殺戮者のノスタルジー
ある少年がいた。
どこにでもいるただの高校生だった。
その世界、その国では超能力が犯罪者として暴れていた。異世界からやってきた人食いの怪物がいた。無数の脅威が日常に潜んでいた。
だから政府は少年少女も戦いに投入した。
一緒に戦う少女たちは、善人だった。
善人過ぎた。
ある犯罪者を追い詰めて捕まえた。殺害もやむなしとされていたが、彼女たちは生け捕りにしたのだ。警察に引き渡したその男は、三日後には脱走した。そして自分を捕らえた少女たちに復讐しようとした。
だから、少年はそいつの頭に銃弾を撃ち込まなくてはならなかった。
初めての殺人は、少年にこの上ない悦楽をもたらした。
少年は生まれついての快楽殺人者だった。
門前に集まった兵たちの頭上を飛び越える巨漢がいた。ルイカルネ級冒険者、"剛腕"カーンであった。彼は雄叫びを上げた。
篝火に照らされた人影が見えた。根元から切っ先まで真っ直ぐに伸びた片刃の剣を握り、灰色の外套を着た青年。それがネフタールだった。口元にはある種の不気味さを帯びたアルカイックスマイルを浮かべている。見開いた両目はぐるぐると眩いていた。
魔術師たちの攻撃を掻い潜り、何トンもの重量を持つ門扉を一撃で蹴り飛ばした怪物に向かって、カーンは怯みもせずに突進した。
ただ一太刀。
愛用の大剣を構え、魔人めがけて、己が渾身の力を、人生を、全てをかけて、剣を。振り下ろした。
破裂音が響いた。
武骨な刀身が半ばほどから断ち切られて宙を舞った。それと一緒に高く舞い上がったのはカーンの生首だった。
ネフタールの剣が振り下ろされる大剣とかち合い、両断し、そのまま首を通り抜けたのだった。その場の誰も、何が起こったのか見えていなかった。いやカーンだけはかろうじて見えていたかもしれない。彼の目は信じられないというように瞠目していた。
首なしになったカーンの身体が縦に割れた。落ちてくる生首も頭頂部から正確に二等分された。断面から脳が零れ、石畳に落ちて潰れた。
ネフタールの姿が霞んだ。門前の広場に展開していた兵士たちの首が飛び腕が飛び甲冑ごと輪切りにされた胴体が飛ぶ。兵だけでなく冒険者や志願した民兵たちも一緒くたに解体されていく。広場は瞬く間に血の海になった。
「ひっ」
「なん……」
「えっ」
今度は壁上にいた兵士たちが餌食になった。一般の兵士たちでは彼の姿を見ることすら叶わない。魔法で視力や反応速度は強化されていたがそれでも捉えられない速度でネフタールは駆けていく。彼が通った後で生きている者は一人もいない。悲鳴にも構うことなく殺戮者は血と肉片をまき散らしていく。壁上から落ちた生首が血の糸を曳きながら地面にぶつかって湿った音を立てた。
滅茶苦茶な方向に眩くネフタールの瞳に映るのは殺すべき相手と、そして昔の情景だった。
それからも少年は、ひっそりと犯罪者を始末していった。
悪いことをしたのだから殺しても構わないとは思わなかった。
ただ、自分と自分の周りの人、そして無辜の市民を守るためには仕方がないと思っていた。
本当は悪いことのはずなのに。少年は人殺しが楽しかった。そんな自分を嫌悪してもいた。
それなのに殺すことだけはやめられなかった。
僕は生きていてはいけない人間なのかもしれない。
でも、共に戦う少女たちは優しかった。人殺しだとも知らずに少年を支えてくれた。
大丈夫だ、やっていける。皆のためなら何人だって殺してやる。
そう思っていた。
そう思っていたんだ。
ネフタールは長大な城壁を一周して兵を皆殺しにしていた。門を崩して逃げ道を塞いでもいた。飛行魔法が使える者は一人残らず叩き落した。墜落した彼らは血をまき散らして地面にへばりついた。
街の中に残った兵を殲滅すべく、彼は飛んできた火球を切り飛ばしながら壁から飛び降りた。その場にいた女性冒険者の頭を叩き切る。
着地した瞬間、足元の影から短剣を握った腕が伸びた。膝上を狙った一撃。
血が散った。前腕の手首側から切断された腕が転がった。
ネフタールは影に向かって剣を突き立てた。刃が根元まで石畳に、いや、影に沈み込んだ。
「う、ぐっ」
小さな呻きが聞こえた。剣が引かれて胸を貫かれたままのオルソンが影から引きずり出された。左手だけで刀身を掴んだ彼の顔から仮面が落ちて乾いた音を立てる。いかなる表情も浮かべることができない、白い髑髏の顔。瞼のない目がネフタールを睨んでいた。
それは、あるいは笑みだったのかもしれない。
「くたばれ」
オルソンは言った。瞬間、轟音と閃光が二人を包んだ。体内に仕込まれた爆弾によるものだった。傍のレンガ造りの建物が半壊した。
オルソンは影も形もなくなっていた。落ちた仮面も消えていた。濛々と立ちこめる土煙の中からネフタールが現れた。何事もなかったとでも言うように、アルカイックスマイルを浮かべて。
殺戮が再開された。新たな軍勢が目の前にあった。恐慌状態に陥った冒険者たちと他国からやってきた援軍たち。逃げ惑う彼らの背中を串刺しにし、円を描くように抉る。武器を放り投げて助けてと叫ぶ若い冒険者の頭が鼻の半ばほどから斬り飛ばされた。
頭の中に響く声があった。
「ねえ……キミは、ボクのこと、好き、かな、なんて」
学校からの帰り道。彼女が冗談めかして問うた。話し方は少年のようだが声音は少女のそれだった。
活発で、男の子っぽいところがある少女。それだけは覚えている。顔は靄がかかったようでよくわからない。忘れてしまっていた。名前も。
少年は彼女を見て答えた。
「うん、好きだよ」
少女が俯いた。
「キミは、嘘が、下手だね」
少女は呟くようにそう言った。
場面が移る。そこは自室だった。ベッドの端に座った少年は服を着ている。背中越しに声がかけられた。
「ねえ……君、私のこと、好き、だよね」
シーツで裸を隠した少女が問うた。ちょっと強気なところがある女の子、だったと思う。やはり顔も名前も忘れているのに、それだけは覚えていた。
少年は振り向いて、なんとか微笑を作って答えた。
「うん、好きだよ」
少女が涙声で言った。
「……やっぱり、嘘が下手ね」
そのまま彼女は顔で手を覆って泣き出してしまった。少年は何もできずに固まっていた。
また場面が移る。それは女教師と逢瀬を交わしたときのことであり、背の小さい同級生の少女と唇を重ねた時のことであり、胸が大きいお嬢様然とした振る舞いをする少女とデートをした帰り道のことであり、仲間たちの間でもリーダー格の凛とした少女に抱き締められた時のことでもあった。
彼女たちは一様に同じことを尋ね、少年は同じ言葉を返した。彼女たちの反応は同じように悲しげなものだった。
少年は共に戦う少女たちから好意を寄せられていた。
だから、好意を返そうとした。それが正しいと思っていた。そうするべきだとわかっていた。なのに、それができなかった。
彼女たちは本気で少年を愛していた。愛してくれていた。こんな、どうしようもない快楽殺人者を。
なのにどうして気持ちに応えることができないのか。せめて、ただ一人だけでもそうしてあげたかったのに。大事な仲間なのに。
でもきっと、それが僕という人間なのだろう。
少年は一人、何かを諦めたような気怠い溜息を吐いた。
老魔術師サルカルは血を吐いた。白かった髭は赤黒く染まっている。
教会の鐘楼に上った彼はネフタールに幾度となく魔法による攻撃を加えていた。巨大な火球をぶつけようとした。雷撃を浴びせかけた。不可視の熱線を投射した。すべて打ち返された。
手を変えて奴の動きを阻害しようとした。幻影を作り出した。すべて無効化された。
魔法が無力化される度にサルカルの身体に傷が増えていった。右目はもう潰れて見えない。左腕は根元から断ち切られていた。緑色のローブが赤の斑模様になっている。指も何本か落ちた。内臓もずたずただ。裂けた腹から腸がはみ出している。足元に転がっているのは右の腎臓だ。しかも回復魔法を使うと傷が腐っていくのだ。だから左足を自ら石化させてやっと立っている。
街を守る兵士全員にかけた増強魔法も役に立っていない。ネフタールが速すぎるのだ。
騎士たちの思念が流れ込んでくる。我々ごと吹き飛ばしてくれ、と。魔術師たちがタイミングを合わせる。サルカルも最大の魔力を込めた。
死を覚悟した騎士たちの首がまとめて飛んだ。瞬間、全てを焼き尽くす業火が、空から稲妻が、建物を貫いて破壊光線が、そしてサルカルが上空に練り上げた直径三百メートルにも及ぶ見えない魔力の杭が、兵たちの死体ごとネフタールを襲った。
すべて斬り落とされた。
炎も雷撃も光線も杭も、一瞬で掻き消えた。
馬鹿な。驚愕するサルカルの右肩から心臓を通って左脇腹までが両断されていた。ずるりとずれて、落ちる。遅れて胸から下の部分が崩れ落ちた。目の前が暗くなる。
まだ、せめて、もう一撃。だがもう指一本動かせない。
「儂も、今、そちらに……」
やっとのことでそれだけ言って、サルカルの意識は闇に落ちた。
もはやまともに戦う意思を持っているのはアフトーサの兵たちだけだった。怒涛のように迫る血肉の嵐に向かって兵が、騎士が、悲鳴にも似た雄叫びを上げて立ち向かう。
ネフタールが剣を振る。飛んだ兵士の生首が地面に落ちる前に騎士を兜と甲冑ごと唐竹割りにして左右に分かれた身体が倒れる前に魔術師の胸を貫いて心臓を抉りそのまま胴を引き裂いて彼が息絶える前にさらにもう一人の騎士の両手足を切断してから輪切りにした胴から内臓が零れ落ちる前に剣を数千万回往復させて別の兵士を原形を留めぬ液体に変えた。
血の快楽に酔いつつも、ネフタールは冷たく冴えた芯で何かを見据えていた。
少女たちと共に少年は敵を追い詰めた。女子供も殺す、快楽殺人者。彼はどこにでもいる三十台程度の男性に見えた。
夜の廃工場で、彼は言った。
「俺は、殺すことが楽しくて楽しくてしょうがないんだ。妻も、娘も、自分で殺してしまった。愛していたのに。でも、楽しくて、楽しくて……畜生、なんで、こんな」
男は泣いていた。
「好きでこんな風に生まれたわけじゃないんだ。仕方がないんだ。こんな俺にだって、生きる権利が、幸せになる権利が、あるはずだろう」
言い訳ではなく、男は本気でそう言っているのだとわかった。
男は少年の同類だった。
そして少年はちょっと安心した。僕は誰も愛していないから、この人のように悲しんだりすることはないのだ、と。
彼と僕とは、どう違うのだろう。銃を向けたまま少年は考えていた。きっと何も変わらないのだろう。ただ、踏み外したか、そうでないかの違いでしかない。
「そんなわけないでしょう」
気の強い少女が言った。
「あなたのような人殺しが幸せになってはいけない」
男に向けられているはずの言葉が、少年の胸に突き刺さった。
そうか。
僕は幸せになってはいけないのか。
男が泣き笑いの表情を作り、ナイフを自らの首に突き刺した。血が噴き出した。男は顔を血で濡らしながら最後まで泣きながら笑っていた。自分の死にも快楽を覚えているかのように。
少年は動けずに倒れた男の死体を見ていた。
翌日、少年は学校を休んだ。
さらに翌日、少年は壊れた。
シャーリエルは何十本目かの矢を放った。また打ち落された。彼に向かう百発百中の矢は全て叩き落されている。
民家の屋根に上った彼女は笑みを浮かべていた。
「キャハッ」
死が近づいてきている。スリルが沸き上がる。
シャーリエルは同時に三本の矢を射た。高い風切り音が鳴った。数百メートル先、血飛沫が作る竜巻、その中心に向かって矢が吸い込まれていく。闇に煌めく銀光が矢を叩き落した。
もう一度矢をつがえようとしたシャーリエルの目の前にネフタールがいた。不気味なアルカイックスマイルを浮かべた顔と眩く眼球。弓を持つ腕が肘から少し下で切り落とされた。短刀を抜こうとした左腕も同様に落ちた。滑らかな断面から骨と筋肉と皮膚の層が見えて、すぐに赤い血で覆われた。反撃手段は、ない。
幼い少女の顔が極大の恐怖とスリルで捩れに捩れた。高速の平手打ちが顎を打った。シャーリエルはその場にくたりと崩れ落ちた。腕の血はすぐに止まっていた。
殺すべき敵を求めてネフタールが跳ぶ。兵士の一団、五人。他の兵士とは異なる雰囲気。一様に陰鬱な笑みを浮かべている。その姿が闇を巻いて一瞬後には異形の怪物に変わっていた。
「シンドッホ様の計画は邪魔させん」
怪物が言った後でネフタールが通り過ぎた。肉片が飛散した。転がったそれらから細い触手が伸びて絡み合おうとしていたが、やがて腐って溶けた。
通りすがりのサラリーマンの頭を撃ち抜いた。逃げるOLの首を背後から掻き切った。固まっている小学生の頭に斧を叩きつけた。横殴りに振った斧が買い物帰りの主婦の首を飛ばした。公園で散歩している老人にモザンビークドリルを決めた。駅の階段から手榴弾を投げ込んだ。血みどろになって逃げ惑う人々に銃弾を浴びせたり切ったり刺したりした。虚ろなアルカイックスマイルを浮かべながら。追ってくる警官も片っ端から撃ち殺した。
少年は道を踏み外したことを自覚した。だけどもう止まらなかったし、止めたところでもう遅かった。
幸せになれないのなら、自分でできることをやるしかない。
それはつまり、殺すことだった。
今まで本性を隠して積み上げてきたものは、全て無駄になった。
少年にとっては殺戮とそれに伴う快楽だけが確かなものだった。
少年は一般市民を五十四人、警察官を四十八人殺した。
少年を止めるために、かつての仲間たちが差し向けられた。警察も特殊部隊を動員して追い詰めた。
戦いは丸一日続いた。
夜になり、逃げ込んだ森の中で傷ついた少年は、ついに仰向けに倒れた。
「どうして……」
追ってきた少女たちは少年を囲むようにして立っていた。ある者は涙を浮かべ、ある者は困惑の表情で、少年を見下ろしていた。
「僕は……もともとこういう人間だったからだ」
それ以外に答える言葉がなかった。
「殺してくれないか……どうせ捕まっても間違いなく死刑だ。僕は生きている限り……同じことを、繰り返す。だから殺してくれ、今のうちに」
それに。少年は自嘲した。人殺しは幸せになっちゃいけないんだろ。
少女たちは動けなかった。もう少年には死ぬ以外の道は残されていないと誰もがわかっていたから。
そう、『この世界』では。
僅かな沈黙の後、気の強い少女が少年の前に進み出た。
「私の能力は、知ってるわよね」
仲間たちはいずれも不思議な力を持っていた。超能力、とでもいうのだろうか。彼女のそれは空間を自在に操り、時には次元を超えて移動することができるというものだった。
「あなたを殺したくないし、死んでほしくもないの」
彼女が手を翳した。少年の視界が歪んでいく。
やめろよ。そう言おうとしたが、もう言葉が出なかった。
「どこに行くかは私にもわからない。もう二度と会えなくなるけど、でも、でも……」
少女は泣いていた。
暗くなって、何も見えなくなったかと思った一瞬後には景色が切り替わっていた。
少年は見知らぬ草原に一人、倒れていた。夜だったはずが昼間になっていた。数回呼吸すると体力が戻ってきた。立ち上がって見回す。遠くに村みたいなものが見えるから、一応人が住んではいるらしい。木造の質素な家。まるで、大昔の農村みたいな。
ここは地球ではないのかもしれない。尻尾が二本ある狼のような生き物が群れで襲ってきたので皆殺しにした後、少年は思った。どうせ送るのなら酸素も何もないところがよかったのだが。
生きてしまった。生き残ってしまった。だから生きていくしかない。
しばらく彷徨うと林の中で山賊らしい格好をした人間たちを見つけた。横には何人かの女性が縛られていた。人身売買か何かだろうか。気づいて声をかけてきた山賊らしき人物が剣を抜いたので殺した。他の連中も襲い掛かってきたので全員殺した。最初から殺すつもりで近づいたのだ。
縛られていた女性たちが戸惑いの表情を見せ、それから歓喜の声を上げた。それもすぐに止んだ。少年が不気味なアルカイックスマイルを浮かべて近づいてきたからだった。
悲鳴が響いた。
ああ、やっぱり人殺しは楽しいな。少年はしばらくその場に陶然と立ち尽くしていた。
宙を舞う金属製の球体群が襲い掛かってきた。戦闘用の自律魔導機械。中心のレンズから光線が伸びる。ネフタールはそれを躱し、弾き、ついでに球体もいくつか破壊した。
生き残ったそれらが引いた先に白銀の甲冑を纏った騎士がいた。その両側には青い甲冑姿の騎士が控えている。
総髪を夜の風に靡かせた眉目秀麗たる白銀の騎士の名はアクトルン・オーリィン・トールランスであった。アフトーサが誇る若き騎士団長。両手に一振りずつ握った剣は淡い燐光を発している。彼の甲冑も、横の騎士たちが纏うそれも、高度な魔術処理が施された品であることを感じさせた。ネフタールを見据える彼の瞳に燃えるのは暗い情念だった。部下であろう青い甲冑の騎士の顔は兜に隠れて見えない。
「……戦勝神よ、照覧あれっ」
アクトの剣が霞んだ。二人の騎士が恐ろしい速度で両側に回り込みそれぞれ時間差で打ち込んだ。球体が白色の光線を放つ。
無数の輝きが散った。
それは根元まで分解されたアクトの剣の、その刀身だった。
二人の騎士が胸の、ちょうど心臓の高さで水平に両断されていた。断面からずれ落ちる。べちゃり、と血が跳ねた。
弾き返された光線が球体を破壊した。
全て瞬きする間に起きた出来事だった。
「あ、ああああああああ」
アクトの顔面が恐怖に歪んだ。彼の腕は籠手ごとずたずたに引き裂かれていた。
「姫、姫、姫を殺して私も、死ぬのだっ」
逃げ出したアクトの背中を片刃の剣が串刺しにした。そして彼の身体は破裂したかのように消し飛んだ。皮膚と肉と骨と血が混ざったどろどろの液体が飛散した。
「ネフタール、ネフタアアァァァァァルッ」
叫び声がした。ネフタールは背後を振り返った。声の主はまだ若い兵士だった。
「わかっている、わかっているさ。お前に敵うはずはないと、わかっている。俺はただの兵士だ。お前からしたら吹けば飛ぶような、ちっぽけな存在だ」
兵士の足は震えていた。口上を聞くネフタールは変わらずアルカイックスマイルを浮かべていた。
「だが、絶対に逃げたりはしない。名もない、ただの人間にも、矜持があることを教えてやるっ」
兵士が槍を向けた。
ネフタールは軽く両手を広げた。突いてこい、とでも言うように。
「参るっ」
決死の覚悟で突き出した槍の穂先がくるくると回転しながらすっ飛んでいった。柄が細切れになった。そして兵士の首が飛んだ。転がった生首は、別の兵士の死体に当たって止まった。
それで街から生命の気配は完全に消えた。ネフタールが城門を破ってから三十分程度しかかからなかった。
残るは宮殿だけだった。
こちらにやってきてから少年は気ままに生きることにした。生活費は山賊や追いはぎから譲ってもらったりした。私利私欲のために誰かを殺したりしたくない。殺人はあくまで趣味であり存在証明なのだから。
少年が得た知識だと、ここはやはり地球ではないようだった。見たこともない生き物や植物があったからだ。
適当に人や怪物を殺しながらなんとか言葉にも慣れたころ、小さな村に立ち寄った。宿の裏手で剣の素振りをしていたら小さな子供に声をかけられた。曰く、村を救ってほしい、と。
どうやら冒険者か何かだと勘違いされたらしい。子供は目を輝かせていた。当時はまだ一秒間に数百回しか振れなかったのだが。
村長のところに案内された。すると村中の大人たちが集まってきて、頭を垂れてこう言ったのだ。
「旅の剣士様、どうかお願いです。怪物からこの村を守ってほしいのです」
村の傍に怪物の群れが住み着き、人々を食い殺しているのだという。貧しい村ではギルドに依頼してもろくな報酬が出せず、冒険者たちからも無視されているということだった。
少年は聞いた。
「それであなた方は幸せになれるのですか」
「はい、間違いなく」
村長は頷いた。
「わかりました、やりましょう」
提示された報酬は金額にして十万ルル。都市に住む平民の月の稼ぎにも満たない。それが貧しい村に出せる精一杯だった。
少年は怪物たちの住処を見つけ出して、一匹残らず皆殺しにした。小さな幼獣も、それを守ろうとする母も。最後に群れのボスの生首を切り取って村長に渡した。
「ああ、ありがとうございます剣士様。これで村は救われました」
村長と村人たちは礼を言った。
少年は誰も殺さず、十万ルルの報酬を受け取って村を去った。
村人たちの感謝の言葉は、少年に殺戮の愉悦とは別の、奇妙な心地よさを与えていた。
その時すでに、少年は自分の名前を忘れていた。かつての仲間だった少女たちのそれも。だけど棘のように突き刺さった言葉は覚えている。人殺しが幸せになってはいけない。
だが、人殺しが誰かを幸せにしてはいけないということにはならないだろう。
ネフタールはエリサ姫の顔を思い出した。眼鏡の下のその瞳を。幸せも、生きる権利も放棄したかのような寂し気な光を。哀切に満ちた声音を。
残念なことに世界は残酷で、理不尽で、そしてネフタールは全能の神ではない。だから全ての人を幸せにすることはできない。
結局、僕にできるのは殺しだけだ。
遠い異世界で無関係の姫の願いを叶えたところで、かつて関わった少女たちが救われるわけでもない。それは百も承知している。
自分が殺戮者であることを悔いてもいない。いまさらそんなことをして何がどうなるというのか。
ただ、目の前に果たすべき約束があるのなら、全力でそれを実行する。そのためなら何万人殺しても構わない。全てを諦めてしまった少女の、最後の願いだけはせめて、叶えてやりたかった。




