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城の世璃  作者: 秦江湖


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覗く目(私立探偵相馬)

 雨は、犯罪者にとって最高の隠れ蓑だ。  足音は消え、体臭は洗い流され、視界は悪い。  だが、監視する側にとっても、これほど好都合な天気はない。



 俺――私立探偵の相馬は、レインコートのフードを目深にかぶり、森の茂みに身を潜めていた。  目の前には、崖の上にそそり立つ古びた洋館。  地元で「一家心中屋敷」と呼ばれている、曰く付きの物件だ。


 依頼人は、里見という若い女性だった。  かつてこの屋敷で家庭教師をしていたという彼女は、悲痛な面持ちで俺に言った。


『屋敷に残った足の悪い青年と、精神を病んだ妹さんが心配なんです。  後見人の叔父が、彼らを虐待しているんじゃないか……調査してほしいんです』



 ありふれた依頼だ。  俺は軽い気持ちで引き受けた。  だが、この三日間の張り込みで、俺の直感は警鐘を鳴らし続けている。


 ――この家は、おかしい。


 まず、使用人がいない。  これだけの豪邸なら、掃除婦や庭師の一人くらい雇うはずだが、出入りするのは、デップリと太った中年の男――例の叔父――だけだ。  そして、夜になると聞こえてくる、奇妙な音。  獣の唸り声のような、あるいは誰かが笑っているような、不快な声。



 俺は防水仕様の双眼鏡を構えた。  リビングの窓には、分厚いカーテンが引かれている。  だが、今夜は少し様子が違った。  カーテンの隙間から、赤い光が漏れている。


「……なんだ?」


 俺はピントを合わせた。  隙間から見えたのは、シャンデリアだ。  だが、そのクリスタルガラスは、なぜか真っ赤に濡れていた。  まるで、天井から赤いペンキをぶちまけたように。



 次の瞬間、俺は息を呑んだ。  床に、何かが倒れている。  肉の塊だ。  見覚えのあるスーツ。あの叔父だ。  だが、首から上がない。


「おいおい……マジかよ……」


 殺人だ。  依頼内容が変わった。これは虐待調査どころじゃない。緊急事態だ。  俺が慌てて懐から携帯電話を取り出そうとした時、レンズの視界に「それ」が入ってきた。


 少女だ。  長い黒髪の、美しい少女。依頼対象の一人、妹の「世璃」だ。  彼女は、パジャマ姿で、叔父の死体の上に跨がっていた。  そして、何かをしていた。  顔を上下に動かしている。  死体にキスをしている? いや、違う。  彼女が顔を上げるたびに、口元から赤い液体が糸を引き、肉片がこぼれ落ちる。



 ――食っている。  人間を、食っている。



 戦慄で手が震え、双眼鏡がカチリと音を立てた。  雨音にかき消されるほどの、小さな音だ。  聞こえるはずがない。ここから屋敷までは50メートル以上離れている。


 だが。  レンズの向こうで、少女がピタリと動きを止めた。  そして、ゆっくりと顔を上げた。  口の周りを鮮血で真っ赤に染めた彼女が、正確に、一直線に、俺の方を見た。


 目が合った。  暗視スコープ越しでもわかる。彼女は笑っていた。  獲物を見つけた獣の笑顔で。



「……ヤバい」



 俺は本能的に飛び退いた。  プロの勘が告げている。見られたら終わりだ。  警察に通報? 証拠写真?  そんな悠長なことは言っていられない。今すぐここから逃げなければ、俺もあの肉塊の一部になる。


 俺は機材を放り出し、泥だらけの森の中を走り出した。




 ***




 叔父様の首の肉は、思ったよりも筋張っていて、脂っこかった。  まあ、空腹を満たすには十分だわ。


 モグモグと咀嚼して飲み込んだ瞬間、あたしの鼓膜が揺れた。  カチリ。  金属とプラスチックがぶつかる、硬い音。  距離は50メートル。庭の向こうの、森の中。



 あたしは顔を上げた。  窓の外、雨のカーテンの向こう側に、黒い影が見える。  そして、強烈な「恐怖」の臭いが漂ってきた。


 ――濡れた犬の臭い。  いや、違うわね。あれは「ネズミ」だわ。


 どこかの誰かが、あたしたちのお城を覗いていたみたい。  双眼鏡? カメラ?  どちらにしても、見られちゃった。  あたしが食事をしているところも、叔父様がただの肉になったところも。



「……世璃?」


 お兄様が、あたしの様子に気づいて声をかけてきた。  お兄様は、叔父様の死体から目を逸らして、青い顔をしている。


「どうしたの?」


「ううん、なんでもないよ」


 あたしは口元の血を手の甲で拭って、ニッコリと笑った。


「ちょっと、お庭にネズミが迷い込んだみたい。  捕まえてくるね」


「ネズミ?」


「うん。放っておくと、ばい菌を撒き散らすから。  ……すぐに『駆除』しなきゃ」



 あたしは立ち上がり、窓を開けた。  激しい雨と風が吹き込んでくる。  冷たくて気持ちいい。  狩りの時間だ。


「行ってきます、お兄様。  デザートも、すぐに持ってくるからね」



 あたしは窓枠に足をかけ、闇の中へと身を躍らせた。  逃げ足の速いネズミさん。  せいぜい楽しませてね。



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