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城の世璃  作者: 秦江湖


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約束して

その日は、朝から空が低かった。  台風が近づいているという予報通り、生暖かい風が屋敷の窓をガタガタと揺らしていた。  湿度計の針は100%を指している。  屋敷全体が水底に沈んだように息苦しい。



 僕は自分の部屋で、車椅子に座ったまま爪を噛んでいた。  今日だ。  今日、あの儀式が行われる。


 廊下を歩く両親の足音が、朝から慌ただしい。  父の怒鳴り声と、母の高い笑い声が聞こえる。二人は興奮状態にある。  


 この土地の底に眠る「泥の王」を招き入れ、桁違いの莫大な富と力を手に入れるのだと、狂ったように信じ込んでいる。


「……止めなきゃ」


 僕は震える手で車椅子の車輪を掴んだ。  那美が危ない。  あんな痩せ細った身体で、これ以上「おまねき」なんてさせたら、彼女の精神が砕けてしまう。  僕は部屋を出ようとして、ドアノブに手をかけた。


 コン、コン。


 向こう側から、静かなノックの音がした。  心臓が跳ねる。  両親の乱暴なノックではない。控えめで、優しいリズム。


「……那美?」


「うん。入ってもいい? 兄さん」


 ドアが開き、那美が入ってきた。  僕は息を呑んだ。  彼女はすでに「死装束」に着替えていた。  純白の着物。長く伸ばした黒髪は、椿油で艶やかに整えられている。  


 化粧をしているせいだろうか。その顔色は、陶器のように白く、唇だけが血のように赤い。  この世のものとは思えないほど美しく、そして不吉だった。



「那美、その格好……」


「これから支度があるから、今のうちに挨拶に来たの」


 那美は、僕の前に膝をついた。  その瞳は、嵐の前の湖面のように静まり返っていた。  昨夜の、「あの子(怪物)」の話をしていた時の不安定さは微塵もない。  あるのは、透き通った覚悟だけだ。



「兄さん。約束して」


 那美が僕の手を包み込む。  その手は氷のように冷たかった。


「これから何があっても、どんな音が聞こえても、絶対にこの部屋から出ないで」


「どうして? 那美、君は何をする気だ?」


「終わらせるの」


 那美は淡々と言った。  まるで、少し散らかった部屋を片付けるような口調で。


「この家の呪いも、パパたちの欲望も、全部。  ……兄さんだけは、私が絶対に逃がしてあげる」


「逃がすって……君はどうなるんだ!?」


 僕が叫ぶと、那美はふわりと微笑んだ。  それは、聖母の慈愛と、死刑囚の諦念が混ざり合ったような笑顔だった。



「私は『器』だから。中身がいっぱいになったら、割れるしかないの」


 那美は立ち上がり、懐から何かを取り出した。  鍵だ。  この部屋の鍵。いつの間に持ち出したのだろう。


「那美!」


 僕は車椅子から身を乗り出して、彼女の袖を掴もうとした。  だが、指先は空を切った。  那美は風のように身を翻し、廊下へと出ていった。


「愛してるよ、兄さん。  ……さようなら」


 バタン。  ドアが閉まる。  カチャリ、と鍵がかけられる音がした。  外側からだ。



「開けろ! 那美、開けてくれ!!」


 僕はドアを叩いた。  ノブをガチャガチャと回す。でも、びくともしない。  僕は閉じ込められた。  妹に守られるという形をした、牢獄の中に。


 廊下の向こうから、両親の声が聞こえてくる。


『おい那美! 遅いぞ! 準備はできているのか!』


『はい、パパ。今行きます』


 那美の声は明るかった。  遠足に行く子供のように、無邪気で、残酷な響きを含んでいた。  遠ざかる足音。  そして、広間の方角から、儀式の始まりを告げる太鼓の音が響き始めた。



 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ……。



 僕はドアにもたれかかり、無力感に泣き崩れるしかなかった。


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