び上がった。着地と同時に轟音を響かせて分厚い壁が吹き飛んでいた。全長九十センチ程度しかない剣で、どうやってか斬り飛ばしたらしい。
瓦礫もきれいさっぱりなくなって道になっていた。ここを抜ければ、もう王都の外だ。
エリサ姫は足を踏み出した。
東の空に朝日が昇っていた。茜色の光が地平線の向こうから顔を出し、山を、草原を染めている。
「……綺麗」
思わず、そう呟いていた。こんな景色は初めて見た。涙霞で視界が歪む。
一つだけ確かなことがある。エリサ姫は自ら望んでこの惨事を引き起こしたのだ。そして、その結果として、自らの足で王都を出て、朝日を目にした。数多の命の代償の上に得られたものが、それだった。
「これで僕の仕事は終わりですね」
古い友人に向けるような自然な笑みでネフタールが言った。
「報酬を頂けますか」
そうだった。依頼は生きたまま王都を出ることだった。それを果たしたのだから彼には報酬を払わねばならない。
「宮殿の宝物庫に……」
「いえいえ、一日で終わった仕事でそこまで頂くわけにはいきません。いま、あなたが身に着けているものだけで結構ですよ」
エリサ姫は手を差し上げて嵌っている指輪を見た。父が十六の誕生日に送ってくれたものだ。気に入って、ずっとつけていた。だけど、もう父はいない。
「では、これを、どうぞ」
ネフタールは丁寧に指輪を受け取った。
「ありがとうございます。報酬、確かに頂戴いたしました」
「もう一つの報酬も、受け取って、ください」
エリサ姫はそう言った。報酬として提示した、自分の命。呼吸が荒く、苦しくなっている。心臓も。胸が痛い。
血の気が引いた顔を見てネフタールが目を細めた。あるいは、何かを見極めようとしているような、鋭い視線。真摯で、真剣な瞳。
「よろしいのですか」
彼は念を押した。
「はい、いまのうちに……お願いします」
できるだけ苦しまずに死にたかった。
「まだ頑張れば生きていられると思うのですが」
エリサ姫は首を振った。
「それは、なりません。私一人のわがままで多くの人を死に追いやってしまいました。せめて、この命を捧げることで、お詫びをしたいのです」
「亡くなった方は、それを望んでらっしゃるんでしょうか」
「えっ」
何、それは。どういう意味なのだろう。
「よろしければ確認してみましょうか。まだ亡くなったばかりですし、声を聞くこともできると思いますよ」
ネフタールが袋を取り出した。中身を全部地面にあける。不思議な匂いのする香だった。
「これは反魂香といって、死んだ方の魂を見ることができる、魔法の香です。立場を気にする必要がなくなるから、死後の方が素直になることが多いんですよ」
乾燥した茶色の粉末に火をつけると細く昇った煙の向こうに、薄い、半透明になった人々が見えた。ネフタールが殺した兵士や騎士たちだ。彼らの魂が、そこにいた。
「……お父様」
その中に父の姿を認めた。死んだ時と同じ、甲冑姿の彼はにこやかに微笑んでいた。




