あたしがみんな、やっつけてやる!
ドカドカ、という下品な足音が、あたしたちの城の静寂を踏み荒らした。 玄関ホールに、泥と雨の臭いが充満する。
「おい、手分けして探すぞ。叔父と、消えた女の痕跡を探せ」
「犬飼さん、しかし」
「いいからやれ!保護するんだよ!」
「は、はい!」
親玉は犬飼というのか。あたしは覚えたぞ。
犬飼刑事が指示を飛ばし、若い刑事が慌ただしく奥の部屋へと走っていく。 彼らは靴を脱ごうともしない。 あたしが昨日、綺麗に磨き上げた床に、黒い泥の足跡が点々と刻まれていく。
――汚い。 あたしの視界が、怒りで赤く染まる。 ここはあたしとお兄様の聖域だ。 外の世界のゴミが、勝手に入り込んでいい場所じゃない。
「やめてください! 妹が、妹が怯えているじゃないですか!」
お兄様が、車椅子を必死に操作して、犬飼刑事の前に立ち塞がろうとした。 でも、犬飼刑事はそれを鼻で笑って、片手で乱暴に押しのけた。
「どいてなさい、足の悪いお坊ちゃん。 俺たちは遊びで来てるんじゃないんだ。あんたの叔父さんと、先日ここに来たはずの女性はどこへやった?」
犬飼刑事が、お兄様の胸ぐらを掴んで引き寄せた。 その顔は、獰猛な野犬そのものだった。 白髪交じりの短髪。血走った目。 その奥には「正義」ではなく、自分の手柄と金への「焦り」が濁っている。
「知りません! 叔父さんは旅に出たし、先生はちゃんと帰りました!」
「とぼけるなよ。この家の人間がイカれてるのはわかってるんだ。 ……おい、そこの妹!」
不意に、矛先があたしに向けられた。 犬飼刑事が、ヌルリとした視線であたしを舐め回す。
「お前だろ? 『世璃』ちゃんとか言ったな。 お前みたいな精神異常者が、発作を起こして殺したんじゃないのか? 1年前の事件みたいにな!」
お兄様の顔が歪む。 お兄様から、悲鳴みたいな匂いがした。 恐怖。屈辱。そして、守れなかった過去への悔恨。
プツン。 あたしの中で、理性の弦が焼き切れた。
頭の中が沸騰する。 許さない。 お兄様に触るな。お兄様をいじめるな。 お兄様を「イカれてる」なんて言うな。
「……あ」
あたしは喉を鳴らして、刑事たちの前に飛び出した。 犬飼刑事がギョッとして手を離す。 あたしは歯を剥き出しにして、獣のように叫んだ。
「あたしがみんな、やっつけてやる!」
その言葉は、あたしの思考を通さずに、脊髄反射で飛び出した。 いや、違う。 これはあたしの言葉じゃない。 この身体の持ち主だった、死んだ「那美」の記憶の底から湧き上がってきた、呪いの言葉だ。
1年前のあの日。 那美が、両親という化け物を殺すために吐き捨てた、最期の決意。 それが今、あたしの口を借りて再生される。
「お前らもバラバラにしてやる! あの時みたいに! お兄様を仲間外れにして、変な踊りを踊ってた『儀式』のやつらみたいに! あたしが噛みちぎって、引き裂いて、みんなみんやっつけてやるんだから!!」
シン、と玄関ホールが凍りついた。 若い刑事・荒田が、青ざめた顔で立ち尽くしている。 犬飼刑事の目にも、動揺の色が走った。
「おい……今の、どういう意味だ?」 「儀式? バラバラ?」 「まさか、1年前の一家心中は……本当にこいつが……」
犬飼の手が、腰のホルスターに伸びる。 殺気。 あたしは構わず飛びかかろうとした。 爪を立てて、あの喉笛を食い破る。今すぐに。
その時。
ガシッ!
後ろから、強い力で抱きすくめられた。 お兄様だ。 お兄様が、車椅子から転げ落ちるようにして、泥だらけの床を這い、あたしにしがみついている。
「やめろ! 世璃、落ち着くんだ!」
「離して、お兄様! こいつらがお兄様をいじめるから! あたしが食べてやるの! 那美がやったみたいに、あたしが!」
「違う! 違うんだ!」
お兄様は、あたしの口を塞ぐようにして、自分の胸に顔を押し付けた。 そして、刑事たちに向かって絶叫した。 その声は、泣き出しそうに震えていた。
「すみません、許してください! この子は……妹は、あの日見てしまったんです!」
「なに?」
「両親が狂って、お互いを殺し合うところを! だから制服の人や、怒鳴り声を聞くと、あの日の記憶がフラッシュバックして、自分がやったと思い込んでしまうんです! 『自分が殺してでも止めたかった』という妄想に取り憑かれているんです!」
お兄様の必死な嘘。 刑事たちは顔を見合わせ、毒気を抜かれたように手を下ろした。 精神錯乱者のたわ言。 可哀想な被害者のパニック。 そう処理することにしたらしい。
「……なんだ、やっぱり頭がイカれてるのか」
「犬飼さん、これ以上はマズイですよ。興奮させて発作でも起こされたら……」
荒田が犬飼の袖を引く。 犬飼はチッ、と大きく舌打ちをして、あたしを睨みつけた。
「……気味が悪い娘だ。行くぞ、ここは一旦引き上げる」
「ですが、行方不明者の手がかりは……」
「出直すんだよ! 令状を取ってからな!」
犬飼は吐き捨てるように言うと、踵を返した。 だが、去り際に一度だけ振り返り、粘着質な視線をお兄様に投げかけた。 『これで終わったと思うなよ』という目だ。
バタン。 重厚な扉が閉まる音がした。 パトカーのエンジン音が遠ざかっていく。
お兄様の腕の中で、あたしは暴れるのをやめた。 お兄様の心臓が、早鐘のように打っている。 ドクン、ドクン、ドクン。 その音が、あたしの鼓膜に痛いほど響く。
お兄様は知っているの? あたしが本当に、パパとママを「お掃除」したことを。 それとも、本当にあたしが可哀想な病気だと思っているの? いいえ、違う。 お兄様が怯えているのは、警察じゃない。
お兄様は、あたしの叫び声の中に、「死んだ那美」を見たのだ。 あの日、自分を守るために死んでいった妹の幻影を。 だから止めたのだ。 あたしが警察を殺すのを止めたのではなく、「また妹が自分のために手を汚す」という悪夢が繰り返されるのを、必死で止めたのだ。
「……大丈夫だよ、世璃」
お兄様は、泥だらけの床に座り込んだまま、震える手であたしの頭を撫で続けた。
「僕が守るから。 ……僕が、全部忘れさせてあげるから」
その言葉は、あたしに向けたものじゃない。 自分自身に言い聞かせている、悲痛な祈りだった。




