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城の世璃  作者: 秦江湖


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13/32

城の平和は、今日も守られた

 「……ごめんなさい、先生」 


 お兄様が、先生の手をそっと離した。  名残惜しそうに、指先が触れ合うギリギリのところで、ためらいながら。  俯いたまま、かすれた声で言った。



「僕は……ここを離れるわけにはいきません」


「どうして!?」  


先生が身を乗り出す。


「お金のことなら心配しなくていいのよ。叔父様の許可だって、法的な手続きをとれば……」


「違うんです」  


お兄様は首を横に振った。  そして、隣に座っているあたしの肩を抱き寄せた。



「世璃がいるからです。  この子は、僕がいないと生きていけないんです。  両親があんなことになって……精神的にも不安定で。  僕が守ってあげなきゃいけないんです」



 ――嘘つき。


 あたしは、お兄様のシャツ越しに伝わる心臓の音を聞いていた。  ドクン、ドクン。  早鐘を打っている。  お兄様は嘘をついている。



 守られているのは、お兄様のほうだ。  一人になるのが怖くて、那美の幻影を失うのが怖くて、あたしという怪物に縋っているのは、お兄様のほうなのに。 でも、お兄様はそうやって「妹を守る兄」という役割を演じていないと、心が壊れてしまうのだ。



 そして、その見え透いた嘘が、私と一緒にいることを選択してくれた結果だと思うと、心臓が張り裂けそうなくらいの喜びに満たされる。



――ああ!お兄様!なんて優しいんだろう!



「静くん、それはよくないわ!  君が犠牲になることはないの。世璃ちゃんだって、専門の施設に入ったほうが幸せになれるわ!」


黙れ、黙れ、黙れ!あたしたちの幸せを冒涜する奴め!邪悪な冒涜者!!


「帰ってください」


 お兄様は顔を背けた。 拒絶の言葉。でもその声は、泣き出しそうに震えていた。


「……お願いします。もう、構わないでください」


 部屋に、重たい沈黙が落ちた。 先生はしばらく黙って、お兄様の横顔を見つめていたけれど、やがて深く、諦めたようなため息をついた。



 彼女は悟ったのだ。 今の静くんには、何を言っても届かない、と。 でも、それは「撤退」であって「敗北」ではない。 彼女の目には、まだ強い光が宿っている。  『今日は引くけれど、次はもっと強引な手段を使ってでも連れ出す』という決意の光だ。



 ――しつこい泥棒猫。 一度狙い定めたら離さない、邪悪な冒涜者。  



生かしてはおけない。



「わかったわ。今日は帰るわね」


 先生は立ち上がり、鞄を持った。  そして、あたしの頭を撫でようと手を伸ばしてきた。


「世璃ちゃんも、お大事にね。……また来るから」


 触るな。  そのきれいな手で、あたしに触れるな。  あたしは反射的に、先生の手首を噛みちぎりそうになったけれど、ぐっと堪えた。 お兄様が見ているから。 リビングを血の海にしたら、お兄様が掃除をする羽目になってしまうから。



「はい。さようなら、先生」


 あたしはニッコリと笑った。 先生は背を向けて、玄関へと歩いていく。


「世璃。……先生を、門までお見送りしてあげて」


 お兄様が、疲れきった声で言った。  あたしは弾むような声で答えた。


「うん! わかった、お兄様!」



 あたしはスキップするように、先生の後ろを追いかけた。  玄関を出る。  外の空気は、雨上がり特有の湿気を帯びていた。  昨日の雨で、庭の土はぬかるんでいる。  柔らかい土。  穴を掘るには、ちょうどいい日だ。



 先生のパンプスが、泥に沈む。  彼女は足元を気にしながら、鉄の門へと向かう。  あたしはその背後を、足音を消して歩いた。


 5メートル。  10メートル。  リビングの窓からは、もう見えない死角に入った。



「先生、待って」


 鉄の門の手前で、あたしは呼び止めた。  先生が立ち止まり、振り返る。


「なあに、世璃ちゃん? ……やっぱり、お兄様のこと心配?」


 先生は、あたしに優しい目を向けた。  どこまでも「善人」な人。 しかし、あたしにとっては違う。 自分が今、断崖絶壁の縁に立っていることも知らずに、私を見ている。



 あたしは一歩近づいた。  鼻をひくつかせる。  ああ、やっぱり。  正義のにおいがする肉は、とっても美味しそうだ。  叔父様の脂っこい肉とは違う、上質な赤身の匂い。



「あのね、先生。いいことを教えてあげる」


 あたしは先生の耳元に口を寄せた。  先生は屈み込んで、耳を貸してくれた。


「お兄様はね、あたしの『ご飯』なの」


「え……?」


「お兄様の絶望も、時間も、人生も、ぜんぶあたしが食べてあげるの。 だから、泥棒猫は……」



 あたしの口が、みしりと音を立てて裂けた。  人間の関節が外れる、嫌な音。  先生が目を見開き、息を呑む。  その瞳に、あたしの口の中の「深淵」が映る。


「――食べちゃわないと、いけないの」


 先生が悲鳴をあげる暇は、なかった。


 ガブッ。  あたしは先生の喉笛に食らいついた。  熱くて、鉄の臭いがするスープが口の中に溢れる。  先生の鞄が落ちて、泥の中に沈んだ。


 ゴボッ、ヒューッ……。  先生の喉から空気が漏れる音。 この音を聞くといつも笑ってしまう。 先生は膝から崩れ落ち、泥の上で弱々しい力でもがいた。  あたしはその身体を押さえつけ、無邪気に笑った。



 大丈夫よ、先生。  痛いのはもうお終い。  あたしが綺麗に食べて、お庭の百合の花の下に埋めてあげる。  そうしたら、あなたは永遠にお兄様の側にいわれるわ。なれるわ。


 窓の向こうで、お兄様が待っている。  早く戻らなきゃ。  お茶が冷めてしまう前に。




10分後。  あたしはリビングに戻った。  玄関でスニーカーを脱いだとき、泥と一緒に、赤黒い塊がいくつか落ちたけれど、それは後で掃除すればいい。  


 口の周りだけは、洗面所で丁寧に洗ってきた。  鏡に映るあたしの顔は、少し血色が良くなって、ツヤツヤしている。  やっぱり、善人の肉は栄養価が高いみたい。



「……世璃?」


 リビングに入ると、お兄様が振り返った。  彼はソファで膝を抱えて、ぼんやりと窓の外を見ていた。  その視線の先、庭の片隅には、新しく植えられた百合の球根がある。  あたしがさっき、先生と一緒に埋めた場所だ。


「先生は?」


 お兄様が聞いた。  声が震えている。  あたしは、パジャマのポケットに手を突っ込んだまま、明るく答えた。



「帰ったよ。  『もう二度と来ない』って言ってた」


「……そうか」



 お兄様は、それ以上なにも聞かなかった。  先生が乗ってきたタクシーの音がしなかったことも。  あたしが戻ってくるのが、見送るにしては少し遅かったことも。  そして、あたしのパジャマの裾に、泥と鉄錆のようなシミがついていることも。



 すべてを見て、見ないふりをした。  賢いお兄様。  優しいお兄様。  そう、それでいいの。  外の世界のことなんて、お兄様は知らなくていい。



「お腹すいたね、お兄様。  きょうの夕飯は、あたしが作るね」


「……うん」



 お兄様は力なく頷いた。  その横顔は、さっきまでの希望に満ちた顔じゃなかった。  光を失って、あたしと同じ「こちらの世界」に沈んでいく人の顔だ。  その絶望の匂いが、あたしの食欲をまた刺激する。



 あたしは鼻歌交じりにキッチンへ向かった。  窓の外では、また雨が降り出している。  雨がすべてを洗い流し、土を固めてくれるだろう。  来年の春には、庭の百合が、今までで一番きれいに咲くはずだ。



 ――さようなら、先生。  お兄様は渡さない。  お兄様は、あたしだけのものだから。



 冷蔵庫を開ける。  城の平和は、今日も守られたのだ。





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