森の中のカメレオン
その瞬間に自分の体は木の幹に叩きつけられた。あとから頬が痛むのを感じ、自分が殴られたのだと分かった。体が軋んで声が出ない。体を丸めて、うずくまる。頭がぐらぐらするのと同時に口から鉄の味が広がる。口の中が切れてしまったらしい。意識が朦朧としながらも、頭を上げる。正面を向くと何か動いているのがわかる。
「人間?なぜ、人間がここにいる?ウァルガ王は何もおっしゃっていなかったが。まあ、いい。貴様たちは我が部族の仇だからな。何をしてもよかろう。」
緑色の動物が自分にかけてくるのがわかった。咄嗟に起き上って逃げようとしたが、木の根に引っかかってしまい地面を転がる。緑色の何かが木にぶつかり、木から貫通した何かが出てきた。
「珍しいな。我を視覚にとらえることができるとは。人間がそのような…。そういえば、人間は我々と見え方が違うのであったな。あのじじいが言っておった。本来なら見えないはずだが。運がよかったな。いや、運が悪かったのか。これから我と我が同胞にいたぶられるのだからな。死んだほうがよかったのかもしれん。」
貫通したものが舌であることがわかった。そして、緑に見えた動物の体が黒くなっていく。その形からも動物がカメレオンであることがわかった。ただ、体長は俺と同じくらいの160センチはある。こんなときでもやはりここが異世界であったと考えてしまう。しかし、こんな時でも頭は回っている。
カメレオンの黄色の眼が俺を捉える。カメレオンの眼は体に対して大きいため、睨まれると体が委縮してしまう。カメレオンはそんな俺をずっと見ていた。
「人間は色を見分けることができる分、勘が弱くなっていると聞いたが、個体によって違うのだな。大概の人間はこの攻撃で死んだように思うが、貴様は普通と違うようだな。それもそうか。こんなところまで、偵察に来るような人間がそこまで弱くはないか。さてと。舌も戻ってきたことだし、次は外さないぞ。人間。」
カメレオンが俺に襲い掛かる瞬間に目の前に何かが立ちふさがった。シェイラが俺の前に立っている。一瞬、朝見たときは違い、緊張した面持ちに見えた。カメレオンのほうに顔を向けているので、今は全く見えない。
「シェイラ!」
彼女に声をかけたのが、俺であることに俺自身が驚いた。
「彼は客人である。迷い人であり、この世界とは何の関りもない人間だ。ウァルガ王は無用な殺生を禁止しておられる。カメレオン族よ、下がりたまえ。」
カメレオンは舌を器用に動かしながら、自分の体をなめていく。シェイラをなめることはなかった。カメレオンは俺から目線を外し、シェイラのほうを見ていた。
「今言ったことが本当なら下がってやってもよい。だが、それをどうやって説明できる。我が同胞はそのような甘言で次々と殺されていった。シェイラ、斥候隊隊長としては大きな汚点だろう。事前に情報をつかむことができず、かなりの部族を死に追いやったのだから。ほとんどの部族はウァルガ王に忠誠を誓って居るが、貴様に誓っているわけではない。」
「私は斥候隊隊長でもあるが、今は彼の身辺警護も任されている。彼がここに住むような野蛮な人間でないことはすでに分かっている。普通の人間であれば、貴殿を罵るはずだが、それをしていないはずだ。彼は我々のことを本当に知らないのだ。貴様が知る人間ではないだろう。」
カメレオンは未だに体を舐め続けている。カメレオンに舐める習性があるのだろうか。いや、きいたことがない。しかも、舌が長いのでそんな器用なことはできなかったはず。体温調節が難しいともいわれているが、この個体は変種か。今の気温は少し暑く、適温ではないはずだ。一体何がどうなっている。カメレオンはシェイラから目を離すことなく、話を続ける。1つの眼はシェイラに向けられているが、もう1つは俺に向けられている。そういえば、眼球が別々に動くのだった。
「ふむ。護衛か。要するにこの人間を殺すことはウァルガ王を侮辱もしくは顔に泥を塗るというところか。ただ、ヴァルガ王から説明はまだされていない。その上、彼はどこかに所属しているわけでないのであれば、今ここで殺したとしても顔に泥を塗ることはあるまい。それに議題にも上がっておらず、議会の承認も得られていないのであれば、貴殿が言っていることは意味をなさないな。」
「詭弁だ。どんなに都合の良い解釈をしたからと言って人間を殺した罪から逃れられるわけではない。それにウァルガ王は居城に迎え入れたのだ。それが客人以外の何にあたる。」
どうやら、このカメレオンは知性があり、部族の中でも位の高い者だろう。できれば相手にしたくないが、逃げられはしないだろう。少なくとも、俺の足で逃げ切れるような動物ではないだろう。足を見るとジャージが破けて、血が滴っている。今すぐに何かあるわけではないだろうが、白いものが見えているから思っているよりも深く切っているのかもしれない。すでに足が痛すぎて感覚が麻痺している。カメレオンが地面から木によじ登る。重力に逆らって木に吸い付いている。カメレオンは吸盤がついているのだったかな。そして、シェイラと俺をしっかりと見下ろしている。
「詭弁だろうが関係ないだろう。常に人間は自己中心的で臆病で弱いものを虐げる。それが人間という生き物だ。お前が知らないわけがないだろう。一族最後の末裔である、猫族のシェイラ。」
「え。」
シェイラが一族最後の末裔…。人間に滅ぼされたのか。シェイラはカメレオンを少し見て、俺に向き直る。しかし、その表情はとても凛々しく見えた。強がっているわけではないようだ。
「カツナリには関係のないことです。それよりも傷は大丈夫ですか。かなり深く見えますし、あなたの呼吸も乱れています。先ほどの打撃によるものだけではないでしょう。脳震盪を起こしているかもしれません。早めの治療が必要です。」
シェイラが俺に手を伸ばそうとすると、横から舌が伸びてくる。俺は反射的に目を閉じた。俺が思っているような衝撃はなく、目を開けると俺はシェイラにお姫様抱っこをしてもらっていた。それを見ていたカメレオンが感心したように言う。
「ふん、シェイラも成長したな。以前はわしらの前では震えていた餓鬼が今は隊長か。感慨深いものがある。だが、シェイラ。冷静に考えてわしに勝てるのか。貴様の強さもこの状況では発揮できまい。」
本来の強さか。いったい、どんな能力があるのか気にはなるが、シェイラに立たせてもらおうとするが、急に足の力が抜けて地面に座り込んでしまう。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。傷がかなり深いようだ。シェイラが心配そうに俺を見る。
「大丈夫ですか。」
「もうじき、死ぬぞ。そこの人間は。血を流しすぎている。シェイラ、見捨ててわしらに捧げろ。」
カメレオンが動くと同時にカメレオンの体が動いた反対方向に飛ばされた。カメレオンは木々を薙ぎたしながら飛んでいく。俺は再び、シェイラにお姫様抱っこされている。カメレオンが飛ばされた起点を見てみる。
「何をしているのだ。こんなところで。族長にしてはかなり遠出だな。自身の縄張りを忘れたか。」
遅れて俺の顔に風が当たる。巨大な体躯と大きな耳。間違いなくウァルガ王である。俺を見下ろし、シェイラを見て、カメレオンを見た。カメレオンは少しよろめきながら舌を木に巻き付けてこちらへ飛んでくる。目がせわしなく泳いでいる。先程とは違い、動揺しているようだ。シェイラも同じく動揺しているようだ。俺を支えている腕が震えている。
「王がなぜこんなところへ。」
「シェイラ、俺も随分と鼻が利くからな。特に血の匂いには敏感になったからな。さてと、カツナリは大丈夫ではなさそうだな。手当をしようかと思ったがこの状態ではな。まあ、カメレオン部族のカテーナ。貴様とは戦ったことはないが、俺に勝てるとは思えないな。どうするよ。」
カテーナと呼ばれたカメレオンはウァルガ王と対峙すると傷で血が出ている個所をなめていた。血の色は緑色である。しかし、体の傷は浅いようだ。すぐに復活をしているところをみると。
「なぜ、王が人間を許容するのだ。以前の対戦では猫族と兎族は壊滅的な被害を受けている。彼、いや人間を恨むことはないのか。」
「あるなしで言えばあるに決まっている。だがな、迷い人である彼を恨むのが見当違いなことを頭は理解している。それでいいんだよ。難しく考えなくて。」
ウァルガ王とカテーナはしばらく目を合わせていた。その間に、シェイラが俺のほうに来て傷口を見ている。シェイラは優しい口調で俺に言う。
「これはかなり深いわね。よく気絶しなかったわ。しかし、早くしないと出血がひどくて死ぬ可能性がある。早めに手当てをしたいのですが。」
「わかっている。ちょっと待っていろ。すぐに済む。」
シェイラが何かを言っていたが、それを聞いた瞬間に俺は気絶してしまった。