汚れたバッヂ
あの嵐の夜、俺が「人間」を辞めてから、数日が過ぎていた杉並署の生活安全課は、異様な緊張感に包まれていた。行方不明になった配信者グループの家族が杉並区に住んでいたことから、杉並署に亭主捜索願いが、正式に受理されたからだ。
「犬飼さん。……やっぱり、おかしいですよ」
デスクで書類を整理していた俺に、相棒の荒田が声を潜めて言った。 こいつは真面目だ。融通が利かないほどに正義感が強い。かつての俺がそうだったように。
「何がだ、荒田」
俺は平静を装い、缶コーヒーを開けた。指先が震えそうになるのを、必死で抑え込む。
「GPSのログです。配信者のひとりのスマホ、最後の信号が途絶えた場所……あの『一家心中屋敷』の敷地内なんですよ」
荒田がタブレットの画面を見せてくる。 地図上に表示された赤い点は、紛れもなくあのお方たちの城――俺が死体処理をした場所を示していた。
「……誤差だろう。あそこは山奥で電波が悪い」
「でも、彼らが借りていたレンタカーも、まだ見つかっていないんです。Nシステムにも引っかからない。まるで、あの山に入ったきり、煙のように消えてしまったみたいに」
荒田の目は、疑念に燃えていた。 その疑いの矛先は、屋敷だけでなく、管轄の担当でありながら「異常なし」と報告し続けている俺にも向き始めている。
「犬飼さん。……あなた、何か隠していませんか?」
ドキリ、と心臓が跳ねた。 鋭い。俺が最近、金回りが良くなっていることや、こそこそと一人で出歩いていることに気づいているのかもしれない。
「馬鹿なことを言うな。俺はただ、慎重に捜査してるだけだ。 ……いいだろう。そこまで言うなら、もう一度あそこへ行くか」
俺は立ち上がった。 これはチャンスだ。いや、こうするしかない。 世璃様は言っていた。『あたしたちの邪魔をするなら、ちゃんと番犬の仕事をしなさい』と。
「えっ、いいんですか?」
「ああ。俺とお前で、非公式にな。令状なしの強行偵察だ。……上には内緒だぞ」
「はい! さすが犬飼さんです!」
荒田の顔がパッと明るくなった。 俺への疑いが晴れ、尊敬する先輩と共に正義を行使できる喜び。 ……すまない、荒田。 俺は心の中で手を合わせた。お前は今日、殉職するんだ。
***
覆面パトカーは、雨の山道を走っていた。 ハンドルを握るのは俺だ。助手席の荒田は、緊張した面持ちで外を見ている。 ワイパーが、嫌な音を立てて雨を拭う。まるで、俺の良心を削り取る音のようだ。
「……犬飼さん。娘さん、ピアノ上手になったそうですね」
沈黙に耐えかねたのか、荒田が世間話を振ってきた。
「え? ああ……まあな」
「奥さんも喜んでたでしょう。やっぱり、犬飼さんはいい父親だなあ。 俺も早く結婚して、犬飼さんみたいな家庭を築きたいですよ」
やめろ。 俺の家族の話をするな。 俺がどんな犠牲を払って、あの「幸せな食卓」を守っていると思っているんだ。
「……荒田。お前、彼女はいるのか?」
「へへ、実は先月できたばかりでして。今度、紹介しますよ」
荒田が照れくさそうに笑う。 その笑顔を見て、俺の中で何かが「プツン」と切れた。 こいつには未来がある。光がある。 だからこそ、俺たちの「闇」を暴こうとする。 共存はできないんだ。
「着いたぞ」
車が止まる。 錆びついた鉄の門。雑草に覆われた庭。 そして、雨に煙る洋館が、巨大な墓石のように俺たちを見下ろしていた。
「……やっぱり、不気味ですね」 荒田が身震いをして、ドアを開けた。
俺たちは懐中電灯を手に、濡れた庭を進んだ。 俺は知っている。この庭の土の下に、何が埋まっているかを。 荒田が踏みしめているその場所は、昨日俺が埋めた配信者の肉片の上だ。
「犬飼さん、見てください。これ……」
玄関ポーチの近くで、荒田が何かを拾い上げた。 泥にまみれた、派手なスマホケースだ。
「これ、行方不明者のものと一致します! やっぱり彼らはここに来ていたんだ!」
「……そうか。手柄だな、荒田」
俺は背後から、荒田に近づいた。 懐の拳銃に手をかける。いや、銃声はまずい。 俺はポケットから、証拠品袋に入れるための「紐」を取り出した。
「すぐに本部に連絡して、応援を……」 荒田が振り返ろうとした、その時だった。
「――遅いよ、犬飼さん」
頭上から声がした。 二階のテラス。 お兄様――静様が、ワイングラス片手にこちらを見下ろしていた。 隣には、白いワンピースの世璃様が、手すりに座って足をぶらつかせている。
「あ……! いたぞ! 居住者だ!」 荒田がライトを向ける。
「警察だ! 話を聞かせてもらおうか!」
静様は眩しそうに目を細め、そして優雅に微笑んだ。
「警察? 奇遇だね。うちにも『警察』がいるよ」
「え……?」
荒田が困惑する。 静様の視線が、ゆっくりと俺に向けられた。
「やれ」
短く、絶対的な命令。 俺の身体が、思考より先に動いた。
「うおおおおッ!」 「い、犬飼さん!?」
俺は背後から、荒田の首に紐を巻き付けた。 力任せに絞め上げる。
「ぐっ……がぁッ!?」
荒田がもがく。爪が俺の腕を引っ掻く。 苦しい。痛い。 でも、離すわけにはいかない。離せば、俺が終わる。美咲の未来が終わる。
「すまない……すまない荒田……!」
「か、は……な、んで……」
荒田の目が、驚愕と絶望に見開かれる。 尊敬していた先輩に殺される。その理不尽さが、彼の瞳から光を奪っていく。 俺は涙と鼻水を垂れ流しながら、弟のように可愛がっていた男の首を絞め続けた。
数分後。 荒田の身体から力が抜け、どさりと泥の中に崩れ落ちた。
「……ハァ、ハァ、ハァ……」
俺はその場にへたり込んだ。 自分の手が震えている。荒田の首に残った赤い紐の跡が、蛇のように目に焼き付く。
「よくできました」
玄関のドアが開き、世璃様が出てきた。 彼女はスキップをして近づき、荒田の死体をつんつんとつついた。
「まだ温かいわ。……新鮮なうちに処理しないとね」
「世璃様……これで、俺の家族は……」
「うん。守ってあげる。 だってあなたは、可愛い後輩を殺してまで、あたしたちを選んでくれたんだもの」
世璃様は、俺の頭を撫でた。 その手は冷たくて、恐ろしいほど優しかった。




