第○一九話 『逃走劇の開幕』
「はぁ、はぁ、はぁ――ッ!」
何者にも追いつかれぬように、見られぬように、ただただ走り続ける。前を見ることもせず、下ばかり見て走る。何度もぶつかった。壁にぶつかった。人にぶつかった。その度に耳元で囁かれる。
――お前を見ているぞ。
「う、ぁ、ああああ……!」
「ヨル様! ヨル様ッ! もう何もありませんし、聞こえませんよ!?」
「うるさいッ!」
擦り寄ってくるイヴの声ですら、悪魔の囁きに聞こえてしまう。
「――おい、おい!」
「もっと、遠くへ……隠れられる場所へ……」
「おいってば!」
ああ、ああ、聞こえてしまう。あの悪魔の囁きが。どれだけ時間が経とうとも、未来永劫自分を縛るのであろう呪いの言葉が「大丈夫か、お前!」――違う?
暗い底から意識を引っ張り上げられ、声をかけてきた少年を見やる。
歳は伊達と同じくらいだろうか。短い髪を汗に濡らし、その眉間には皺が寄っている。息は上がっており、彼が走っていたのだと察することができた。
「顔色、かなり悪いけど……熱中症か何かか? 立てるか?」
「あ、いや……」
「待ってろ、すぐに病院に――うぉお、お、お」
伊達を担ごうとするも、少年自身疲れているのだろう。上手く行かず、さりとて伊達は足腰に力が入らない。
「大丈夫、ですから……構うな……」
「大丈夫に見えねえよ。こんくらい、平気平気!」
無理をしている。こんなのは望んでいない。伊達のために、誰かが汗水を流すことなどないのだ。そんな価値、伊達にはないのだから。
むしろその役目は、伊達が担うべきなのに。
「アンタこそ、かなり顔色……悪そうですけど」
「ああ? いいやぁ、俺は大丈夫。全然問題ないって! ふん、ぬぁあああ!」
しかし、伊達の体は持ち上がらない。
「くぁー! こういう時牛乳があれば……外に持ち出すと腐らないか心配なんだよな、暑くなってきたし……」
「…………」
あ、駄目だ。意識が朦朧としてきた。視界がブレ、自分と青年の足元がぼやけて見える。ぐわんぐわんと世界が回る感覚がし、現実と意識が遠ざかっていくような、幻にでも包まれたかのような感覚を得て、声が遠く、色が、光が、消え、て、いく――
◆
「白石小太郎……彼は、《正義の体現者》の創立メンバーです。元々は小学生のごっこ遊びでした。正義のヒーローに憧れて、学校のいじめっ子たち相手に歯向かって、返り討ちに逢って、でも満足気に笑って、そんな日々を過ごしていました」
唐突に語られたのは昔話。その話が聖にもたらすものは、おそらくゼロに近い。
そもそも、この少年からして気に食わないのだ。できれば家に帰り、ぐーたらごろ介に戻りたいと思っている。
だが、少年が語る男――白石小太郎のことは気にかかる。
「ある日のことです。そんな私たちに、転機が訪れることになる」
◆
「クソッ! 今日も負けた負けた!」
「ははは、中々思うようには行かないね……」
地面に倒れ伏し、それでも笑顔を絶やさぬ二人。それこそが、最初の我らの形。
「なあ、圭介。俺たちさ、このままでいいと思うか?」
「え? どういうことさ……あ、勝たなきゃってこと? そうだねえ、そろそろ、奴らに一泡吹かせてやりたいかも。でもさ、小太郎。そんなことできる?」
「その気になりゃあできるぜ。でも、俺たち二人だけだとちとキツい。そこで、だ」
立ち上がった彼は言いました。
「もっと仲間を集めよう。ああいう奴らに嫌気が差してるのは俺たちだけじゃないはずだ!」
その提案はとても魅力的で、どこまでも正しくて、しかし、私はこうも思ったのです。
――二人だけの時間が、終わってしまう。
それは私のわがまま。正義を目指す上で、許されざる裏切りの言葉。
「そうだね、うん、やろう!」
だから私は、嘘をついた。本当は、今まで通りが良かったのに。
そうして、《正義の体現者》の母体が出来上がる――はずだった。
しかし、
「……もういいよ、そういうの」「というかやめてくんない?」「俺たちまで目をつけられる」
「え……?」
彼は呆然としていました。当たり前ですよね、これまでの行いを、正義の真似事を、真っ向から否定されたんですから。
◆
「……なんで助けた」
「別に? 倒れてる人がいたら、助けるのは普通じゃね?」
あっけらかんと言われてしまい、返す言葉がなくなってしまう。
ここはどこだろうか。畳の上……和室か。
「運んできたのか……すげ」
「だろ? 大変だったんだぜ」
大変だったのなら、放っておいてくれれば良かったのに。しかし、助けられたのは確かなのだ。感謝はせねばなるま――、
待て。
伊達はどうして倒れるまでに至ったのか。そうだ、あの言葉。あの言葉に踊らされ、伊達は冷静さを欠き、過呼吸でも起こしたのか。いや、問題はそこではない。
あの場にタイミング良く現れたこの少年を、怪しまない道理はない。
この少年が、伊達にあの言葉を投げかけていた人物だとしたら、この状況はピンチなのではないか。
「疑ってるな、俺のこと」
「……っ!?」
お茶を持ってきた少年が、まるで伊達の心を読んだかのように呟く。
「疑われるのは仕方ない……っていうか、犯人みたいなもんだし、構わないぜ」
「んな、それ、どういう……」
「まあ、起きたんならとりあえずこれ飲んどけ」
差し出されたお茶を受け取りこそすれ、口はつけず。相手の真意がわからないのだ。もしかしたらこの中には毒が――なんて。
「そう思ってんだろうなぁ……いいぜ、別に飲まなくても。お前が俺を怪しいと思ってる。それはこっちもわかってるから」
寝起きだからだろうか。少年の言っていることが理解できない。整理すれば簡単な話なのだろうが、整理するための頭が働かない。
「道端で見かけた時は気付かなかったけどさ、アンタ、バレットだろ」
「…………」
ここでそうだ、と答えた場合どうなる。常に先のことを考え、想定し、対策をいくつも考えておく伊達らしくもない。
ああ、そうだ。ここ最近というもの、伊達は頭の回転が著しく遅い。元々下町へ来たのも、そういった頭のモヤモヤが原因だった。……来ようと思った理由は、もう一つあったのだったか。
「返事は無し、か。まあいいさ、こっちはアンタがバレットだと思って話を進める。……なんであそこで倒れてたのか、当ててやろうか」
「っ、お前、何か知ってるのか」
思わず目を細め、警戒を強める。
そういえば先ほど言っていたか。犯人と思ってくれて構わない、と。それは少なからず、伊達の事情を知っているということであり、
「五年前の事件、その再来」
その言葉で、それは確信に変わった。
「テメェ!」
「落ち着けよ。俺は犯人だけど……敵じゃない」
少年は指をピッと立て、
「自己紹介をしよう。俺の名前は白石小太郎。牛乳大好き、正義のヒーローに憧れる男だ」
「……僕の周りは、こんなのばっかか」
また一人、ヒーローという言葉に魅せられた者と出会った。
◆
「貴女はどうです、宮城さん。ヒーローであることを拒絶される。そんな経験をしたことがありますか?」
「ない、けど……」
昔話はそこで終わってしまった。何のために語ったのかわからないほどに短く、この場の空気にも流れにもそぐわない内容であった。語ったことで何か状況が変わるのだろうか。あまりにも関係のない話だった気がしてならない。
しかし、なんとなくではあるが、白石小太郎という人物像が見えてきた。
「あー……なに、小学生時代のアレコレを今でも引きずって、えっと……《正義の体現者》内でイザコザが起きた。そういう解釈でいいんですかね?」
「大まかには、おそらくそうです。彼は今でも許せないのでしょう。悪に屈した者たちを。その者たちに同意を示した私を。なぜ今になって裏切るのかはわかりませんが、彼は彼なりの正義を掲げている。これは間違いありません」
それならそれでいいのではないか。誰がどんな正義を掲げようと、道が逸れれば相容れない。本来正義とはただ一つのものではなく、複数存在するのだ。その白石という人物は単に、彼ら《正義の体現者》とは別の道を進み始めただけのこと。
「それをなぜ、悪と決め付けるんですか?」
「彼は裏切ったのです。その意味、お分かりになりますか?」
「全然」
即答してやった。どうにもこの集団の空気は合わない。正義、正義と謳っているが、何かドロドロとしたものが詰まっているかのような……。
「我々は現在、とある計画を進めています。我らが正義として、この街を守れるようになるための、です。それを彼は妨げようとしている」
あー、その、つまり。
……どういうことだろう?
「端的に言えば、正義の敵をしているのです、彼は」
聖は一つ、ため息をつく。この少年、盲目的なところがあって苦手だ。人の話を聞かないタイプだろうか。
この男と一緒にいると聖の思考まで鈍ってきてしまう。ああ、そうだ。この男は他者の意見を跳ね除け、考えることをやめている。まるでそれに引っ張られているかのような感覚だ。
「ああ、もういいや……えっと、なんて言ったっけ。懲悪? それはまず、その人をこの目で見てから、でいいですか。どうにもアンタたちの話だけじゃ要領を得ない」
「わかりました。それでは――我が同胞よ、裏切り者の居場所を探し出しなさい」
「はいっ!」
人数にして十数人程度。それだけの少年少女が、一斉に集会場を飛び出していく。
――これが、下町で巻き起こる逃走劇の始まりであった。
◆
「……マズい。動けるか、バレット。ここを出るぞ」
「は? いったい何が――」
「事情は逃げながら説明する。立て!」
未だフラつく足元。強引に手を引かれ、頭痛鳴り止まぬ中足音を響かせる。
伊達が寝かされていた和室を出ると、まず目に入ったのは京都も顔負けの庭園である。砂利に小さな池、カコーンとししおどし。ここは武家屋敷か。
「っと、これ着とけ。お前の顔と特徴は全員が知っているわけじゃない。ちょっと違うもん着るだけで簡単に誤魔化せるはずだ」
「いや、だから、何が起こってるんだ」
「俺とお前を追ってくる奴らがいるんだ。名前は《正義の体現者》。五年前の事件を掘り返した犯人だよ」
――――ッ!!
なら、つまり、今から追ってくるという相手は……、
――お前を見ているぞ。
ぞわり。
止まらない怖気。しかし、伊達はこの相手に立ち向かわなくてはいけない。これは絶対だ。逃げずに立ち向かって、そして殺して、過去を乗り越えて――。
「変なこと考えんなよ。今は逃げるんだ。……クソ、少し前のアイツらだったら俺一人で十分だったんだけどな」
「逃げるだと? ……ふざけるな。僕は逃げられないんだ。どうあったって決着を付けなきゃならない。僕の過去を少しでも知ってるなら……!」
そうしてその場に残ろうとする伊達の手を、白石はがっちりと握り、
「少しでも知ってるからこそ、逃げるんだ。今の状態じゃあ意味がないんだよ」
「さっきから、何もかも見通してるかのようなことばかり言いやがって! なんなんだよお前は!? 今から追ってくるのが犯人だって言うなら、お前が犯人だって言葉はなんなんだよ!? いい加減、一つくらい答えやがれ!」
つい感情的になり、それを止められない。
白石の胸倉を掴み、互いの鼻がぶつかる位置にまで顔を近づける。目を覗き込み――その瞳に、昏い光が宿っているのを見た。
「……俺か? 俺はな、《正義の体現者》の一人だった男だよ。だから犯人みたいなもんだって言った」
その瞳に吸い込まれそうだ。まるで、自分と近い何かがあるような、そんな感情を得る。
「とりあえず一つ。ほら、さっさと逃げんぞ」
わけもわからぬまま手を引かれ、長い逃走劇が幕を開ける。
◆
ああ、俺はもう駄目かもしれない。
あれから何度も家に、勤務先に、ケータイに。同じ文面が何度も何度も送られてくる。確実に磨り減っていく精神は、ついには体にまで支障をきたし始めた。
いや、そんなことはどうだっていい。どれだけ精神が磨り減ろうと、この身が朽ちようと、それが自分自身の問題で終わるのならば構わない。
そう、問題があるのは周囲への影響だ。
同僚は? 友人は? 何より、家族は?
今はまだ何もされていない。ただひたすらに同じ文言が送られてくるだけだ。しかし、これから先何をされるかもわからない。心休まらない日々が、さらに俺を蝕んでいく。
いつか手を出されるのではないか。もしかしたら今もどこかから狙われているのではないか。妄想と虚像と現実とが交じり合い、その境界線をなくしていく。
この重圧を肩に背負うくらいならば、いっそ死んでしまいたい。
駄目だ。それは許されない。問題を残し、家族を置き去りにしたまま死ぬことなど、あってはならない。
だから、そう。犯人を、この手で捕まえる。そうすることでしか、安寧は訪れない。
迷うことなど何も無い。元よりそれが仕事、使命の身。その過程でどれだけ命を削ろうとも、守れる何かがあるのならば惜しくは無い。
――ああ、でも、どれだけ悪人を捕まえても、平和な世界が訪れないのならば。
いっそのこと、殺してしまえばいいのではないだろうか。




