没落令嬢は月光のアザミと奇跡を編む~暴走する魔導樹を素手で癒やしたら、冷徹な師団長の所有物(庭師)になりました~
王都の夜は、魔導灯の青白い光に彩られ、一見すれば華やかだ。しかしその光は、影をより深く、濃く作り出す。
王宮の北側に位置する「禁忌の魔導庭園」。
そこは、歴代の魔術師たちが放出した「魔力の滓」が澱み、並の人間なら近づくだけで精神を病むと言われる呪われた地だった。
その高い石壁に、一人の女が取り付いていた。 エルセ・ラングリス。
かつて伯爵家の令嬢だった頃の面影は、今の彼女には微塵もない。灰色のチュニックは至るところが擦り切れ、爪の間には黒い土が入り込んでいる。
だが、必死に壁にしがみつきながら野草を見つめる彼女の瞳は、どんな高価な宝石よりも鮮やかに輝いていた。
「あった……。間違いない、あれは『月光のアザミ』の原種だわ!」
歓喜に震える声が漏れる。
それは魔導汚染を浄化する希少な薬草。
没落し、日銭を稼ぐために薬草売りとなったエルセにとって、それは文字通りの「希望」だった。
「待っててね、今助けてあげるから。あんな魔力の溜まり場にいたら、根っこが焼けちゃうわ」
驚くべき身軽さで壁を乗り越え、彼女は禁域へと足を踏み入れた。
そこには異様な光景が広がっていた。過剰な魔力を吸い込んで巨大化した食人花や、毒々しい霧を吐くシダ植物。
だがエルセは、まるでお気に入りの散歩ルートかのように、鼻歌まじりに歩を進める。
「あら、みんな。お腹を空かせているのね? 大丈夫、今少しだけ楽にしてあげる」
彼女がその細い指先で葉に触れると、殺気立っていた植物たちが、まるで母親に撫でられた赤子のように大人しくなり次々と道を開ける。
ついに目的のアザミの前に膝をついたとき、背後から氷のように冷たい声が響いた。
「……自殺志願者か?それとも、よほどの馬鹿か」
心臓が跳ね上がる。
ゆっくりと振り返ると、そこには漆黒のローブを纏った男が立っていた。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、射抜くような鋭い紫の瞳。整いすぎた容姿は人間離れしており、放たれる威圧感だけで周囲の空気が重く沈む。
王立魔導師団長、アルフレート・カスティエル。 冷徹無比な性格から「氷の公爵」と恐れられ、何よりも「汚れ」を嫌う男だ。
「……あ、あの。こんばんは?」
エルセは、泥のついた手を背後に隠すと、中途半端な会釈をした。
「こんばんは、ではない。ここは私が管理する禁域だ。不法侵入、および魔導植物の窃盗未遂。……処刑が妥当だな」
アルフレートの視線は、泥だらけのエルセを汚物でも見るかのように冷たく射抜く。
だが、エルセは「処刑」という言葉よりも、彼の蒼白な顔色が気になってしまった。
「……あの、閣下。処刑の前に一つよろしいでしょうか」
「遺言か?」
「いいえ。閣下、かなりひどい『魔毒』が溜まっていますね? 眉間のシワ、その熱っぽい視線……。さては、まともに眠れていないでしょう。それ、この子の根っこを煎じて飲めば少しは楽になりますよ」
悪びれもせず、足元のアザミを指差すエルセ。アルフレートの瞳が驚愕に揺れた。彼が長年秘匿し、苦しんできた魔毒の蓄積を、初対面の、それもこんな泥だらけの娘が一目で見抜いたからだ。
「貴様……何者だ」
「ただの薬草売りです。あ、元はラングリス家の娘ですが」
「ラングリス? あの、植物狂いの……」
その時、庭園の中央に鎮座する「魔導樹」が不気味な咆哮を上げた。魔力の飽和による暴走の予兆。
「ちっ、こんな時に……! 女、そこを動くな。巻き込まれて死にたくなければな」
アルフレートが呪文を唱えようとしたが、激しい咳き込みが彼を襲う。
「ダメですよ、そんな無理に魔力をぶつけたら。この子はただ、お腹が痛いだけなんですから」
エルセはアルフレートを追い越し、真っ直ぐに樹へと駆け寄った。
「待て、死ぬぞ!」
制止も聞かず、エルセは樹の幹にそっと両手を触れた。
「大丈夫よ。よしよし、苦しいのは私が引き受けてあげるから」
瞬間、彼女の瞳が宝石のように発光した。
彼女の体を通じて、澱んだ魔力がキラキラとした光の粒子へと変換されていく。
暴走していた魔導樹は一瞬で静まり返った。
「……信じられん。素手で魔導汚染を中和したというのか」
アルフレートは、彼女をまじまじと見つめた。不潔で非常識。だが彼女が触れた後の空気は、驚くほど澄んでいた。
アルフレートはエルセの手首を強引に引き寄せた。
「ひゃっ!?」
「エルセと言ったな。……貴様を処刑するのはやめてやる。その代わり、今日から私の所有物(庭師)になれ」
「ええっ!? でも私、アパートの家賃を払わないといけないし、育ててる毒草に水もあげなきゃ……」
「そんなものどうとでもなる。この庭を、そして私を浄化しろ。これは命令だ」
公爵邸での生活は、嵐のようだった。
アルフレートは極度の潔癖症だ。
使用人さえも彼に近づくことを許されないその邸宅で、エルセはあろうことか「最も汚れる仕事」を謳歌していた。
一週間後。
アルフレートがエルセに与えた豪華な客間の扉を開けたとき、彼は絶句した。
「……エルセ。これはいったい、何の真似だ」
そこはもはや部屋ではなかった。天蓋付きのベッドからはツタが垂れ下がり、絨毯の上には鉢植えが所狭しと並んでいる。
エルセ自身も、銀髪に小さな双葉を乗せたまま、床に座り込んでいた。
「あ、アルフレート様! 見てください、この『虹色コケ』。寝室に置けば、魔毒を吸って安眠効果が出るんですよ」
「コケなんぞ寝室に置けるか。捨てろ。それから、その髪の葉を取れ。……くっ、なぜ君という人間はそう……」
アルフレートは顔を覆った。
本来なら、こんな不潔な部屋は一秒も視界に入れたくない。
だが、彼は気づいていた。エルセが来てから、常に彼を苛んでいた微熱が引いていることに。
彼は無言でエルセの隣に跪くと、彼女の髪についた葉っぱを指先でつまみ出した。
「ひゃ……あ、ありがとうございます」
「……大人しくしていろ。せっかく美しい瞳をしているんだ。少しは飾り立てればいいものを……」
至近距離で見つめ合う。
アルフレートの指先が無意識のうちにエルセの頬を掠めた。
エルセが公爵邸に迎えられて幾度目かの夜。
アルフレートは魔毒による痛みと倦怠感でうまく寝付くことができないでいた。
エルセがやってきてから随分と楽になったとはいえ、揺り返しのようにたびたび魔毒がアルフレートを苦しめた。
アルフレートが眠ることを諦めベッドから起き上がると、窓の外にうずくまる人影を見つけた。
深い夜の庭園に出ると、案の定エルセがせっせっと夜露を吸った特殊な薬草を摘んでいた。
「……何をしている。こんな時間に不潔な真似を」
冷淡に言い放つアルフレートだが、エルセはひるまない。
「この薬草は今の時間が最も力を持つんです!きっとアルフレート様の役に立ちますよ」
エルセは泥のついた手を一生懸命エプロンで拭うと、アルフレートの手に自分の掌を重ねた。
「アルフレート様、掌が熱すぎます。私の手は今、夜の土で冷えているから……少しは気持ちいいですよ」
不浄を嫌うアルフレートだが、拭ったとはいえ泥を触っていたエルセの手を振り払えない。
エルセの掌を通じて流れ込む、春の陽光のような穏やかな魔力。
その心地よさに、アルフレートの硬い表情がわずかに解ける。
「……私のためにこんな時間に外に出ていたのか。……呆れたことだ」
そう毒づきながらも、アルフレートはエルセの細い指を、壊れものを扱うようにそっと握り返した。
平穏な日々は、唐突に破られた。
王宮の晩餐会。
エルセの能力を嗅ぎつけた宰相・ヴォルガンが、彼女を拉致したのだ。
ヴォルガンこそ、かつてエルセの父を陥れ、ラングリス家を没落させた張本人だった。
「ラングリス家の娘よ。その瞳の力、国のために……いや、私の私兵として使わせてもらおう」
地下牢で「魔導抽出器」に繋がれたエルセは、苦痛に顔を歪めた。
「やめて……。植物たちが、泣いているわ……」 彼女の魔力が強制的に引き出されるたび、王都の植物が枯れ、代わりに街中に禍々しい魔力が溢れ出す。
その頃、アルフレートは荒れていた。 エルセが消えた邸宅。
彼女がいなくなった途端、空気は淀み、彼の体にはかつてないほどの激痛が走っていた。
だが、それは魔毒のせいだけではなかった。 胸の奥を焼き焦がすような、欠落感。
「……私の庭に、誰が触れていいと言った」
彼の瞳に、冷徹な殺意が宿る。
アルフレートは魔導師を動員し、自ら先頭に立って王宮へと突き進んだ。
地下牢の最深部。
アルフレートが辿り着いたとき、エルセは今にも光を失いそうな瞳で宙を見ていた。
「エルセ!」
「アルフレート様……。ダメです、来ないで。私の魔力が、暴走して……」
宰相が操る古代植物の触手が、アルフレートを襲う。
彼は魔毒による激痛に耐えながら、幾千もの氷の刃を放ち、道を切り拓く。
「黙っていろ! 君が泥だらけになろうが、変な草を育てようが、君の勝手だ。……だが、君が傷つくことだけは、私が許さない!」
アルフレートは魔導抽出器を破壊すると、エルセを強く抱き寄せた。
その瞬間、二人の魔力が共鳴した。
アルフレートの破壊的な魔力が、エルセの浄化の力と混ざり合い、真っ白な光となって王宮全体を包み込む。
エルセの瞳が、これまでにないほど鮮やかな翡翠色に輝いた。
「――咲きなさい、月光のアザミ!」
エルセの声に応えるように、王宮の地面から無数の青白い花が芽吹き、黒い魔導汚染を一瞬で食い尽くしていく。宰相の野望は、文字通り花の下に沈んだ。
一ヵ月後。 ラングリス家は名誉を回復し、エルセは「王国の聖女」として讃えられることになった。
だが、彼女の居場所は変わらなかった。
「あ、アルフレート様! また勝手に新しい肥料を買いましたね!?」
「うるさい。君の部屋に置く花を育てるためだ」
公爵邸の庭園。かつての冷徹な魔導師団長は、今やエルセにベタ惚れの「甘すぎる夫」となっていた。
彼は、相変わらず髪に葉っぱをつけたままのエルセを後ろから抱き寄せ、その細い首筋に顔を埋める。
「……エルセ。もう逃さないと言ったはずだ。君は一生、私の庭で咲き続けるんだ」
「もう、アルフレート様は相変わらず強引なんですから……」
エルセは困ったように笑いながらも、彼の胸に身を預ける。
彼女の瞳には、かつての孤独な没落令嬢の影はない。そこにあるのは、愛する人と共に生きる、最高に幸せな庭師の輝きだった。
二人の周りには、満開の月光のアザミが、祝福するように優しく揺れていた。




