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城の世璃  作者: 秦江湖


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濃厚な鉄の味

『――突然のお電話で申し訳ありません。以前、家庭教師をしておりました里見です』



 受話器の向こうから、理知的な女の声が響く。  あたしの耳には、その声の波形から「純粋な善意」と「正義感」が読み取れた。  一番厄介な種類タイプの人間だ。



『叔父様が戻られたと風の噂で聞きまして……静くんと、世璃ちゃんのことが心配で。  あの事件の後、ずっと気になっていたんです。静くんの足の具合はどうですか? ちゃんと病院には行けているんですか?』


「あー、問題ない。元気にやってるよ。余計なお世話だ」


『でも、お声だけでは安心できません。  ……実は今、近くまで来ているんです。明日、お屋敷に伺ってもよろしいでしょうか』


 叔父様は面倒くさそうに顔をしかめた。


「明日は忙しいんだ。また今度……」


「叔父さん!」


 お兄様が、珍しく強い声で遮った。  叔父様の腕を掴み、受話器を奪おうとする。


「……代わってください。先生と話をしたいです」


 叔父様は舌打ちをして、乱暴に受話器をお兄様に渡した。



「……もしもし。先生、静です。……はい、お久しぶりです」


 お兄様が、電話口で笑っている。  安堵したような、暗闇の中で一筋の光を見つけたような、柔らかい笑顔。  あたしに見せる「共犯者の顔」とは違う。  もっと真っ当で、人間らしい表情。



 ――嫌だ。


 あたしの胸の中で、黒い泥のような感情が渦巻いた。  その女は誰?  どうして、お兄様をそんな顔にさせるの?  お兄様の世界には、あたしだけがいればいいのに。


「……はい。明日、待っています。……ええ、世璃も一緒です」


 お兄様が電話を切った。  受話器を置く指先が、微かに震えている。それは「希望」の震えだった。  でも、その希望はすぐに踏みにじられた。


「ケッ、しつこい女だ。金にもならんのに」


 叔父様が、グラスに残ったワインを一気に飲み干して、ゲマン、と下品なゲップをした。  そして、お兄様の肩を突き飛ばした。



「おい静。あんな女が来たところで、お前の足が治るわけでも、金が湧くわけでもないんだぞ。  無駄な期待をするな。お前は一生、この屋敷で俺の世話になってりゃいいんだ」


 お兄様がよろめき、壁に背中をぶつける。  叔父様は、さらにあたしの方へ向き直った。  血走った目で、あたしの二の腕をむんずと掴む。


「それより世璃、さっきの話だ!  『帝都製薬』の次はなんだ? 明日、あの女が来る前に注文を入れておきたいんだよ。  ほら、もっと稼げるやつの『匂い』を嗅げ!」


 叔父様の爪が、あたしの皮膚に食い込む。  痛い。汚い。  脂とアルコールの悪臭が、あたしの鼻を麻痺させそうになる。



 あたしは無言で、叔父様を見上げた。  この豚は、わかっていない。  自分がいま、ライオンの口の中に手を入れているということを。


「……離せ」

「あ?」

「離してよ、汚い」


 あたしが低い声で言うと、叔父様は逆上した。


 パチン!  


乾いた音がして、あたしの頬が熱くなった。


 叩かれたのだ。



「誰に向かって口を利いてるんだ!  この化け物が! 誰が飼ってやってると思ってる!」


 アルコールの高揚はここまで弱者の気を大きくするのか。


 叔父様がさらに腕を振り上げた、その時だった。


 部屋の空気が、ふっ、と冷たくなった。  まるで、冷蔵庫の扉を開けたみたいに。



「……叔父さん」


 お兄様の声だ。  さっき電話で話していた時の、温かい声じゃない。  深海の底みたいに静かで、冷たい声。


「その汚い手で、僕の妹に触るな」


 叔父様が動きを止めて振り返る。


 お兄様は、壁に寄りかかりながら、氷のような目で叔父様を見下ろしていた。  そして、ゆっくりとあたしの方を見て、今までで一番優しく微笑んだ。


「世璃。……もう、我慢しなくていいよ」


 それは、魔法の言葉だった。  首輪の鎖が外れる音。  あたしは嬉しくて、喉の奥で笑った。


「いいの? お兄様」


「うん。お腹、空いただろう?  ……『お夜食』にしておいで」



 叔父様が「な、なにを……」と言いかけた時には、もう遅かった。  あたしの顎が外れる。  人間の口の大きさの限界を超えて、耳まで裂けるように開く。


 叔父様の瞳に、あたしの口の中の「闇」が映った。  無数の牙。粘つく唾液。


「ひッ、ぎゃあぁぁぁぁ――!?」


 悲鳴は一瞬で途切れた。  


 ガブッ。  

 ゴクリ、ゴクリ。  


 喉を通る、濃厚な鉄の味。脂っこいけれど、空腹にはたまらない。叔父様の身体が、糸の切れた人形みたいに床に崩れ落ちる。  


 手足がピクピクと痙攣しているけれど、もう意識はない。



 あたしは口の周りを血だらけにしたまま、振り返った。  お兄様は、目を逸らさずに見ていた。 血の海に沈む豚の死骸と、それを貪り食うあたしを。その顔には、恐怖はなかった。あるのは、どこか憑き物が落ちたような、暗い安堵だった。



「……満腹したかい? 世璃」


「うん。美味しかったよ、お兄様」



 こうして、あたしたちの城から「王様」はいなくなった。残されたのは、二人の共犯者と、肉の塊だけ。






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