蝙蝠の計算
その日の夕方。
犬飼が、息せき切って屋敷にやってきた。 いつもの「貢ぎ物」を持たず、手ぶらで。 その顔色は青ざめているけれど、目の奥には奇妙な光――計算高い光が宿っていた。
「……静様。世璃様。ご報告があります」
リビングに通された犬飼は、汗を拭きながら切り出した。
「街の連中が……いえ、この地方の『裏』を取り仕切っている老人たちが、動きました」
「老人?」
お兄様が、面白そうに眉を上げた。 手元のグラスには、昨日「収穫」したばかりの新鮮な赤色が揺れている。
「はい。海沿いの集落に住む、因習深い連中です。 彼らが、県内でも有名な『拝み屋』の老婆を呼び寄せました。 今夜、20人規模の自警団と共に、ここへ『お祓い』に来るそうです」
犬飼は、深刻そうな顔を作って報告した。 でも、あたしには聞こえる。 彼の心臓の音が、恐怖とは違うリズムで弾んでいるのを。
――こいつ、天秤にかけてるわね。
あたしは鼻を鳴らした。
犬飼の腹の中は透けて見える。
『あの拝み屋は本物だ。もしかしたら、この化け物たちを祓えるかもしれない』
『もし祓えれば、俺は自由の身だ』
『逆に化け物が勝てば、俺は「忠実に報告した下僕」として覚えが良くなるし、引き続き株で儲けられる』
どちらに転んでも、自分だけは助かろうとしている。
蝙蝠のような男。
でも、その浅ましさが、今のあたしたちには心地いい。
純粋な正義感よりも、こういう濁った欲望の方が、ペットとしては扱いやすいから。
「……それで? 警察は動かないのかい?」
お兄様が尋ねる。 犬飼は首を横に振った。
「動きません。……いえ、動けません。 あの老人たちは、地元の警察署長や政治家にも顔が利く。
『今夜、あの山には近づくな』という圧力がかかっています。 法律の外側で、あなた方を……物理的、霊的に抹殺するつもりです」
「なるほど。 公権力ではなく、私刑を選んだわけだ」
お兄様は、嬉しそうに笑った。 その笑顔は、新しいおもちゃを与えられた子供のように無邪気で、残酷だった。
「ありがとう、犬飼さん。いい情報だ」
「はっ……。では、逃げますか? 今ならまだ……」
「まさか」
お兄様は立ち上がり、窓の外を見た。 夕闇が迫る森の向こうから、無数の殺気と、線香の臭いが風に乗って漂ってくる。
「せっかくのお客様だ。歓迎しないとね」
お兄様は振り返り、犬飼に告げた。
「君は帰っていいよ。 巻き込まれると危ないからね」
「は、はい! 失礼いたします!」
犬飼は一礼すると、脱兎のごとく逃げ出した。
おそらく、安全な場所から高みの見物を決め込むつもりだろう。
自分が呼び込んだ嵐が、どちらを飲み込むか楽しみにしながら。
車のエンジン音が遠ざかっていく。 リビングには、あたしとお兄様だけが残された。
「……ねえ、世璃」
「なあに?」
「楽しみだね。 古い神様と、新しい魔王。 どっちがこの土地の主に相応しいか、決める時が来たようだね」
お兄様の瞳が、金色に輝く。 お兄様は、窓ガラス越しに、森の向こうの街を見下ろした。 無数の殺気と、呪詛の気配。
けれど、お兄様はつまらなそうに鼻を鳴らして、静かに呟いた。
「……まあ、どんなに集めても、 どうせ、パパやママ……そして那美たちよりは、全然弱い連中だよ」
その声は、あまりにも静かで、確信に満ちていた。
「命を削って『泥の王』を招いた両親や、その器になりきった那美に比べれば。 彼らの覚悟なんて、おままごとみたいなものさ」
あたしは、お兄様の腕にしがみついた。 そうね。その通りだわ。 あたしたちは、もっと濃くて、ドロドロした地獄を生き延びてきたんだもの。
「うん。 あのお利口なカエルさんたちに、教えてあげましょう。 井戸の外には、もっと怖い世界があるってことを」
こうして、あたしたちはテラスへと向かった。 最高の「特等席」で、身の程知らずな挑戦者たちを蹂躙するために。




