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城の世璃  作者: 秦江湖


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美食家の憂鬱

 雨の夜だった。   


 この季節にしては珍しく、冷たい北風が吹いている。



 屋敷の裏口に、黒塗りのセダンが滑り込んだ。  運転席から降りてきたのは、犬飼だ。  彼はトランクを開け、いつものように発泡スチロールの箱を抱えて、勝手口を叩いた。



「……お届けものです」



 しわがれた声。  あたしが鍵を開けると、彼は濡れた身体を拭こうともせず、土間に箱を置いた。  蓋を開ける。  中には、霜降りの牛肉がぎっしりと詰まっている。  市場で手に入る最高級品。人間なら、これを見るだけで垂涎ものだろう。


 でも。  リビングのソファに座っていたお兄様は、ピクリとも動かなかった。  本を閉じることもなく、顔も上げない。  ただ、不快そうに鼻を鳴らしただけだ。



「……臭いな」


 お兄様の低い声が、部屋の空気を凍らせた。  犬飼がビクリと震える。


「え……? あ、あの、腐ってはいないはずですが……」


「違うよ、犬飼さん。鮮度の問題じゃない」



 お兄様は、ゆっくりと顔を上げた。  その瞳は、暗闇の中で金色に発光していた。  爬虫類のような縦長の瞳孔が、犬飼を射抜く。


「『死んでからの時間』が長すぎるんだ。  魂が抜けて、ただのタンパク質の塊になった肉からは、何の歌も聞こえてこない。  ……まるで、濡れた段ボールを噛んでいるような味がするんだ」



 お兄様は、溜息をついて本を放り出した。  その左足――ズボンの生地を押し上げるほど太く脈打つ異形の足――が、イライラしたように床を叩く。  ドン、という重い音が、屋敷全体を揺らした。


「申し訳、ありません……! すぐに別のものを……!」


 犬飼が土下座をする勢いで謝る。  お兄様はそれを冷ややかに見下ろし、やがてふわりと微笑んだ。  それは、空腹の猛獣が、檻の鍵が開いていることに気づいた時の笑顔だった。



「いいよ、犬飼さん。君のせいじゃない。  僕の舌が、贅沢になってしまっただけだから」


 お兄様は立ち上がった。  その動きは、重力を感じさせないほど滑らかだ。


「世璃」


「なあに? お兄様」


「着替えておいで。  今夜は、外食にしよう」


 外食。


 その言葉の響きに、あたしの胸が高鳴った。


 ずっとこのお城の中に引きこもっていたあたしたちが、外へ出る。  狩りに行くのだ。



「わあ! デートだね、お兄様!」


「ああ。久しぶりのデートだ。  ……犬飼さん、車を出してくれるね?」



 お兄様の命令は、絶対だった。  犬飼は顔面蒼白になりながらも、首輪をつけられた老犬のように頷いた。



「は……はい。どちらへ……?」


「どこでもいいよ。  賑やかで、生きの良い獲物がたくさんいる場所へ」




 ***




 10分後。  あたしとお兄様は、着替えを済ませて玄関に立っていた。



 お兄様は、黒いロングコートを羽織っていた。


 異形の左足を隠すためと、返り血が目立たないようにするためだ。


 あたしは、那美が持っていた中で一番可愛い、白いワンピースを着た。  少しカビ臭かったけれど、あたしたちには香水のようなものだ。



「似合うよ、世璃。お姫様みたいだ」


「お兄様も素敵。魔王様みたい」



 あたしたちは腕を組んで、雨の降りしきる外へと出た。  犬飼が待機させていた黒塗りのセダンの後部座席に乗り込む。  革張りのシート。閉鎖された空間。  運転席の犬飼からは、強烈な「恐怖」と「絶望」の匂いが漂ってくる。



 車が走り出した。  西伊豆の曲がりくねった山道を下り、街の灯りを目指す。



「ねえ、お兄様。何を食べようか?」



 あたしは窓の外を流れる闇を見ながら、ウキウキと尋ねた。  お兄様は、あたしの肩を抱き寄せながら、夜景のメニュー表を眺めるように言った。



「そうだね……。  脂っこいのは避けたいな。最近、胸焼けがするから」


 それを聞いた犬飼が、ハンドルを握る手に力を込めたのがわかった。  バックミラー越しに、彼の怯えた目が見える。



「あ、あの……静様」


「なんだい?」


「……繁華街の方へ行けば、ガラの悪い連中がたむろしています。  薬の売人や、半グレのような……社会のゴミです。  そ、そういう連中なら……警察もすぐには動きませんし……」



 犬飼は必死だった。  あたしたちが一般市民――特に子供や女性――を襲わないように、精一杯の誘導をしているのだ。  まだ彼の中に、警察官としての良心の欠片が残っているらしい。  滑稽で、愛おしい努力。



 お兄様はクスクスと笑った。


「気が利くね、犬飼さん。  確かに、ゴミ掃除をするのは良いことだ。  それに、そういう連中は生命力が強くて、歯ごたえがありそうだ」


「は、はい……きっとお口に合うかと……」



 犬飼が安堵の息を漏らす。  車は海岸沿いの国道を抜け、ネオンが輝く隣町の歓楽街へと入っていく。  雨に濡れたアスファルトが、街灯を反射してギラギラと光っている。


 窓を開けると、街の匂いが入ってきた。  排気ガス。安っぽい香水。アルコール。そして、欲望と怠惰の匂い。  森の澄んだ空気とは違う、雑多で濃厚な「人間」の匂い。



「……すごい」


 お兄様が、身を乗り出した。  その瞳孔がカッと見開かれる。



「聞こえるよ、世璃。  たくさんの心臓の音が。  ドクン、ドクン、ドクン……。まるで、街全体が巨大なバイキング料理みたいだ」


 お兄様の口元から、唾液が糸を引いた。  もう、我慢の限界だ。  あたしも、お腹の底が熱くなってきた。



「止めろ」


 お兄様が短く命じた。  人気のない路地裏。  薄汚れたバーの裏口あたり。  そこには、獲物になりそうな「質の悪そうな若者たち」の気配が濃厚に漂っていた。



 キキーッ。  車が止まる。  お兄様はドアを開け、夜の街へと降り立った。  アスファルトを蹴る左足が、グチャリと湿った音を立てる。



「さあ、行こうか世璃。  ……狩りの時間だ」


 お兄様が手を差し出す。  あたしはその手を取り、エスコートされて車を降りた。  運転席の犬飼は、ハンドルに額を押し付けて、耳を塞いでいた。  これから始まる惨劇の音を聞きたくないように。



 でも、無駄よ。  今夜の悲鳴は、きっと街中に響き渡るから。


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