キッチン
6月。西伊豆の山奥は、腐ったような湿気に包まれていた。 窓ガラスには水滴がびっしりと張り付き、壁紙の裏では黒いカビが静かに呼吸をしているのがわかる。
「……お兄様。また、流れない」
あたしは、キッチンのシンクを睨みつけて言った。 洗い物をしていた水が、渦を巻くこともなく溜まっている。 箸で排水口の奥をつついてみるけれど、手応えはヌルヌルとしていて、まるで内臓の中を探っているみたい。
ボコッ、ボコッ……。
奥底から、何かがゲップをするような音が響く。 臭い。 生ゴミの臭いじゃない。もっと甘くて、脂っこい、叔父様の臭いだ。
「困ったね。やっぱり、骨ごと砕いたのがいけなかったかな」
リビングの窓際で、お兄様が困ったように眉を下げた。 車椅子の上のお兄様は、雨のせいで古傷が痛むのか、膝に厚手のブランケットを掛けている。
その顔色は白いけれど、瞳だけはガラス玉みたいに透き通っていて、綺麗。
「ねえ、世璃。お肉の処理は『ミキサー』でする約束だったろう?」
「だって、面倒だったんだもの。それに、この家が叔父様を食べたがってる気がしたのよ」
あたしはゴム手袋を外し、シンクに溜まった濁った水を指で弾いた。
叔父様の一部が溶け込んだ水。 これが床下を通って、暗い地面の下へ染み込んでいくのを想像すると、少しだけゾクゾクする。
「……犬飼に電話して。『掃除屋』を寄越すようにって」
お兄様が静かに命じた。 あたしは頷いて、スマホを手に取った。
数時間後、やってきたのは小太りで脂ぎった男だった。 名前は安田といったかしら。 玄関に入ってきた瞬間、タバコと汗の混じった臭いがして、あたしは鼻をつまんだ。
「へえ、こりゃ立派な屋敷だ。……でも、湿気がすげぇな」
男はジロジロとあたしの足や、車椅子のお兄様を見て、下品な笑みを浮かべた。 彼は知っているのだ。ここが「普通の家」じゃないことを。 犬飼が手配する業者は、みんなそうだ。死体の始末や、血糊の清掃になれた「裏のプロ」。だからこそ、足元を見る。
「嬢ちゃん、キッチンはどっちだ? 俺が見てやるよ」
男があたしの肩に触れようとした瞬間、お兄様が車椅子をきしませて言った。
「……触らないでくれるかな。君の手は、汚すぎる」
お兄様の声は低く、冷たかった。 男は「ケッ」と舌打ちをして、道具箱を抱えてキッチンへと向かった。 あたしはその後ろ姿を見送る。
背中の脂肪が揺れている。 ……この人、脂身が多そう。また詰まっちゃうかもしれないわね。
あたしは、お兄様のために温かい紅茶を淹れ直すことにした。 床下から聞こえるであろう、愉快な悲鳴を讃美歌にするために。




