今夜は彼の負け
続きました。
胸から下げた十字架を、そっと握りしめてシェスは毛布にくるまる。出かけ行く前にジーンが、この十字架に祈りをこめていた。『今日はこれを寝るときも外さないで、そして夜は早めにお眠りなさい」と、ジーンに言われている。彼が自分を心配してくれているのはわかっているし、彼に逆らうほどシェスは恩知らずではなかった。
うつらうつらとし始めた深夜、窓を叩く音で目が覚める。空を見上げれば満月だ。まぶしいほどの明かりに目を伏せれば、窓の外に、見覚えのある顔が見えた。
「シャンティ……?」
金色の瞳は、まるで月のように丸々と光っている。彼は少年の姿で、寒そうな素振りを見せた。シェスは窓を開けようとして、ためらう。彼は吸血鬼だ、ここで窓を開ければジーンの心配事が現実となってしまう。シェスは首を横に振って見せて、毛布を頭から被った。
1時間、2時間と経っただろうか。どうにも眠れなくて、シェスは窓の外を見た。夜空のずっと向こうに、白んだ朝の気配がある。シャンティは、まだそこを離れてはいなかった。思わず飛び起きて、シェスは窓を開ける。
「寒いでしょう?」
「開けてくれたね、お話をしよう。おねえさん」
寝不足の頭が空回りし始めるのを感じ、シェスは自分のこめかみを押さえた。「あなたは吸血鬼なのでしょう」と責めるように尋ねる。
「違うよ、おれはシャンティ。ちゃんと名前があるんだ」
ベッドの上で膝を抱えながら、シェスは瞬きをした。見れば見るほどに綺麗な子供だ。肌は透き通るほど白く、作り物めいている。そしてその目は、不思議な引力をもってして彼女にこう言わせた。
「そう……よかった、シャンティ」
シャンティがにっこり笑って、僅かに開いている窓を押し開ける。「ねえおねえさん、このまえ邪魔が入ってできなかったハロウィンパーティ、今からやらない?」と甘く囁いた。シェスは何も疑問には思わず、ネグリジェのまま窓枠に足をかける。
意地悪な星が笑った。神も眠る満月の夜に、愚かなシスターが吸血鬼にさらわれた、と。
きらびやかな食事を前に、シェスはため息をついた。シャンティはといえば、上機嫌にワイングラスを掲げている。彼の姿はすっかり青年のものだ。
「ハッピーハロウィン! ああ? どうした、腹は減っていないようだな」
シェスは答えずに、ぼうっと天井からぶら下がっている古いシャンデリアを見つめていた。シャンティが頬杖をついて、シェスの目を覗き込む。
「……相変わらず、馬鹿な娘だ。吸血鬼が寒さなど感じるものか」
ワインを片手にゆっくりと近づいていき、シャンティはシェスのグラスにもワインをなみなみと注いだ。「しかし美しい娘だ、神などに仕えさせていては勿体ないほど」と微笑みかける。シャンデリアの明かりがちかちかと点滅した。シャンティは気に入らない顔で鼻を鳴らし、懐からナイフを出した。次の瞬間、館の窓が盛大に音を立てて割れる。
「――――食事の最中だぞ、自重しろ神父」
テーブルの上に降り立ったジーンが、有無を言わさずに銃を向けた。「君こそ自重しなさい、変態バンパイア」と、にっこり笑って言い捨てる。シャンティはため息をついた。
「変態、とは。人間の分際でこの身をそのように辱めるか、ストーカー」
「人さらいが今さら何を言っているのですか? とにかくうちの娘を返してもらおう」
嫌だね、とシャンティは言う。まるで子どものように悪戯っぽい笑顔で。間髪入れず、ジーンが引き金を引いた。シャンティは軽やかに飛翔する。チッ、と舌打ちの音がジーンからもれた。
「飛ぶとは……さすが蚊のご先祖様は優雅でいらっしゃる」
「舐め腐りやがって人間が。あの虫けらは何の関係もないわ」
銃弾が飛ぶ。呼応するように、ナイフも飛んだ。また硝子の割れる音がする。2人は小さく息を吐き、間合いを詰めた。素早く、ジーンが出した拳を、シャンティは受け止める。「馬鹿力が」と顔をしかめて、その拳を横へ流した。すぐに体勢を整えたジーンが足を振り上げる。シャンティは1歩2歩と後ろへ下がった。
「……ハッ、教会育ちがこうまで戦うものか。何者だ、お前は」
「高名なバンパイア様に興味を持っていただき至極光栄ですよ。そう警戒しないでほしいな。日々の祈りが神に届いて、喧嘩の方法を教えてもらったってだけだ」
「口八丁も神の教えか? 何でもかんでも神の御業にできれば世話ないな。羨ましいことよ」
やれやれという風に肩をすくめて、シャンティが手のひらを上へ向ける。ゆっくりと腕を上げ、そして空気が震えはじめた。「――――俺は手品が得意だぞ。見るか?」と言って、ニヤリ顔を歪ませる。
「何を……?」
ジーンは動きを止めて、周囲を警戒した。やがて、金属器が派手な音を立ててテーブルから落ちる。シャンティが投げて壁に刺さったままのナイフが、刃物という刃物が、ジーンめがけて飛んだ。さすがに絶句したままのジーンに、突き刺さる。
「っ……?」
「どうだ、なかなか面白いだろう」
腕に刺さったナイフを抜きながら、しかしジーンは不敵に笑う。「これは確かに素晴らしい。見世物小屋でもこんなにいいショウは見られないや」と軽快に言ってみせた。ふん、とシャンティは鼻を鳴らし、また腕を上げる。壁に飾ってあった、細身の剣が浮いた。ジーンがとっさに身構える。
しかし剣が示した方向は、ジーンではなくシェスの方だった。いいか、とシャンティは目を細める。
「我が花嫁は刺さぬ。お前はそこから動かなくていい」
それでも、ジーンは動いた。呆然としているシェスを突き飛ばし、その背中を、剣が貫く。
突き飛ばされたシェスは、目を覚ましたように起き上がった。「わたし、ここ……どこかしら」と言いながら周りを見る。それから、静かに息をのんだ。
「神父さま?」
ひたひたと、血の滴る音がする。シャンティが可笑しそうに嘲笑った。
「刺さぬと、俺は言ったぞ。それでも無意味に飛び込んでくるとは……お前、もしや耳が聞こえていないな? もしくは、何をも信じていないか……聖職者が聞いて呆れる」
ジーンは苦しそうに息を吐く。しかし次の瞬間には、弱々しくも声をあげて笑っていた。シェス、と今にも泣きだしそうなシスターの名を呼ぶ。
「迎えに来るよ、シェス。いい子に待っていなさい」
目を丸くしたシャンティが、「何を。お前はここで死ぬんだぞ」と顔をしかめた。着ていたネグリジェに引っかかりながら、シェスはジーンに駆け寄る。
「やめて。どうしてこんなにひどいことをするの? 私があなたの言うことを聞きます。お願い、やめて」
シェスの腕に抱かれながら、ジーンがうつろな目を天井に向けた。その口元には、まだ笑みが残っている。
「奇遇だ……僕も、手品が得意でね……」
聞き取れるかどうかの微かな声で、そう呟いた。やがて彼は目を閉じる。
シャンティがゆっくりと近づいて、首をかしげた。「悪かったよ、お嬢さん。君がそんなに怒るとは思わなかったんだ」とシェスに顔を近づける。
「でも君だって、いつまでもその男に束縛されるのは嫌だろう?」
言いながら、彼女の肩に触れようとした。シェスはシャンティを強く睨んだ。
「触らないでっ」
その途端に、彼女の首元が光り輝き始める。青白い光が二重にシェスを包み、そっと彼女を宙に浮かせた。シェスは戸惑いながら光の層を叩くが、外に出ることはできない。呆気にとられたシャンティがその光に触れると、激しい音を立てて青い炎を生んだ。シャンティは後ずさり、「この野郎」と呟いた。それから、目を閉じたままのジーンを思い切り蹴とばす。
「クソ神父め! 妙な小細工をしやがって、触ることもできん」
怒りのおさまらない様子で、シャンティはワインを瓶から煽った。「――――良い」と、ふてくされ顔で呟く。
「見逃してやる。必ずこの妙ちくりんな鳥かごを何とかしに来い。必ずだ」
言って、シャンティが指を鳴らした。ジーンがずぶずぶと床に沈み始め、血痕を残して消える。床が汚れたな、とシャンティは吐き捨てた。ふと、彼は青い光を横目で見る。
「泣いているのか」
シェスは何も答えない。もう、朝日は高く上っていた。窓に重い幕を引き、シャンティはため息をつく。結局その日、シェスが言葉を発することはなかった。ただ膝を抱えた彼女の、泣き声だけが響いていた。
次で終わりたい。