首輪の締め方(犬飼)
その夜、俺は自宅のリビングで、震える手でウィスキーを煽っていた。
テレビのニュースが、西伊豆で行方不明になった4人の若者について報じている。 配信者グループ。最後の足取りは不明。 警察は公開捜査に踏み切る方針だという。
「……う、うぅ……」
俺は胃液が逆流するのを堪えた。
知っている。俺は知っている。
あいつらがどこへ行ったのか。
そして、今頃どうなっているのか。
昨日、俺が屋敷へ食料を運び込んだ時、裏庭の土が新しく盛り上がっていた。 そして、世璃が渡してきた「ゴミ袋」の中には、砕けたスマホや、血の付いたスニーカーが混じっていた。 『処分しておいてね』と、彼女は無邪気に笑った。
俺は共犯だ。 株の儲けで借金を返し、娘にピアノを買い与え、妻と笑い合っているこの生活は、若者たちの血肉の上に成り立っている。
「……パパ?」
ふと、背後で声がした。 娘の美咲だ。パジャマ姿で、眠そうな目を擦っている。
「どうしたの? 怖い顔して」
「……なんでもない。悪い夢を見ただけだ」
「ふうん。……ねえパパ、今度の発表会、絶対に来てね」
美咲が無邪気に笑う。 その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが崩れ落ちた。
――俺は、こんな汚れた手で、この子の頭を撫でていいのか? いつか、この子が知ったら? パパは人食い怪物の手先で、殺人の隠蔽を手伝っていると知ったら?
耐えられない。 もう限界だ。 俺は立ち上がった。
「……美咲。パパは、ちょっと出かけてくる」
「え? こんな時間に?」
「ああ。……悪い怪物を、退治しにな」
俺は娘を抱きしめた。これが最後になるかもしれない。 俺はクローゼットから、封印していた「正義」を取り出した。 警察手帳。拳銃。そして、ガソリンが入った携行缶。
刺し違えてやる。 あの兄妹を焼き殺して、俺も死ぬ。 そうすれば、少なくとも娘の未来に、これ以上の罪を残さずに済むはずだ。
***
深夜の豪雨の中、俺は西伊豆へと車を飛ばした。
屋敷に到着したのは、丑三つ時だった。
闇に聳える洋館は、生き物のように不気味な息遣いを放っている。
俺は門を乗り越え、ガソリンの缶を抱えて庭に入った。
雨音に紛れて、ガソリンを撒く。
玄関、窓枠、通気口。
揮発性の油の臭いが、雨の臭いと混ざり合う。
「死ね……死んでくれ……!」
俺は泣きながら、ライターを取り出した。 手が震えて、なかなか火がつかない。 カチッ、カチッ。 ようやく小さな炎が灯った。 これを投げれば、全てが終わる。
「……熱いのは、嫌いだよ」
耳元で、男の声がした。
ヒュッ。
風を切る音がして、俺の手からライターが弾き飛ばされた。
炎が消え、闇に戻る。
「あ……あ……」
俺は腰を抜かして振り返った。 そこに立っていたのは、静だった。 車椅子ではない。自分の足で立っている。 雨に濡れた黒髪。青白い肌。 そして、異様に膨れ上がった左足。
「よ、よくも……お前ら……!」
俺は懐から拳銃を抜いた。 躊躇いはない。引き金を引く。
パン! パン!
二発の銃弾が、静の胸に着弾した。 やった。 俺は確信した。心臓だ。即死のはずだ。
だが。 静は揺らぎもしなかった。 胸に開いた穴から、黒い煙のようなものが立ち上り、傷口がウネウネと蠢いて塞がっていく。 数秒後には、そこには傷跡すら残っていなかった。
「痛いじゃないか」
静は、無表情のまま俺を見下ろした。 その瞳は、金色に発光していた。 人間じゃない。 こいつはもう、物理法則の外側にいる生き物だ。
「犬飼さん。君は賢い番犬だと思っていたのに」
静が一歩踏み出す。 俺は後ずさり、泥の中に尻餅をついた。
「残念だよ。飼い主に噛み付くなんて」
静が左足を振り上げた。
ドガッ! 俺の鳩尾に、凄まじい衝撃が走る。 俺は数メートル吹き飛び、壁に激突した。 肋骨が折れる音。口から血の泡が溢れる。
「がっ……は……ッ!」
息ができない。視界が霞む。 薄れゆく意識の中で、玄関の扉が開くのが見えた。 中から、世璃が出てくる。 彼女の手には、銀色のトレイが握られていた。
「あらあら。お腹が空いて、暴れちゃったのね?」
世璃は、慈母のような微笑みで俺に近づいた。 トレイの上には、何かが乗っている。 湯気を立てる、ローストされた肉塊。 香ばしい、食欲をそそる匂い。
「可哀想な犬飼さん。 最後の晩餐に来てくれたのね」
世璃が俺の目の前にトレイを置いた。 そして、俺の髪を掴んで、無理やり顔を上げさせた。
「食べて」
「……は?」
「これを食べたら、許してあげる。 美咲ちゃんには手を出さないであげる」
俺は肉を見た。 ただの肉だ。何の変哲もない、ステーキのように見える。 だが、その横に添えられている「付け合わせ」を見て、俺は絶叫しそうになった。
指輪だ。 派手な装飾の、安っぽいシルバーリング。 それは、行方不明になった配信者の男がつけていたものだ。 ニュース映像で見た。間違いなく、あいつのものだ。
ということは、この肉は。
「い、いやだ……! それだけは……!」
俺は首を振った。 人肉だ。 これを食ったら、俺は人間じゃなくなる。 怪物と同じ、共喰いの獣に堕ちる。
「食べなさい」
静の冷たい声。 世璃が、俺の口をこじ開ける。 肉片が口の中に押し込まれる。
拒絶したい。吐き出したい。 なのに、俺の身体は、飢えた獣のように反応した。
噛んだ。 肉汁が溢れる。 ……美味い。 涙が出るほど、絶望的に美味い。
俺は泣きながら、肉を飲み込んだ。
ゴクリ。
重たい塊が、胃袋に落ちる。 その瞬間、俺の中の「人間」が死んだ。
「……よくできました」
世璃が、俺の頭を撫でた。 ペットを褒めるように。
「これであなたも『共犯』よ。 もう警察には行けないし、誰にも言えない。 だって、あなたのお腹の中には、証拠(死体)が入っているんだもの」
俺は地面に突っ伏して、慟哭した。 終わった。 俺の魂は、この屋敷に鎖で繋がれた。 死ぬまで、いや死んでも、こいつらの奴隷として生きるしかないのだ。
雨が、俺の涙と、口の周りについた脂を洗い流していく。 静と世璃は、そんな俺を冷ややかに見下ろしていた。 美しい、地獄の王と王女のように。




