守ってあげる
ノイズが晴れると、そこは灰色の世界だった。
今と同じ、激しい雨の夜。
でも、空気の味が違う。
今の部屋には「安らぎ」があるけれど、記憶の中のこの部屋には、張り詰めたピアノ線のような「緊張」と、腐った水のような「諦め」が充満している。
お兄様は、窓際で車椅子に乗っていた。
今よりも少し髪が短くて、頬の肉付きがいい。まだ、この家の毒気に完全に侵される前の姿だ。
彼は窓ガラスに映る稲光を、怯えた目で見つめている。
その隣に、白い着物を着た少女が立っていた。
――『那美』だ。
あたしがこの身体を作る時にコピーした、オリジナルの持ち主。
あたしの心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
鏡を見ているようだ。
目鼻立ちも、髪の長さも、ホクロの位置さえも、今のあたしと寸分違わない。
けれど、雰囲気がまるで違っていた。
あたしが色鮮やかな「造花」なら、彼女は今にも散りそうな、凍りついた「氷の花」だ。
色素の薄い肌は、陶器のように青白い。
瞳には光がなく、深海のように静まり返っている。
彼女は、まるで自分の葬式に出るような顔をして、窓の外を見ていた。
『兄さんの方が幸せだよ』
記憶の中の那美が、静かに言った。
その声は、お兄様の記憶の中で美化されているせいか、銀の鈴を転がすように綺麗だった。 あたしの声帯と同じはずなのに、どうしてこんなに響きが違うの?
『どうして? 僕は足も悪いし、才能もない。
両親からは「出来損ない」だって言われて、家督も継げない役立たずだよ』
『ううん。だって兄さんは、自分のままでいられるから』
那美は、着物の袖を少しだけまくり上げた。
そこから覗いた細い腕を見て、あたしは息を呑んだ。
痣。
赤黒い痣、紫色の痣、黄色く治りかけた痣。
無数の斑点が、白磁のような肌を埋め尽くしている。
それは暴力の跡ではない。
両親が無理やり「おまねき」させた、下級たちが残した爪痕だ。
器としての許容量を超えて酷使された肉体が、悲鳴を上げている証拠。
『私ね、時々わからなくなるの。 朝起きて、鏡を見た時……そこに映っているのが本当に私なのか。 それとも、別の何かが私の皮を被って笑っているのか』
那美はお兄様の車椅子にかがみ込み、悲しげに微笑んだ。
その指先が、お兄様の膝に触れる。
やめて。触らないで。
それはあたしの場所よ。
あたしは記憶の映像に向かって威嚇したけれど、幻影の二人は気づかない。
『次にパパたちが呼ぼうとしている「あの方」は、今までのものとは違うわ。 気配だけでわかる。……すごく強くて、すごく怒ってる。 契約で縛り付けて、願い事を叶えさせようだなんて……きっと、ただじゃ済まない』
――ええ、そうよ。
あたしは心の中で相槌を打った。
あたしは怒っていた。
眠っていたのに無理やり起こされて、狭い人間の器に押し込められようとしていたから。
『那美……』
『私、ずっと制御できる自信はないな。 もしも私が壊れて、中から「化け物」が出てきて、兄さんを傷つけるようなことがあったら……』
そこで記憶の映像が、ザザッ、と激しく揺らいだ。
お兄様の心が、痛みに耐えきれずに拒絶したのだ。 映像が途切れる直前、那美は何かを決意したような、凄絶な目でこちらを見ていた。
その目は言っていた。 『守ってあげる』と。 そして、『さようなら』と。




