第5話 宿敵の予感
薄々は分かっていた。
迷宮の頂点に立つ真っ白の少女が本気になれば、ノストは脱走を試みることすら不可能だということは。
囚われの身でありながらこれまで不自由なく、むしろかなり自由に暮らせてこれたのは、ただただ少女の監視が緩かったためだ。
それに甘えて好き勝手をしてきたツケが、今回ってきた。
お目付け役として現れたのは緑色の大きなスライム。
少女が迷宮管理者の権限を利用して生み出した魔物である。
ちょっと大きいことを除けばスライムはありふれた魔物だ。
決して強いということはなく、正しい対処法さえ学べば倒せてしまう。
もちろんノストも対処法は知っていた。
触手や粘液に気をつけながら体内の核を壊す。動きが速いわけでもなく、彼の実力をもってすれば片手間で倒せる相手だった。
「動くな、動くなよ……そうだ、俺は何もしない。大人しくしている。だから、頼むからもうちょっとあっちに、できれば外に行ってくれ。頼むから」
触手をうねらせるスライムに対し、へっぴり腰で懇願するノスト。
その姿から本来の雄姿は欠片もない。
「えっ、無理? ちゃんと見張ってないといけない? はは、そうっすか。ですよねえ、ハハハ……はぁ」
何を隠そうこの男。
3年前のある時より、『触手恐怖症』なるものを患っていたのである。
忘れようとしても忘れられない。
彼がまだ囚われの身になってから日が浅く、自分の力を過信していたときのことを。
あろうことかノストは迷宮管理者の強さを容姿で判断し、勝てると見越して戦いを挑んだのである。
結果は散々なものだった。
少女は困ったような顔で少年を軽くあしらい、難なく無力化してしまったのである。
そのときに彼女の使った戦法が、『無数の木の根っこ』を操り、彼を『縛り上げる』というもの。
それはもう容赦なく、尊厳もなく、空中で大の字に縛り上げられた。
その姿のなんと憐れなことか。
体を這いまわる細い物体の感触。素肌に触れられた時の何とも言えない感触は鳥肌ものだ。
そしてそんな姿を少女の前に晒すという羞恥。明らかに手加減されたということもあり、悔しくて恥ずかしくて仕方がなかった。
そこで諦めて降参すればよかったのに、この男は無駄な意地を張り続けた。
やれ離せ、それで勝ったつもりか、やれるものならやってみろ、などと挑発までする始末。
なので少女は困り顔で言われた通りにやった。
根っこ、追加。
「ああああああああああああああ!」
思い出す度に身もだえする。
受けた仕打ちもそうだが、なにより自分の未熟さが恥ずかしくてしょうがない。
数ある黒歴史の中でも頂点に君臨する。
あれ以来、ノストは細いひも状のものが何本も蠢いているのを見ると反射的に体が震えるようになった。
49層のヘビはセーフ。
比較的大型の個体だからだろう。
ただし子ヘビの集団になるとアウト。
そして見せつけるように触手を揺らめかせるスライムは、もちろんアウトだ。
「あいつ、このこと知っててスライム送り込んできたのか……?」
もしそうならばこれ以上の適役はいないだろう。
スライムが入り口をふさいでいるだけで、ノストはそこに近づくことすらできないのだから。
今もベッドの上で剣を抱いてに布団にくるまっている始末。
このスライムが襲い掛かってくるのであれば、ノストも死に物狂いで攻撃できた。
ただし手加減はできないので、部屋にまで気は使えない。
しかしスライムはただそこにいるだけ。
創造主である少女の命令があるのだろう。警戒するような素振りすら見せない。
そんなスライムを、部屋を荒らしてまで突破しようという気は起きなかった。
この状況は少女に面倒をかけさせたことに対する処置。部屋で暴れるなどして物を壊してしまっては、あまりに申し訳が立たない。
「いや、そもそもあいつが俺を捕まえてるのが原因なわけで!」
危ない。
監禁者に対して罪悪感を感じてしまうところだった。
普通であればノストが少女の顔色をうかがう必要など皆無なわけで。
むしろそんな気持ちにさせるように仕向けるとは、なんと巧妙な手口だろうか。ノストは激怒した。
「でも、まあ、今日はそんな気分じゃないし。最近働きづめだったから、休むのもありか」
しかし結局そんな結論に行きつくあたり、少女の策はうまくいっているといえよう。自覚があるかは別として。
そうと決めれば寝るに限る。ノストは剣を抱えたままベッドに倒れ込む。
思考の隅で、『迷宮の管理者って休みがなくて大変そうだな』などと考えながら目を閉じた。
……。
ちらりと薄目をあけてスライムを見る。
スライムは暇そうに触手を振り回していた。
ノストは見なかったことにして目を閉じる。
…………。
また、薄目を開ける。
スライムが触手を切り落として、なにやら輪っかのようなものを作っていた。
ノストは気にしないことにした。
……………………。
堪えきれずに、目を開く。
スライムは巧みに触手を操り、触手輪っかで何かを作っている。
そしてにゅーんと輪っかの端を引っかけた触手を引っ張れば、見事に箒が完成していて――
「寝られるか!」
ノストは跳び起きた。
部屋の一角に居座るスライムの存在感が邪魔で邪魔で仕方がない。
ただそこで大人しく自分を見張っていればいいものを、このスライムはやることないからとばかりにあやとりをし始めたのだ。
その無駄に高い知性に余計腹が立つ。
通常、魔物は高度な知能など持たないのだが、そこは創造主のこだわりが発揮されたのだろう。
まるで「えっ、何か悪いことした?」とでも言いたげな、きょとんとした反応まで再現されているというクオリティ。
こてんと首を傾げた少女の姿が思い出された。
「変なところで創り主に似やがって……」
あの独特なペースに対抗する術がないノストは頭を抱えた。
するとスライムは、彼を憐れむような様子でやれやれとできあがった箒をほどき始めた。
そしてあやとりの初めの最もシンプルな状態で、ずいっとノストに差し向けた。
「うおっ!? 触手近づけんな!」
トラウマが想起され、背筋にぞくぞくとするような感触が甦る。
反射的に剣を構えたのだが、このスライムに害意がなく、そしてまた何が言いたいのかノストには分かっていた。
「……これを取れと? 俺に?」
まるで「仕方がないから一緒に遊んでやるよ」などとでも言うような行為。
それが彼にとってどれほど恐ろしいことか、その無駄に高い知性は理解していないのか。
ぷよぷよと柔らかい見た目。
その肌に吸い付きそうな微妙なしっとり感。
表面は粘膜が迷宮の明かりを反射してテラテラしている。
「いやいや! 無理! こんなの触れるか!」
両腕で体を抱いて後ずさりながらノストは全力で拒否する。
たとえトラウマがなかったとしてもこの触手をとるにはちょっとした勇気が必要だろう。
ましてや相手が触手のかたまり。彼にとっては嫌がらせ以外の何でもない。
「は? 『こんなこともできないのか』だと!?」
ため息を零すように丸い体を沈める様子を見て、馬鹿にされた判断したノストは怒った。
ちなみにすべてはスライムの身振りから勝手に想像したものであり、正しいかどうかは分からない。
「くそ、こっちが大人しくしてりゃあ調子に乗りやがって! いいか、本当ならお前なんぞ瞬殺だぞ、瞬殺!」
そうは言うものの、ベッドの上で腰が引けながらでは説得力もなく。
笑いが堪えきれないとでもいうようにスライムの体がぷるぷると小刻みに震える。
「よーし、その喧嘩買った。今さら後悔したって遅いからな」
ぷちっと堪忍袋の緒が切れたノストはすっと立ち上がった。
ベッドの上から見下ろすその目は座っており、恐怖は微塵も感じられない。
怒りはトラウマをも凌駕する。
今ならどんな触手であろうと立ち向かえる気がした。
さしものスライムにも緊張が走る。
創造主からはこの少年に危害を加えないようにと言いつけられていたが、もしものときは拘束もやむなしと許可を得ている。
張り詰めた空気の中、意を決したノストがついに足を踏み出した。
♢ ♢ ♢
白髪色白の少女は、迷宮内の探索者たちの多くが見張りを立てて休息を取り始めたことで今日の業務の終わりを感じた。
管理者である彼女は迷宮内のことをすべて知れるし、また自由に移動できる能力を持っていた。
挑戦者の生の反応を見ることは今後のよりよい迷宮管理のために欠かせないことだし、仮に問題が起こったならば直々に赴いて対処もする。
とはいえ彼女一人ですべてを見張るのはかなり集中力を要することで、だからその間にノストに脱走されれば見落としてしまうこともある。
最近は毎日のように脱走するので、このままでは業務に支障が出てしまう。
そう思った少女は泣く泣く少年に首輪をつけることにした。
その甲斐あってか今日ノストはずっと部屋の中にいたようだ。
ストレスで弱ってなければいいが、と本人が聞けば怒りだしそうなことを考えながら、いつものように彼の部屋に転移する。
そこで少女が見たものとは。
「しゃあ、どうだ! 9段はしごの完成だ! お前には真似できまい!」
スライム相手に、あやとりではしごの段数を勝ち誇る彼の姿だった。
「はぁ? 前の勝負では勝ったからまだ1対1だ? じゃあ次で終わりにしてやる。まあ俺が勝つだろうけどな!」
悔しそうなスライムに意気揚々と宣言して、ノストは近くにある触手輪っかに手を伸ばす。
もはやそこに忌避感はなく、手慣れたように指を通していく。
それを見て少女は何があったのかと首を傾げるが、とりあえず一言。
「仲良くなれてよかった、ね?」
この後ノストは『触手恐怖症』を克服できたことを後になって気づき、歓喜したとかなんとか。




