愛の脱皮
それから、お兄様の身体の変化は劇的だった。 毎日、大量の生肉と、少し古くなった血を摂取することで、あたしの細胞がお兄様の全身に行き渡ったのだ。
ある雨の夜。 あたしたちは、浴室にいた。 猫足のバスタブには、ぬるめのお湯が張られている。 お兄様はバスタブの縁に腰掛け、あたしはその背中を流していた。
「……痒いんだ」
お兄様が、背中を小さく震わせて言った。
「背骨のあたりと、肩甲骨の裏側が。 皮膚の下で、何かが蠢いているみたいに」
「見てあげるね」
あたしは、お兄様の背中をスポンジで擦った。 ボロボロ、と白いものが落ちる。垢ではない。
古くなった皮膚だ。
日焼けのあとの皮が剥けるように、お兄様の背中の皮膚が、大きくめくれ上がっている。
「脱皮してるのよ、お兄様」
あたしは指先で、浮き上がった皮膚の端をつまんだ。
ペリペリ、ペリ……。
薄い紙を剥がすような、乾いた音が浴室に響く。 痛みはないらしい。お兄様はむしろ、気持ちよさそうに吐息を漏らしている。
「……ああ、そこだ。そこが痒かったんだ」
あたしは慎重に、背中全体を覆っていた「人間の皮」を剥ぎ取った。 その下から現れた新しい皮膚は、驚くほど美しかった。
人間の肌色ではない。 青白く、硬質で、濡れた陶器のような光沢を放っている。 爪で弾くと、コン、と硬い音がしそうだ。
「綺麗だよ、お兄様。 ツルツルで、とっても硬い。これなら、ナイフで刺されても傷つかないわ」
あたしは、新しくなった背中に頬ずりをした。 冷たくて、滑らかな感触。 まるで、大理石の彫刻に触れているみたい。 お兄様は、あたしの髪が触れる感触を楽しんでいるようだった。
「不思議だね。 身体が変わっていくのに、恐怖はないんだ。 むしろ、今まで着ていた窮屈な服を脱ぎ捨てたみたいに、清々しい気分だ」
お兄様が、自分の手を見つめる。 指先も変化していた。 爪が黒く変色し、以前より少し鋭く伸びている。 それはもう、本をめくるための指ではなく、肉を引き裂くための指だ。
「感覚も、鋭くなった気がする」
お兄様が、浴室の窓――曇りガラスの向こうを見据えて言った。
「雨の音が、一粒ずつ聞こえるんだ。 屋根に落ちる音、地面に染み込む音、葉っぱを叩く音。 それが全部、オーケストラの楽器みたいに聞き分けられる」
あたしは頷いた。 聴覚の強化。捕食者に必要な能力だ。 獲物の足音や心音を、遠くからでも察知できるように。
「目もだよ。 電気を消しても、部屋の中が昼間みたいによく見える。 君の体温が、赤いオーラみたいに揺らめいているのが見えるんだ」
サーモグラフィーのような熱感知能力。 お兄様は、もう人間としての五感を捨て去り、あたしと同じ世界の捉え方を手に入れたのだ。
「すごいね、お兄様。 もう、あたしたちを脅かすものは何もないね」
あたしは、剥がれ落ちた大量の「人間の皮」を、排水溝に流した。 水流に乗って、渦を巻きながら吸い込まれていく残骸。 さようなら、人間だった静。 ようこそ、化け物の静。
「……世璃」
お兄様が、濡れた手で私の首を引き寄せた。 その瞳は、爬虫類のように縦に細く収縮していた。
「背中を流してくれたお礼に、君の髪を梳かしてあげよう」
お兄様は、鋭くなった爪で、あたしの髪を優しく梳いた。 クシなんていらない。その爪が、最高の手入れ道具だ。 頭皮に爪先が触れるたび、ゾクゾクするような快感が走る。
これは、ただの入浴じゃない。 野生動物が互いの毛並みを整え合う、毛づくろいだ。
言葉はいらない。 互いの体温と匂いを確認し合い、群れとしての絆を深める儀式。
あたしは目を閉じて、喉を鳴らした。 ゴロゴロ、ゴロゴロ。 お兄様の爪が、あたしの耳の後ろを掻く。気持ちいい。
「愛しているよ、世璃。 君と同じ形になれて、僕は幸せだ」
お兄様の声が、鼓膜ではなく、脳髄に直接響いてくる。
あたしもよ、お兄様。 あたしたちは、世界でたった二匹だけの、孤独で完璧な種族になったのね。
浴室の鏡が曇っている。
そこに映るのは、美しい怪物と、それに寄り添う少女の影だけ。
外の世界では、まだ雨が降り続いている。 でも、このお城の中だけは、甘い腐敗臭と、熱っぽい愛で満たされていた。




