月下に紡ぐゆめがたり
《昔々あるところに、一匹の獣がいました。
獣はとても強く、そして賢い生き物でした。
誰も獣には勝てませんでした。誰も獣を殺せませんでした。だから、人も動物も、みんなその獣を恐れました。
いつしか化け物と呼ばれるようになった獣は、深い深い霧の山の奥で、独りひっそりと暮らしていました。》
※※※
――幼い時からよく見る夢がある。
普通、夢というものは一回見れば同じ内容のは見ないもんだと思うのだが、何が原因でか俺の場合はまったく同じ展開の夢を不定期に見るものだから、今では見始めからこれが夢だと分かってしまうくらいなのだ。ガキの頃から続く夢なんて意味ありげにも程がある。悪夢というほどのものでもないのだが、目覚めた後のひどく不快と言うか焦燥に似た感覚が鬱陶しくて、俺はこの夢が嫌いだった。
だから多分、今朝もその夢を見たばかりの俺は何となくむしゃくしゃしていて、そのせいで宿屋の食堂でたまたま出くわした同業者といつもはしない言い争いになった末に半ばそいつと張り合うようにしてこの依頼を受けてしまったのだろう。
「……うぜえ」
じっとりと纏わりついてくるような湿った空気に、俺はうんざりした顔でぼやいた。
俺の名前はサイ・ライゼルタ。傭兵だ。
歳はギリギリ二十に届いてないものの、それなりに経験は積んでいて、自分ではそこそこ腕は立つものと思っている。
尤もそうでなければ、ともすればナメられがちな若い身空でこんな稼業はやっていられない。そう言や今朝方の諍いだって、傭兵らしきどこぞのオッサンが俺を乳臭い若造呼ばわりしやがったことから始まったんだっけか。
(……つか、まさかあの野郎、分かっててわざと俺をけしかけたわけじゃねぇだろうな。仕事請けるって決まった時、なんか妙にニヤニヤしてたような……)
霧の山、という捻りもくそもないまんまな名前で呼ばれているこの山に入ったのは、もう何時間も前のことだった。
太陽はとっくに沈んでいる。どこかでキャンプをしたいが、適当なポイントがなかなか見つからなかった。身につけたザックも旅用マントも水を含んで重いし、泥濘に踏み込んだせいでブーツもズボンもドロドロだった。
普段から「顔が良い分、妙な迫力あってコワイ」とか言われる(そして柄の悪い奴には全力で喧嘩を売られる)(一部では『悪魔』とか呼ばれていたりもする)(ひどい理不尽だと思う)鋭い目付きが、半眼になったせいで更に尖っている自覚があるが、誰がいるわけでもないので気にしない。
汗と霧で湿った真紅に近い赤色の髪をわしわし掻き混ぜ、絡まった木の葉を振り払って、俺はそろそろ本日二桁に上ろうかという盛大な溜息をついた。
めんどくさい。やっぱりこんな仕事請けなきゃ良かった。
「あーくそ、マジでこんなとこにいんのかよ、『魔獣』なんて!」
サバイバルナイフで突き出た枝を切り払い、やけくそのように俺は叫んだ。
そう。旅の途中で立ち寄った、麓の小さな村からの依頼――それが今回俺が引き受けた、そして只今大後悔時代を驀進している原因だ。
傭兵なんてしている俺には獣退治くらい珍しいことではないけれど、流石に化け物退治なんて、これまで一度もやったことがなかった。
――曰く、この山には呪われた獣が住んでいる。
時々吼え声が聞こえてくるし、時折気紛れのように霧が晴れた時に山に入ったら二度と戻ってはこられない。
昔は麓に降りてくることもあったらしく、非常に強く凶暴なことで恐れられていたそうだ。ここ百年ほどはぷっつり姿を見せなくなっていたものの、死んでいたわけではないらしく、最近またちらちら姿が見られるようになっている。
幸い、今はまだ村人が襲われるようなことにはなっていないが、それだっていつまで続くか分からない。恐ろしくて仕方がないから、なんとかしてもらいたい。
正直馬鹿馬鹿しいと思った。
今までにもあったのだ。女子供が食い殺されていると泣き付かれて調べてみたら、まったくのデマが独り歩きし、出来上がった根も葉もない単なる噂話に、聞いた奴が勝手に怯えているだけだったり。ひどい時には、悪質な野盗が化け物を装って悪事を重ねていたりしたりこともある。
何より怖いのは人間だ。本物の化け物なんて、もうお伽話の中にしかいない。そんなことを思いながら、俺は早くも、どこをこの仕事の落とし所にするべきかと考え始めていた。
「どうせ今回も、ちょっと珍しい見た目の動物見かけて勘違いしただけだろ。ちゃくっと探して狩ってくりゃ終わりだよな。あれ? つーか会えんのか? 山中踏破しろなんて言われたら泣くぞ、俺」
ぶつぶつ言いながら進んでいく。季節は初夏のはずなのに、霧が立ち込めた山はひやりと肌寒かった。嗚呼、こんなことならもっと厚着をしてくるんだった。
「にしても気味悪ィ山だなー……。獣一匹いねぇのか?」
随分歩いたはずなのに、まだ一度も生き物を見ていない。鳥の鳴き声くらいは聞こえるのだが、姿が見えたことはなかった。たまたまテリトリーから外れた場所を歩いているのか、もともと生き物の絶対数が少ない山なのか……。
(――まるで、何かに遠ざけられているような)
そんなことを思った時、ふと、俺は足を止めた。
霧が流れていた。誰かを導くように、ある一点から不自然に霧が薄くなり、辛うじて視認できる細い道のようなものが伸びていた。
「…………」
麓で聞いた話の一つ。――霧が晴れた時に山に入ってしまったら、二度と戻ってこられない。
躊躇は、僅かの間。
俺はザックを背負い直し、霧の切れ目に向かって歩き始めた。
※※※
《獣はずっと独りでした。
獣を殺そうと襲ってくる人間や動物は、残らず喰い殺しました。それは獣にとって、とても容易いことでした。
お腹が空いたり退屈したりすると、やっぱりそこらの人間や動物を喰い殺しました。それは獣にとって、とても当たり前なことでした。
獣はいつも独りでした。獣の傍にいられる生き物など、一匹もいませんでした。何十年も何百年も、ずっとずっと獣は独りでした。
そんなある日のことでした。
獣のもとに、一人の人間がやってきたのは。》
※※※
霧に両脇を包まれたその獣道は、ひどく細くて長かった。少しでも油断すれば、すぐに見失ってしまいそうだ。
(この山に入った他の連中も、この道を通ったのかな)
何かの罠かと思わないこともない。だが、当てがないのも確かだった。少々怪しくても、踏み込んでみなければ始まらない。
何よりも、俺の中で興味が湧きはじめていた。この奇妙な現象の先に待つものを、この目で確かめてみたいと思う。旅なんかしてると、好奇心が旺盛になるもんだしな。
――さぁ、と風に煽られて、我に返った俺は霧を抜けたことを悟った。
そうして、一拍置いて瞠目する。
目の前にあったのは、嘘のように霧の晴れた空間だった。
広い広い野原が、見渡す限りに広がっていた。一面に咲き乱れるのは、風に揺られてひらひらと花びらを飛ばす、真っ白い花。月光に照らされるその風景は、どこか凄絶な美しさを誇っていた。
「……すげ……」
警戒することも一瞬忘れ、俺は呟いた。
こんな場所があるだなんて、誰にも聞いていなかった。誰もここに辿り着いたことがないのか、辿り着いても戻れなかったのかは知らないが。
(まるで天国みたいだ)
我ながららしくないことを考えつつ、そのまましばし茫然と佇んでいた俺は、不意に視線を感じた気がして顔を動かした。そうして、再び絶句する。
月下の野原。闇を彩る白い花。
幻想的な景色の真ん中に、一匹の生き物がいた。
大柄な豹くらいあるだろう体格の獣だ。少し離れた位置に、四つ足をきちんと揃えて座っている。
――その生き物を見た瞬間、俺は、あ、違う、と思った。
ただの勘だったけれど、なぜかはっきりとした確信があった。
これは、自分が想像していたようなものではない。
『そんな言葉で』『括れるような存在ではない』。
(――なんて、綺麗な)
その獣は、俺が見たことのあるどんな獣とも違っていた。
尖った耳にふさりとした尻尾、全体的にしなやかな体つきに、しかし隙はまったくない。全身を覆う滑らかな被毛と、最高級の宝石のように輝く瞳は、光を弾く白銀色だった。
その外見だけでも、目を奪われるには十分。だが何よりも、真っ直ぐにこちらを見据える獣の眼差しには、確かな理知の光が窺えた。
俺のことを見極めようとするような――或いは心の底まで見透かすようなその視線に晒されて、俺は無意識にうろたえた。
どうしよう。どうすればいいのか。こんな事態、想定してない。
ごくり、と唾を飲み込む。
「……え―――――と……
ハジメマシテ?」
我ながらひたすら間の抜けた台詞に、獣が意表を突かれたように、ぱちくりと目を瞬かせた。
※※※
《その人間は、今まで獣の前に現れたどんな人間とも違っていました。
人間は獣の姿を見ても、武器を抜こうとしませんでした。獣に挨拶をし、話しかけてきました。
獣もまた、その人間を殺そうとは、なぜか思いませんでした。
その人間がとても強いのだということは、獣にはすぐに分かりました。けれどそれだけが理由ではないのだと、獣はどこかで気付いていました。
人間は、獣の傍に来て死ななかった、初めての生き物になりました。》
※※※
「えーと。お前が、この山の獣?」
困惑して瞬きという、なんだか意外と愛嬌のある仕草に背中を押されるような心地で、俺は思い切って獣に近付いてみることにした。
(つーかこいつ、ひょっとして言葉通じてる……?)
武器に手をかける気にはならなかった。腰にぶら下がっている長剣には触れないよう、両手をちょっと上げて前に踏み出す。
獣は一瞬、逃げようとするようにぴくりと脚を動かしかけたが、踵を返すことも襲いかかってくることもなく、観察するように黙って俺の動きを見つめていた。
「なんもしないからな~……。噛みつくなよ~……」
若干及び腰になりつつも、俺はそろそろと獣の前に座り込む。
(野生の獣相手にこんな危ないこと、普段だったら絶対ェしないんだけどなあ……)
獣の顔を見ると、鏡のような双眸がじっと俺の目を見ていた。
俺は自分の瞳を獣の視線の上に合わせる。まるで吸い込まれそうな深い眼だ。まったく凶暴な気配を感じない、穏やかで、そのまま吸い込まれてしまっても気付かないんじゃないかと思えるほどの。
人と獣が見つめ合う奇妙な時間が、しばし続いた。
不思議に緩やかなその時間の末、声を発したのは獣が先だった。
――る、と、小さな唸り声が獣の喉から零れる。
俺は首を傾げた。
威嚇されたとは思わなかった。
「ん? ……何しに来たのかって言いたいのか?」
獣がパシリと一度、瞬いた。それを肯定ととった俺は顎に手を当てる。
言うべきか、言わざるべきか。ちょっと考えて、嘘は意味がないなと思った。
「依頼を受けてきたんだ。お前を殺してくれって。
あ、悪いけど、誰に頼まれたのかはノーコメントな。その辺は守秘義務ってやつがあるんで。……て言うかお前、やっぱり言葉が分かるんか」
獣がゆっくりと、もう一度瞬く。言葉の意味が分からなかったというわけではなさそうだった。
別の意味を感じ取り、俺はへらっと笑う。「お前を殺しに来た」なんて真っ正直に言ったのに、獣からは呆れるほど警戒心を感じなかった。
「はは、そーだな。だったらこんなことしてるのヘンだよなー。普通話しかけるどころか近づくこともしないもんだし。でもまあいいじゃん、だって俺、お前のことどうこうする気ねぇからさ」
言いながら、俺は獣の頭を無造作に撫でる。
嘘ではなかった。この獣を見た瞬間、殺そうなどという考えは、俺の中から完全に消え失せていた。
撫でられた獣は少し迷惑そうに、それでも振り払うことはなくされるがままで、俺はなんだかちょっと嬉しくなって更にわしわし撫でまくる。
もともと動物は好きなのだ。汚れていない、つやつやした獣の毛皮は見た目通りふかふかで、ちっとも獣臭くなく、どこか日向の匂いがした。自分が獣の言葉を読み取っていることの異常さは、まったく気にならなかった。
信じてなどいなかった。
だが、もしも。もしも本当にこの山に、『魔獣』と呼ばれる生き物がいるのなら、それはきっとこの獣を措いて他にはいるまいと、俺はこの時、とうに確信していた。
「……なあ。お前、この山に住んでるんだろ? 俺もしばらくここにいていいかな」
いきなりの申し出に、獣はまた瞬いた。それはそうだろう、俺だって酔狂なことを言っている自覚はある。
それでも、なんだか止められないのだ。この獣に対する好奇心が。
はっきり言ってここ最近、人間に対してこんなに興味を覚えたことはない。どうせさしたる目的もない一人旅だ、ならばここに留まる方が、当分の間は有意義な時間を望めるだろう。
「お前を殺せないなら、すぐに麓に戻るわけにもいかないし。それに俺、お前のこと、なんか気になるんだよなあ」
獣は困ったように、僅かに目を細めた。
喜んで受け入れてくれているわけではなさそうだ。けれど、拒絶されているわけでもない。
俺は獣の顔を見てにこりと笑った。
「俺はサイ。傭兵……つって分かるか? あっちこっちで雇われて戦ったりする、けっこうヤクザな商売なんだけど。まあ、よろしくな」
獣はまた、困ったように瞬いた。
※※※
《獣は昔、人間でした。
獣は、神様に呪われていました。
かつて人間であった時、獣は罪を犯しました。たくさんの人を手にかけて、自分のためだけに生きていました。
人間だった獣に踏み躙られた一人の人間が、神様に願いました。
どうかあの人間に、相応しい罰を与えてください、と。
神様は、願いを叶えました。》
※※※
不思議なことに、白銀の獣のいる場所はいつも霧が晴れていた。
霧がなければ、山はけっこう過ごしやすい場所だった。持ち込んでいた携帯食料は精々持って数日分くらいのものだったが、サバイバル技能はあったから特に心配はしていなかった。
動物は分からないが、食える植物くらいどこかで見つけられるだろう。最悪でも一度山を降りて、食料を仕入れて来ればいい話だ。
初めの二日間、俺はほとんど一日中獣と一緒にいた。離れると途端に霧で迷ってしまうためだったが、三日目になると、獣から離れても何故か霧に纏わりつかれないようになった。
「やっぱさ、この霧ってお前がやってんの?」
山に入って五日が過ぎ、初めて俺一人で狩りに出て、あっさり空振りに終わってすごすご帰ってきたその日の夜。獣がどこからか獲ってきた兎を捌き、焚火で串焼きにしたものを食べながら、俺はそう問いかけてみた。
焚火の前に横たわる獣は、ちらりとこちらを見やっただけで、ビミョーな灰色の携帯食料をもそもそ齧り続けている。試しにお裾分けしてみた味気ない携帯食料を、獣はどうも気に入ったらしく、時々俺にぱふぱふと尻尾を打ち付けて強請っては提供させた。味がどうこうと言うより、単に珍しいからではないかと俺は思っている。
「魔獣とか妖獣とかいうモノは、もうとっくに滅びたと思ってたんだけどなあ。この霧、方向感覚狂わせる性質もあるだろ。俺が来る前にも時々晴れてたのは何でだ?」
ぅる、と機嫌悪そうに獣が唸った。
「好きで晴らしてたんじゃない、か。ひょっとして霧かけとくにもそれなりに力が要んのか? 大変だなー」
そういや、戻ってこなかったって連中はどうしたんだろう。そんな俺の疑問を察したように、獣がふいと目を逸らす。
「……え、もしかしてそいつら、単に勝手に迷って戻れなくなっただけなのか? ……わざわざ助ける義務もないから無視してた?」
呆れた俺の言葉に獣は何も答えず、また携帯食料に戻った。まったくもってどうでも良さげだ。もしもこいつが人間だったら、知ったこっちゃないね、とでも言い捨てそうだった。
(……成程。霧は招かれざる客を穏便に追い返すためのものでもあるわけか)
霧がかかっている時は、道に迷いはしても、少なくとも戻れるのだろう。恐らく、獣がそうしている。何故俺だけが、その霧を抜けて獣のもとに辿り着けたのかは分からないが。
しかし、ひとたびその霧が晴れてしまうと、今度は迷い込んだ者を麓に導いてくれる力が消え失せる。結果侵入者は自然の迷路の中で一直線に遭難の一途を辿り、崖から落ちたり野生動物に襲われたりといった哀れな最期を遂げるわけだ。この獣が兎を狩ってきたということは、やっぱりこの山には、もっと大型の獣なんかもいるのかも知れない。
(多分、こいつを殺そうとして来た奴とかもいたんだろうな)
もしそうならそういう奴には同情の余地ナシ、と脳内できっぱり切り捨てる。完璧に獣サイドでものを考えているあたり、自分がここに来た目的を本格的に捨て去っている自信はあった。
――とは言えこの様子なら、獣自身が相手を牙にかけたことはないのだろう。
獣の様子を見る限り、まともにこいつの前に現れた人間は俺が初めてのようだし、実際ここ百年、獣の動向は大人しいものだったと聞いている。それより前はもっと手のつけられない凶暴な奴だったというのに、一体どんな心境の変化があったのだろう。
がじ、と肉を噛み千切り、俺は改めて獣を観察した。
見れば見るほど、美しい獣だった。全身白銀色なのかと思っていたら、よく見れば額に一房だけ、金に近い琥珀色が混じっている。双眸は僅かに灰色がかり、あまり表情の出ない顔の代わりにきらきらと色を変えて感情の動きを伝えていた。
性格は極めて穏やかで、狩りこそすれど理由なく動物を襲うことはない。頭も相当良いのだろう、俺が何を言っても、およそ理解しないということが無かった。
一昨日は食べられるキノコが生えている場所をいくつか案内してもらったし、その前は天然の温泉まで教えてくれた。あれは素直に有難かった。
魔獣と一緒の山中生活という状況とは裏腹に、ここでの時間はひどく平和で、居心地が良くて。
――ただ、獣の名前だけは分からなかった。
種族名ではなく、個体名。それを俺は未だに聞いていない。
(いや、こいつの言葉が分からないって意味では当然なんだろうけどよ。でも、そういうんじゃないんだよな)
多分、獣自身、教える気がないのだ。
呼び名がないのは不便だったが、俺の方も間に合わせの適当な名前でこの獣を呼ぶ気にはなれなかった。この獣には、ちゃんとした名前が他にあるような気がした。
(「おい」とか「ちょっと」とかばっかり呼ぶのって、なんかイヤなんだけどなぁ)
たとえ言葉も声も持たなくても、獣が言う気になってくれさえすれば、俺は聞き取る自信があるのに。
「だってよー、不公平だと思わねえ?」
唇を尖らせてぼやくと、獣はちらりとこちらを見てくる。
「な・ま・え。ズリィだろ、お前は俺の名前を知ってるのに、俺はお前の名前を知らないなんてよ。ほらほら、サイって呼んでみ?」
小首を傾げて獣の顔を覗き込んでみたが、獣はフンと鼻を鳴らしただけだった。うわ、なんかムカつく。
食事を終えると、俺は早々に焚火を消した。荷物から寝袋を引っ張り出し、もぞもぞと潜り込む。
獣の匂いが俺にも移っているからか、火を消しても他の動物が寄ってくることはない。この山のトップに立っているのはやっぱりこの白銀の獣なのだろうと、俺は頭半分で考えた。
「……おやすみ」
――ぐぅる。
獣が低く返事をして、俺は顔を伏せた。
でも、すぐに眠ることはしない。眠った振りをして、獣を眺めている。
獣は俺の傍で、じっと月を見上げていた。
来ない何かを待ち侘びるような、どこかやるせない眼差しで。
ずっと、夜空を見上げ続けていた。
※※※
――ふと辺りを見回すと、そこはどこまで続くのかも分からない真っ暗な空間で、俺はそこにぽつんと一人で突っ立っていた。
客観的に見れば、ひどく不気味で奇怪な空間だ――そこが現実だとすれば。
十年以上付き合ってきたせいもあって、俺は自分が例の夢を見ているのだとすぐに気付いた。
この夢の中では不思議と意識がはっきりしている。
(……またか。この前見たばっかだったと思うんだけどな)
がしがしと頭を掻いて、俺は振り向いた。
そこには――やっぱりいつもの奴がいた。
それこそが、俺の夢のもう一人の登場人物。俺から少し離れて立っているそいつは、黙って佇んだまま、いつものように俺の方をじっと見つめていた。
俺よりも少し背が低いそいつの顔は、真正面から向き合っているにも関わらず、ぼやけてうまく認識できない。体格からどうやら女らしいということは分かるのだが、それだけだ。
顔立ちも、髪の色も、勿論声も分からない。ただ物心ついた時にはこの女は俺の夢の中にいて、俺が自分の期待する何かを始めるのを待つように、ただ口を閉ざして俺を見つめるだけなのだ。
手を伸ばしてみるが、そいつに届く前に透明な壁に弾かれるのもいつものことだった。昔は近寄ろうとしたり話しかけてみたりと色々試していたものの、今ではもうすっかり諦観し、その場に立ったまま我慢比べみたいにガンのつけ合いを続けている。
(相変わらず、動きがねえなぁ……)
半ば辟易しながらそんなことを考えていた、しかしその時。
女が、動いた。
「……へ?」
ありえない出来事に、瞬間俺は反応が遅れる。
十年以上黙って突っ立っているだけだった女が、俺の方に向かって一歩踏み出していた。
す、と音もなく動いた足が、俺との間にあった距離を縮める。
――まさか。
なぜ、今更。
茫然とした心地で、俺は女の動作を見守る。女は今にも触れそうなほど俺の近くに来ると、ゆっくりとした動きで俺の顔に手を伸ばしてきた。華奢な手が、紙一重の空間を空けて俺の輪郭をなぞるように動き――
次の瞬間、握り締められた女の拳が、盛大に俺の顔面にめり込んでいた。
「――――っっだああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
物凄い勢いで飛び起き――ようとしたが寝袋に入っていたためビコビコとイモムシのように跳ね回るしかなかった俺を、やや距離を空けて蹲っていた獣が顔を上げ、胡乱げな目で見やってきた。
「……っ、わ、悪い、何でもない」
不機嫌そうにパシリと尻尾を打ちつけられてようやく我に返った俺は、慌ててそう言い繕った。獣は溜息をつくような仕草をして、再び瞼を閉じた。
※※※
《獣と人間は、心を通わせるようになりました。
獣はいつも人間について歩き、人間はいつも獣の傍にいました。
ずっとこうしていられたらいいと、いつしか互いに思っていました。
それでも、それはできないことでした。死なない獣に対して、人間は強かったけれども、とても脆くて壊れやすかったからです。
ある夜のこと、人間がぽつりと言いました。
死ぬのは怖くない、けれどお前を置いて行くのは怖い、と。
獣は問いました。
自分と一緒に生きたいか、と。
人間が頷くと、獣は少しだけ黙って、それから言いました。
ならば約束をしよう、と。》
※※※
獣の様子がおかしいことに気づいたのは、一月ほどが経過した頃のことだった。
俺が来てからというもの、麓にも降りず、一日の大半を傍で過ごしていた獣は、だんだん狩りに出ないようになった。
最初に出会った白い花の野原で、昼間はほとんど寝転がっている。かと言って眠っているわけでもないようで、ただただじっとしているのだ。
食事も摂らなくなった。そのくせ、夜になると月を見上げ、考え事でもしているように静かに座っている。
「ちょっとでいいから食えって。ほら、携帯食料好きだろ? 最近水もあんまり飲んでないじゃねーか。脱水症状で死ぬぞ、おい」
俺が宥めても賺しても、獣はぱたりと尻尾を振るだけだった。徐々に弱っていく獣に、俺は途方に暮れていた。
(動物は自分の死期を悟るって言うけど……)
まさかこの獣も己の死が近いことを予感して、大人しくその時を待っているのだろうか。うっかりそんなことを思ってしまい、俺はぞっとする。
いつまでもこの生活が続くなんて本気で思っていたわけではないが、それでも、こんな形で別れるなんて冗談じゃなかった。
離れるとしても、それはずっと先の話で。
明日も明後日も、この綺麗な白銀の獣は自分の傍にいるのだと、当たり前のように信じていたのに。
(寿命……? いや違う、こいつはまだ若い、そんな歳じゃないはずだ。なら病気か? それとも変なものでも食ったのか? くそ、何百年も生きてるような魔獣が、こんなことで死ぬわけねぇだろ!)
異常なほどの速度で衰弱していく獣の姿に、俺は焦燥ばかりが募る一方で。
街に降りて薬を手に入れてくるかと考えても、傍を離れたが最後、二度と獣に会えなくなるかもしれないと思うと、実行には踏み切れなかった。そもそも見たこともないような魔獣の、病名も分からないような病気に効く薬を入手する当てなど無い。
「死ぬなよ。頼むから」
眉間に皺を寄せ、今日も夜空を見上げている獣を無理やり傍に引っ張ってくる。
この獣が、ここ最近ほとんど寝ていないことを知っている。人間だろうが動物だろうが、睡眠は取らなければ死ぬのだ。これ以上放置しておく気はなかった。
獣を膝の上に乗せ、短期間で随分と艶を失くした被毛を控えめに撫でる。大人しく目を閉じた獣の後頭部を眺めながら、これ以上弱るようならこの獣を抱えて医者にでも何でも行くしかないと考える。
背骨の形がはっきり分かるほどに細い獣の背中を撫でながら、俺の瞼もだんだん落ちて行く。
そうして、がくんっ、と頭が落ち、はっとして目を開けると辺りは明るくなっていた。
(……朝か)
はぁ、と息を吐き出して膝の上に目を落とし――息を呑む。
そこに、獣の姿はなかった。
「あいつ、どこに行った!」
慌てて跳ね起き、辺りを見回す。
いつの間にいなくなったのか分からないが、あんな状態で狩りもないだろう。少々具合が良くなったとしたって、あれだけ弱っていてすぐに動けるようになるとも思えない。
放り出してあった剣を腰に吊るし、俺は駆け出した。
「おいこら、どこだ! 出て来ーいっ!」
呼ぶべき名前を知らないのがもどかしいが、俺はとにかく霧の薄そうな方向目指して走る。
「くそ、あいつ、心配させやがって……!」
――一体どれだけ走ったか。
気が付くと俺は、麓に近い位置まで来てしまっていた。弱った獣がわざわざこんな所まで来るはずがない。そう思って引き返そうとした俺の目に、茂みの奥に透かし見える白銀色の影が映った。
「……お前……!」
急いで駆け寄ると、そこにはやっぱりあの獣がいた。蹲るようにしながら、木々の間から麓の村を見下ろしている。
「何やってんだ! どうしてこんなとこまで降りてきた!」
この位置なら村からも見えるかもしれない。弓で狙われでもしたらまずいことになると思った俺は、獣を抱え上げるようにして連れ戻した。
「ってこら、暴れんな!」
だが珍しいことに、抱え込まれた獣は急に抵抗し出した。いつもは大人しい奴なのに、まるでここから離れたくないというかのように手足をばたつかせる。
とは言え力が弱っているせいで俺でもなんとか抑え込むことはできて、様子がおかしいと思いながらも俺は再び山道を登って行く。
「――あのな、お前、あんまりアホなことするな」
いつも野宿をしている辺りまで戻ってくると、俺は早速獣を座らせて説教を始めた。獣は地面に伏せたまま不満そうに見上げてくるが、俺の知ったこっちゃない。余計な心配させたこいつが悪いんだ。
「なんでお前が食わなくなったのかとか、ンなこと俺には分かんねぇ。でもな、そんな体調の悪い時に、わざわざ目撃されに行くバカがどこにいるんだ。お前麓の奴らにビビられてるっつーことは知ってるんだろうが」
そうだ、この獣は賢い。もともと、俺がどうしてここに来たのかだって忘れちゃいないだろう。俺が帰ってこないことで麓の連中がますます獣を恐れるようになっている可能性もあるし、万一大勢で獣を殺しにやって来られたりしたら――。
考えて、少しだけぞっとした。情が移っている自覚はあったが、自分はいつの間にここまで肩入れしてしまっていたのやら。
いつもの癖で赤い髪をがしがしと掻き混ぜ、俺は深い溜息を吐き出した。
「考え無しなことはすんな。俺はまだお前を死なせるつもりはないんだよ。……俺はまだ、お前のことを何も知らないんだから」
ああ、そうだ。俺がこの山に留まる気になったのは、この獣に興味を抱いたからだった。
俺の好奇心はまだ満たされていない。
俺はまだ、この美しい獣と離れたくない。
「……あんなとこに座り込んで何を待ってるのかは知らねーが、もう少し元気になってからにしろ。最近霧だって薄いだろう? 何かがあった時に対処できなかったらどうすんだ」
そう告げた時、獣の瞳が一瞬揺らいだような気がした。だが、獣は何を言うこともなく、すぐに諦めたような吐息をついた。
俺はわしわしと獣の頭を撫で、ようやく苦笑した。
「ほら、お前は少し寝ろ。なんか消化に良さそうなものでも採って来てやるから」
大人しくしてろと言い置いて、俺は森へと入って行った。薬草でも見つかればいいと考えながら。
――けれど。
しばらくして、俺がその場所に戻ってきた時、そこに獣の姿はなかった。
「――っ、あいつはまた!」
抱えていた薬草や木の実を放り出し、俺は慌てて走り出した。あいつ、俺の言ったこと全然理解してねぇな!
少し前にも通った道を、全速力で駆け降りる。
まさかと思って来てみれば、やはりさっきと同じ場所、村を臨める位置に獣はいた。
だが、今度は目を開けていなかった。目を閉じて静かに肩を上下させながら、獣は眠っているようだった。
「…………、」
――はぁ、と肺の空気を絞り出す。そこまでここにいたいのか、こいつは。
俺はしばらく考えていたが、やがて獣を抱え上げ、茂みの向こうに連れ戻した。が、今度は山を登ることはない。
(……どうせまた降りて来ちまうんだろうからなー……)
この獣が一体何をしたいのか、俺には分からない。出来ることがあるならやってやるのに、獣は俺に何も望もうとしないから。
近くの木に凭れかかり、膝に獣を乗せる。そんなにここにいたいなら、せめて付き合ってやろうと決めて。
――起きたら一応また説教だな。
どうせ聞きはしないのだろうけど、と思って、俺は目を閉じた。
――ぴちょん、と冷たい感触と共に、俺は意識を覚醒させた。
「……朝か」
寝惚けた目をこすりながら、俺は状況を思い出す。
あのまま随分寝ていたらしい。そう言えば最近、獣のことが心配で、あまり睡眠がとれていなかったな。
葉っぱに溜まった露が滴り落ちて、俺の髪を濡らしている。白銀の獣が未だ膝の上で目を閉じているのを見下ろして、そこにいることに安堵した。起こそうかどうか迷ったが、こいつも最近あまり寝ていなかったようだから、眠っているなら眠らせておいた方がいい。
「早く元気になってくれよな……俺はもう生きた心地がしねぇんだから」
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回し、俺は苦笑した。撫でてやろうと獣の頭に手を伸ばし――そして凍り付いた。
「――――っっ!」
蒼白になって跳ね起きる。掴んだ獣の体は、既に冷たくなっていた。触れた指先から寒気が伝わってくるようで、俺の全身から血の気が引いた。
「な……」
茫然と呻く。震える手で獣を撫でてみても、ちっとも熱は伝わらなかった。
色の抜け切った俺の視線が、地面に落ちた。
「……、……」
ぽつん、と。
無意識に零れた言葉は、俺の耳にさえも受け止められることなく、虚空に溶けて静かに消えた。
※※※
《獣は言いました。
ならば約束をしよう。
私はお前の前から消える、そしてもう一度戻ってこよう。
この場所で、お前が私を待っていてくれるなら、私はどんなことがあろうとも、もう一度お前の前に現れよう。そうしたら、私は二度と、お前の前から消えはしない。お前を残して行くことも、お前に置いて行かれることもない。同じ時間を、共に歩める。お前は私を待ってくれるか。
人間は言いました。
幾年でも待とう。だから決して忘れるな、わたしがここにいることを。》
※※※
単純に気紛れと言い表すには、不適切な想いだと分かっていた。
興味。好奇心。確かにそれもあったのだろう。
だが、それだけではなかった。俺の中でいつの間にか大きくなっていた獣の存在は、どこか失くしたものを取り戻したような安心に似て。
――なのに全ては、もう遅い。
「――――――…………?」
ふと、俺はぼんやりとした目を、地面に敷いたマントの上に横たわらせた獣に向けた。
――獣の身体が、淡く発光していた。
獣の被毛と瞳と同じ、白銀色の光。呆けたように見つめる前で、光が強まり、獣の輪郭がゆらりと歪む。そうして――
「………………、」
静かに光が収まった時、そこにいたのは獣ではなく、俺と同じ年頃の女だった。
まだ幼さを残した顔立ちは少女と呼んでもいいくらい。随分とデザインの古い旅装束に、ぼろぼろのマントを羽織っている。
獣の被毛と同じ、前髪の一房だけが琥珀色の、白銀色の髪の毛。灰色がかった瞳をぱちくりと瞬かせ、そいつは俺のマントの上に座り込んで、茫然と俺を見つめ返していた。
「――……えぁ?」
混乱しきっていた俺がようやく声を出した。声と言うよりただの呻きだったが、それでも少女の耳には声と認識されたようで、彼女は「あ、あんた」と掠れた声で呟いた。高さも声色もまったく違うのに、どこかあの獣の唸り声を彷彿とさせる声だった。
「――お、おまっ、え、化け、」
数拍遅れてようやく状況を認識し、俺は唖然とした。口をぱくぱくさせながら、少女に触れて確かめようと腰を浮かし、
「――――遅いわボケぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
大絶叫と同時に繰り出された右ストレートを食らって吹き飛んだ。
あれ、なんかどっかで覚えのある感覚。
「ごぶぅっ!」
でっかいカエルが潰れたような悲鳴が喉から洩れた。ズザザザザと景気良く地面を耕し、数秒ひくひく痙攣したのちがばりと涙目で起き上がった俺の目に映ったのは、仁王立ちで拳を構える少女の姿。
「な、な、な、」
「な、じゃないわよ、な、じゃ! 一体いつまで待たせる気よ、この馬鹿ったれっ! あれだけ忘れるなって言ったのに! あれだけ戻ってくるって言ったくせに! あたしがどんな思いであんたを見葬送ったと思ってるのよ! 誰がそうなのかも分からないし、待ち切れなくて山を降りようにも人がいるから麓まで行くわけにはいかないし! 大概ダメかと思ったわあぁぁぁっ!」
「待ち、って、え? 見送る? お前、」
憤怒に震える少女を見上げ、引き攣り顔で口を開閉させていた俺は、そこで唐突に口を閉じた。ほとんど予備動作なしで跳ねるように起き上がると、流石に驚いたらしく「うっわ」と後ずさる少女の顔を覗き込み、顔やら手やら頭やらをべたべたべたべた触りまくる。
「お、お前っ、ああああああの獣かーっ!?」
「そうよっ! 人間寄りの記憶も意識もほとんど封じられてたけどね!」
少女は憤然と叫んだが、俺の手を振りほどいたりはしなかった。我知らず、俺の目にじわりと新たな涙が浮かぶ。
「よ、よく分かんねぇけど、……っ、良かったぁぁぁぁぁぁ……!」
俺は思わずしがみつくように少女を抱き締めて、華奢な肩に顔を埋めた。
「お前、心臓止まってるし、冷たいし……。もー俺、ホント死んだかと……っ!」
「死んだのよ、マジで」
「あー、もう訳分かんねぇ……事情を話せ、今すぐ」
「……あー、ほんとに忘れてるんだ。まあ無理もないけどさぁ……」
むすっとした顔で呻く少女は、それでもぽんぽんと俺の頭を撫でてくれた。いつもは俺があの獣にしていた仕草だったのに、何故だか今、俺はこいつにそうされることが奇妙なほど懐かしいと思えた。安堵で更に涙腺が緩む。
「……お帰り、サイ。あんたを待ってた。
百年間、あんただけを待ってたわ」
少女は俺の背中に手を回し、ぎゅう、と強く抱き締めた。何が何だか分からないままだったが、その温度には何故だかひどく安心できた。
「……うん。待たせて悪ィ」
初めてこいつの口から呼ばれた名前。生まれてこの方何万回と耳にした単語のはずなのに、今その響きはひどく心地好くて。
「……お前の名前、教えてくれるか?」
「……少しは思い出す努力をしたらどうなのよ」
「悪ィ」
逆らう気にはならなくて素直に謝ると、少女は少し黙って、それから俺の耳元で小さく答えを囁いた。聞き取ったその名を半ば無意識に繰り返し、確かめるように頷いた拍子に、涙がひとつ、零れて落ちた。
※※※
《昔、まだ獣に人の記憶が残っていた頃。
綺麗な、血のような紅色の被毛を持った、強くて賢くて罪深いその獣は、一度だけ神様に尋ねました。
どうすれば、自分はこの罪を終わらせることができるのですか。
神様は言いました。
人間だった獣よ、咎から逃れたいか。死ぬことすらできない生に倦んだか。ならば一つだけ、呪いを解く方法を教えよう。人間でも動物でもいい、もしもお前が、お前以外の存在を愛し、愛されることができたなら、その時お前は獣の生から解放されるだろう。獣のお前は死に、再び人として生まれ変わることができるだろう。
――ただし、と神様は言いました。
お前が生まれ変わるのは百年あとだ。お前が死んでから百年間、お前が愛した相手は、お前の代わりに死ねない獣としての生を負う。
お前が生まれ変わり、獣となった相手の前に再び現れて想いを捧げた時、お前と相手は、ようやく全ての鎖から解き放たれるだろう。しかし、お前がその約束を果たせなかった時には、相手は獣の姿のまま死ぬだろう。
見つけるがいい、呪われた獣よ。百年お前の代わりに業を背負ってもいいと言うほど、お前を求めてくれる存在を。
冷酷すぎる救いの言葉に、獣は絶望しました。そんなことは起こりうるはずがないと、誰よりも獣自身が一番分かっていたからです。
全ての希望を放棄して、獣は獣になりました。
人であることを、獣は完全にやめました。
一人の人間がやってくる、その日まで。》
――それは、昔々の御伽噺。
魔獣が息絶えたと思った時、無意識に零れたサイの言葉こそが魔獣の本当の名前だった。それがなかったら少女は魔獣のまま本気で死んでいたらしい。