拒絶する舌
お兄様が、新しい足で立ち上がってから、数日が過ぎた。 あの一夜の舞踏のあと、お兄様は泥のように眠り続け、そして目覚めたときには、世界が変わっていた。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
お兄様はベッドの上で、呆然と自分の手を見つめていた。 その皮膚は、以前のような病的な白さではなく、陶器のような硬質なツヤを帯びている。 血管の色も、青ではなく、少し黒ずんだ紫色に見える。
「……おはよう、お兄様」
あたしは、サイドテーブルに朝食のトレーを置いた。 トースト、スクランブルエッグ、そして温かい紅茶。 人間だった頃のお兄様が好きだったメニューだ。
「おはよう、世璃」
お兄様の声は、少し低くなっていた。 チェロの音色に、重たいベース音が混じったような響き。 お兄様は微笑もうとして、顔の筋肉が強張っていることに気づいたようだった。
「お腹、空いたでしょう? たくさん食べてね」
あたしはナイフとフォークを渡した。 お兄様は頷き、トーストを手に取った。
サクッ。
香ばしい音がする。 でも、お兄様がそれを口に運んだ瞬間、異変が起きた。
ガリッ。
お兄様が、顔をしかめた。 口の中に入れたトーストを、咀嚼しようとして、動きが止まる。 喉が上下し、飲み込もうとするけれど、食道が拒絶して動かない。
「……うッ、ぐぅッ……!」
お兄様は手で口を覆い、激しく咳き込んだ。 ボロボロと、噛み砕かれたパン屑がシーツに落ちる。
「お兄様!?」
「ご、ごめん……なんだか、変なんだ」
お兄様は、涙目で謝った。 そして、恐怖に震える声で言った。
「味が……しないんだ。 いや、味がしないどころか……まるで、乾いたスポンジか、砂を噛んでいるみたいだ。 喉が焼けるように痛くて、飲み込めない」
あたしは、お兄様の背中をさすった。 やっぱり。 恐れていた変化――いいえ、期待していた変化が始まったのだ。
あたしの細胞を取り込み、身体の構造が書き換わったことで、お兄様の「食性」が人間のものではなくなってしまった。 炭水化物や、加熱した植物なんて、今の彼にとってはただの異物でしかない。
「じゃあ、卵は? これなら柔らかいし……」
お兄様は、震える手でスクランブルエッグを口にした。 でも、結果は同じだった。 口に入れた瞬間、強烈な吐き気を催したように、戻してしまった。
「うぇッ……! くそっ、なんだこれ……! 硫黄と、腐ったプラスチックの味がする……!」
お兄様はベッドから転げ落ち、床に這いつくばって嘔吐した。 胃の中は空っぽだから、黄色い胃液しか出てこない。 その胃液からも、ツンとする薬品のような異臭が漂う。
あたしは、床に散らばった食事を冷ややかに見つめた。 人間の食べ物。 あたしたちには、もう必要のないゴミ。
「……世璃、僕は……どうなっちゃったんだ……」
お兄様が、絶望に染まった瞳であたしを見上げる。 空腹で目が回っているはずなのに、目の前の食事は毒物にしか見えない。 飢餓感と、拒絶反応。 その狭間で、お兄様の理性がきしみ音を立てている。
あたしはしゃがみ込み、お兄様の汗ばんだ髪を撫でた。
「大丈夫だよ、お兄様。 身体が、もっと『栄養のあるもの』を欲しがっているだけだから」
「栄養……?」
「うん。もっと濃くて、生のエネルギーが詰まったもの。 ……待ってて。あたしが『ご飯』を獲ってくるから」
あたしは立ち上がった。 お兄様には、もう人間の食事は合わない。 今の彼に必要なのは、血の滴る生肉と、恐怖のエキスだ。
あたしは部屋を出て、地下の貯蔵庫へと向かった。 そこには、犬飼が運んできた最高級の牛肉のブロックがある。 でも、ただの肉じゃダメ。 少し時間が経って、熟成(腐敗)が進みかけた、あの独特の香りがする肉じゃないと。
あるいは。
もっと新鮮な――生きて動いている獲物が必要かもしれない。




